RECORD
Eno.307 倉橋ゆづるの記録



スタンドの電気を消して、布団に潜る。
寄り集まって食事をすることは、楽しかったかどうかを抜きにすればそれなりに。
しかし、野外では——どうだったか。
そんなことをぼんやり考えているうちに、うとうとと夢の世界へ引き込まれる。
幼少期の記憶は、ところどころ曖昧だ。
とはいえ、すべてを鮮明に覚えているという人のほうが少ないだろう。
記憶とは歳を重ねるごとに曖昧に、都合よく編纂されて、隅の方に追いやられていくものだ。
――そうして時折、急に目の前に現れる。
夢現に呼び起こされた記憶は、ぼくと『彼女』に関わる、そういう類のものだった。
『彼女』が幼いぼくに向かって吐き出した罵倒の数々について、一言一句明瞭には思い出せない。
けれども『彼女』の表情だけが鮮明に、眼裏に蘇る。
『彼女』はぼくを通して、ぼくの母を、夫の寵愛を奪う女を妬み、憎んでいた。
とはいえ、ぼく自身に意識が向けられたことはほんの数回。
『彼女』はぼくを憎らしい二人に見立てて暴力を振るっていたに過ぎない。そして、
――ああ、よく覚えている。
『彼女』はその憎悪を、貌を、悲痛な叫びを、夫に疎まれ、醜いものと貶められていた。
けれど、ぼくには。
『彼女』がずっと、泣いているように見えていた。
5歳の夏の終わり、ぼくは避暑地の別荘に連れて来られていた。
一族で集まって何か大事なことを話し合う、いつもの行事だ。
当時ぼくが川辺や森のいきものに興味を示していたこともあって、その時はたまたま軽井沢で。
本家と近縁の人間が小難しい話をしている間、子供たちは手隙の親族と川辺で過ごしていた。
その時は皆で料理をしていたのだが、その時、『彼女』が話しかけてきた。
感情を殺した冷たい目で、「川に冷やしているものを取りに行きたい」と。
子供を連れだつ必要などない。
むしろ、好奇心旺盛な就学前の子供を川縁になど、危険に過ぎる。
でも、ぼくは素直に頷いた。
疑わなかった、というと純真無垢な子供らしい微笑ましさだけれど、ぼくは他のことに気を取られていた。
ぼくを罵倒しながら、暴力を振るいながら、どうしていつも泣いているのかと、その答えを聞きたかった。
ぼくは『彼女』に連れられて川縁にしゃがみ込んだ。
袋に入ったラムネ瓶はきんきんに冷えていて、ぼくはそれを引き上げようとしたものの、『彼女』に止められた。
「足を滑らせたら危ないでしょう」
苛立ちを抑えつつも、案じる声もまた嘘偽りのないもの。
ぼくは、『彼女』を見上げた。
良家の子女として育てられた『彼女』は美しかったが、その表情には疲労が滲んでいる。
……ずっと不思議だった。
自身が置かれている境遇にも、その生まれにも、文句のひとつも言わない『彼女』が。
たかが愛してくれない夫、たかが妾への感情に囚われる。
張り詰めた表情はやっぱりどこか、泣きそうで。
細い顎に伝っていた汗を、涙のように勘違いして。
ぼくは『彼女』の頬に触れようとした。
それが、よくなかったんだ。
『彼女』は怯えた様子でぼくの手を勢いよく振り払って、ぼくはたたらを踏んで川に落ちた。
水飛沫。冷たい水に全身を沈めて、ぼくはようやく理解した。
『彼女』を苦しめていたのは、不誠実な夫でも、夫に愛される妾でもなく。
その両方の面影を映す、ぼく自身だった。
『彼女』はぼくから必死で目を逸らしていたのに、
ごめんなさい。
ごめんなさい。あなたを追い詰めました。
我慢して、耐えて、平気な顔をして、見ないふりをして、それでも耐えきれないことがあって。
ぼくはそんなあなたに詰め寄って、泣かないで、なんて。
ごめんなさい。
自分を大切にできなかったあなたの、その心の一番柔らかなところを、ぼくは握りつぶしてしまった。
水の中、頭を押さえつけられる。ぼくは抵抗できなかった。
……抵抗しなかった。
『彼女』を怖がらせたのはぼくだ。
この冷たさは、ぼくが享受するべきものだ。
そう思っても、やっぱり、怖くて。
とても、怖くて。
遠く、ぼくを呼ぶ声がする。
もう朝なのかもしれない。
……それなら、起きなくちゃ。
『彼女』はもう、朝日の眩しさも、水の冷たさも、認識できないのだから。
夢現[1]

(BBQ、楽しかったな~。大人数でわいわいご飯を食べててこんなに楽しいのは、はじめてかも)

