RECORD

Eno.194 観音寺 悟々の記録

03:殺技/ころしわざ

 ―――――初めて、殺し・・をした。

 ……と言うことが大げさであることは、理解できている。
 いよいよ、裏世界における怪奇との戦いが本格的に始まったらしい。
 周期的に現れる怪奇との戦い。
 自分はそれを今日、合わせて四度経験した。

 自分は――観音寺悟々は、武術家である。
 師父なる老人から中国拳法と、中国拳法を軸に生きる哲学を学び、自ら新しい武術を練りながら今日までを生きてきた。
 言い換えれば、戦うための技を練り上げて生きてきた。
 ……けれど、その技を戦いに使ったことは、あまりない。
 なにせ現代日本というのは実に平和なもので、ちょっとした喧嘩やトラブルに際して拳法が役に立ったことは数あれど、本格的な“戦闘”という行為はあまりに、縁遠いものだった。

 ――――でも、それでいい、と思っていたのだ。
 このまま一生、この技を誰かに振るう機会など無くてもいい。
 なぜならこの生涯は戦うためにあるのではなく、戦う技を通して生を見つめるために武術があるのだから。
 そう、師匠に教わったのだから。
 だから練り上げた技が永遠に日の目を見ずとも構うまい、と思っていた。

 一方で。
 自分がどこまでやれるのか試してみたい、という気持ちもあった。
 この技が、大宇宙形意拳が、ただの奇妙奇天烈な思い付きの物まね芸に過ぎないのか。
 それとも、命をやり取りする実戦の場で十分に通用する技なのか。
 きっと師匠にこれを打ち明ければ、青い若さと笑われるのだろう。
 わかっていても、やはり心のどこかでは戦いを望んでいたし、心構えをしてもいた。

 そして、戦いがあった。
 妖精のような怪奇の群れ。
 それを自分は、殺した。

 …………殺した、という表現は露悪的である。
 それがどの程度“命”として成り立っていたのかもわからないし、どの程度自我や意思や知性のあるものだったのかもわからない。
 生物であったのか、そうでないのか。
 あるいは倒して残骸を遺し消滅した奴らが、本当に“死んだ”のか。
 案外どこかに逃げ延びたり、本体がいたり、同一の者が再出現するような仕組みなのか。
 それがわからない以上は、あれを殺害と断ずるのは露悪的な予測に過ぎない。

 それを理解した上で、やはり。
 観音寺悟々の主観ではあれはであり、殺害・・だった。
 自分はこの手で、身に着けた技で、今まで関わってきた善人と悪人と善果と悪果と善行と悪行の全てを内包した観音寺悟々として、初めてなにかを殺めたのだ。


 ――――――――そしてやはり、自分はそれを受け入れられてしまう人間なのだということが、わかった。

 明日はきっと、いつも通り元気に登校して、いつも通り元気に友人と談笑をするのだろう。
 その事実が確かになったことでショックを受けたのも僅かで、多分、今だけだ。
 何も感じないほど破綻してもいないくせに、深く傷つけるほど真っ当な感性もしていない。
 この手で奪った命に対して、なんて甲斐の無い奴であろうか――――思わず、笑えてしまいそうなぐらい。

 我々が暴力に慣れ切ってしまうことを忠告……警告してくれた大人がいた。立派な、尊敬のできる人だ。
 いい人だな、と思った。わかっていたことではあるが。
 警告する甲斐が無い人間であることを、少しだけ申し訳なく思った。


 ナニカを殺してしまっても世界は回るし、俺は毎日を生きている。