RECORD

Eno.307 倉橋ゆづるの記録

夢現[1]

(BBQ、楽しかったな~。大人数でわいわいご飯を食べててこんなに楽しいのは、はじめてかも)

(SURFももうちょっと使えるようにならなくちゃ。…ふふっ、モルモットたちのスタンプ、かわいい)



(…よし! そろそろ寝よう)




スタンドの電気を消して、布団に潜る。


寄り集まって食事をすることは、楽しかったかどうかを抜きにすればそれなりに。
しかし、野外では——どうだったか。

そんなことをぼんやり考えているうちに、うとうとと夢の世界へ引き込まれる。





……ああ、そういえば。本当に小さい頃に、一度。


幼少期の記憶は、ところどころ曖昧だ。

とはいえ、すべてを鮮明に覚えているという人のほうが少ないだろう。
記憶とは歳を重ねるごとに曖昧に、都合よく編纂されて、隅の方に追いやられていくものだ。

――そうして時折、急に目の前に現れる。
夢現に呼び起こされた記憶は、ぼくと『彼女』に関わる、そういう類のものだった。



『彼女』が幼いぼくに向かって吐き出した罵倒の数々について、一言一句明瞭には思い出せない。
けれども『彼女』の表情だけが鮮明に、眼裏に蘇る。
『彼女』はぼくを通して、ぼくの母を、夫の寵愛を奪う女を妬み、憎んでいた。

とはいえ、ぼく自身・・・・に意識が向けられたことはほんの数回。
『彼女』はぼくを憎らしい二人に見立てて暴力を振るっていたに過ぎない。そして、

――ああ、よく覚えている。
『彼女』はその憎悪を、かたちを、悲痛な叫びを、夫に疎まれ、醜いものと貶められていた。




けれど、ぼくには。
『彼女』がずっと、泣いているように見えていた。




5歳の夏の終わり、ぼくは避暑地の別荘に連れて来られていた。
一族で集まって何か大事なことを話し合う、いつもの行事だ。
当時ぼくが川辺や森のいきものに興味を示していたこともあって、その時はたまたま軽井沢で。
本家と近縁の人間が小難しい話をしている間、子供たちは手隙の親族と川辺で過ごしていた。

その時は皆で料理をしていたのだが、その時、『彼女』が話しかけてきた。
感情を殺した冷たい目で、「川に冷やしているものを取りに行きたい」と。

子供を連れだつ必要などない。
むしろ、好奇心旺盛な就学前の子供を川縁になど、危険に過ぎる。

でも、ぼくは素直に頷いた。
疑わなかった、というと純真無垢な子供らしい微笑ましさだけれど、ぼくは他のことに気を取られていた。
ぼくを罵倒しながら、暴力を振るいながら、どうしていつも泣いているのかと、その答えを聞きたかった。


ぼくは『彼女』に連れられて川縁にしゃがみ込んだ。
袋に入ったラムネ瓶はきんきんに冷えていて、ぼくはそれを引き上げようとしたものの、『彼女』に止められた。

「足を滑らせたら危ないでしょう」

苛立ちを抑えつつも、案じる声もまた嘘偽りのないもの。
ぼくは、『彼女』を見上げた。
良家の子女として育てられた『彼女』は美しかったが、その表情には疲労が滲んでいる。

……ずっと不思議だった。
自身が置かれている境遇にも、その生まれにも、文句のひとつも言わない『彼女』が。
たかが・・・愛してくれない夫、たかが・・・妾への感情に囚われる。

張り詰めた表情はやっぱりどこか、泣きそうで。
細い顎に伝っていた汗を、涙のように勘違いして。
ぼくは『彼女』の頬に触れようとした。

それが、よくなかったんだ。

『彼女』は怯えた様子で・・・・・・ぼくの手を勢いよく振り払って、ぼくはたたらを踏んで川に落ちた。

水飛沫。冷たい水に全身を沈めて、ぼくはようやく理解した。
『彼女』を苦しめていたのは、不誠実な夫でも、夫に愛される妾でもなく。
その両方の面影を映す、ぼく自身だった。
『彼女』はぼくから必死で目を逸らしていたのに、

ごめんなさい。
ごめんなさい。あなたを追い詰めました。
我慢して、耐えて、平気な顔をして、見ないふりをして、それでも耐えきれないことがあって。
ぼくはそんなあなたに詰め寄って、泣かないで、なんて。

ごめんなさい。
自分を大切にできなかったあなたの、その心の一番柔らかなところを、ぼくは握りつぶしてしまった。

水の中、頭を押さえつけられる。ぼくは抵抗できなかった。
……抵抗しなかった。
『彼女』を怖がらせたのはぼくだ。
この冷たさは、ぼくが享受するべきものだ。
そう思っても、やっぱり、怖くて。

とても、怖くて。



遠く、ぼくを呼ぶ声がする。
もう朝なのかもしれない。

……それなら、起きなくちゃ。
『彼女』はもう、朝日の眩しさも、水の冷たさも、認識できないのだから。