(SURFももうちょっと使えるようにならなくちゃ。…ふふっ、モルモットたちのスタンプ、かわいい)

(…よし! そろそろ寝よう)
スタンドの電気を消して、布団に潜る。
寄り集まって食事をすることは、楽しかったかどうかを抜きにすればそれなりに。
しかし、野外では——どうだったか。
そんなことをぼんやり考えているうちに、うとうとと夢の世界へ引き込まれる。
……ああ、そういえば。本当に小さい頃に、一度。
幼少期の記憶は、ところどころ曖昧だ。
とはいえ、すべてを鮮明に覚えているという人のほうが少ないだろう。
記憶とは歳を重ねるごとに曖昧に、都合よく編纂されて、隅の方に追いやられていくものだ。
――そうして時折、急に目の前に現れる。
夢現に呼び起こされた記憶は、ぼくと『彼女』に関わる、そういう類のものだった。
『彼女』が幼いぼくに向かって吐き出した罵倒の数々について、一言一句明瞭には思い出せない。
けれども『彼女』の表情だけが鮮明に、眼裏に蘇る。
『彼女』はぼくを通して、ぼくの母を、夫の寵愛を奪う女を妬み、憎んでいた。
とはいえ、ぼく自身に意識が向けられたことはほんの数回。
『彼女』はぼくを憎らしい二人に見立てて暴力を振るっていたに過ぎない。そして、
――ああ、よく覚えている。
『彼女』はその憎悪を、貌を、悲痛な叫びを、夫に疎まれ、醜いものと貶められていた。
けれど、ぼくには。
『彼女』がずっと、泣いているように見えていた。
5歳の夏の終わり、ぼくは避暑地の別荘に連れて来られていた。
一族で集まって何か大事なことを話し合う、いつもの行事だ。
当時ぼくが川辺や森のいきものに興味を示していたこともあって、その時はたまたま軽井沢で。
本家と近縁の人間が小難しい話をしている間、子供たちは手隙の親族と川辺で過ごしていた。
その時は皆で料理をしていたのだが、その時、『彼女』が話しかけてきた。
感情を殺した冷たい目で、「川に冷やしているものを取りに行きたい」と。
子供を連れだつ必要などない。
むしろ、好奇心旺盛な就学前の子供を川縁になど、危険に過ぎる。
でも、ぼくは素直に頷いた。
疑わなかった、というと純真無垢な子供らしい微笑ましさだけれど、ぼくは他のことに気を取られていた。
ぼくを罵倒しながら、暴力を振るいながら、どうしていつも泣いているのかと、その答えを聞きたかった。
ぼくは『彼女』に連れられて川縁にしゃがみ込んだ。
袋に入ったラムネ瓶はきんきんに冷えていて、ぼくはそれを引き上げようとしたものの、『彼女』に止められた。
「足を滑らせたら危ないでしょう」
苛立ちを抑えつつも、案じる声もまた嘘偽りのないもの。
ぼくは、『彼女』を見上げた。
良家の子女として育てられた『彼女』は美しかったが、その表情には疲労が滲んでいる。
……ずっと不思議だった。
自身が置かれている境遇にも、その生まれにも、文句のひとつも言わない『彼女』が。
たかが愛してくれない夫、たかが妾への感情に囚われる。
張り詰めた表情はやっぱりどこか、泣きそうで。
細い顎に伝っていた汗を、涙のように勘違いして。
ぼくは『彼女』の頬に触れようとした。
それが、よくなかったんだ。
『彼女』は怯えた様子でぼくの手を勢いよく振り払って、ぼくはたたらを踏んで川に落ちた。
水飛沫。冷たい水に全身を沈めて、ぼくはようやく理解した。
『彼女』を苦しめていたのは、不誠実な夫でも、夫に愛される妾でもなく。
その両方の面影を映す、ぼく自身だった。
『彼女』はぼくから必死で目を逸らしていたのに、
ごめんなさい。
ごめんなさい。あなたを追い詰めました。
我慢して、耐えて、平気な顔をして、見ないふりをして、それでも耐えきれないことがあって。
ぼくはそんなあなたに詰め寄って、泣かないで、なんて。
ごめんなさい。
自分を大切にできなかったあなたの、その心の一番柔らかなところを、ぼくは握りつぶしてしまった。
水の中、頭を押さえつけられる。ぼくは抵抗できなかった。
……抵抗しなかった。
『彼女』を怖がらせたのはぼくだ。
この冷たさは、ぼくが享受するべきものだ。
そう思っても、やっぱり、怖くて。
とても、怖くて。
遠く、ぼくを呼ぶ声がする。
もう朝なのかもしれない。
……それなら、起きなくちゃ。
『彼女』はもう、朝日の眩しさも、水の冷たさも、認識できないのだから。