RECORD
Eno.207 曲輪木 丑緒の記録
定量性に相反するもの:不可知性
不可知性(Agnosticity)
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大学から俺の家まではそう遠くない。
神秘管理局の男二人を連れて―――あるいは、犯罪者が二人の警官に護送されるかのようにして、俺は自分の家に向かった。
平日の昼間とはいえ、全く人通りはない。
この二人が根回しをしたのか、あるいは怪しげな術を使ったのかわからない。
人気のない昼の北摩テクノポリスは、まるで3Dゲームの中の街を歩いているかのような無機質さを感じさせた。
アパートの前に着いて、足を止める。
俺の背中に何か固いものを突きつけながら、センター分けの男―――今野と名乗っていた方が、偉そうに口を開く。
「開けろ。俺たちを招くために」
違和感のある物言いだった。
誰がお前たちみたいな怪しい人間を招いたりするものか。
俺がその言葉を無視して黙って突っ立っていると、背中に向けられた固いなにがしかで小突かれる。
俺はやむなく「どうぞ」と言いながら家の鍵を開けた。
途端、二人は俺を押し除けるようにして重いスチール製の扉を開け、家の中へと入ってゆく。
「お迎えにあがりました、鵺様!我らが怪奇の姫君!」
玄関から上がれば、目の前にキッチンがある。
今野と近藤はそこに直立不動で立ったまま、奥の部屋に向けて時代がかった言い回しで呼びかける。
鵺。
まさかそれはあのおしゃべりレッサーパンダのことか?
そうすっとぼけてやろうとして、俺は言葉を失う。
戸を開けて出てきたのは、困ったような顔のレッサーパンダでも、人間の子供のような姿をしたとらでもなかった。
夜の闇そのものを無造作に切り取り、纏ったかのようなドレスに、黒天鵞絨のように滑らかな長髪が滑り落ちる。
少女と女性のあわい、羽化を目前にした精妙なバランスの上に立つ。
そんな美少女が、俺の狭い賃貸アパートの部屋から現れたものだから、俺は完全に思考を停止させてしまう。
怪奇の姫と呼ばれるに相応しい威を備えた少女は長い睫毛を伏せ、その翳りの中からちらと視線を俺に投げかけてきた。
「……とら、なのか?」
かろうじて絞り出した。
あるいは、呆然と口からそう漏れた言葉が、他人言のように響く。
俺の問いかけに答えるでもなく、わずか身じろぎした少女の髪が一瞬、見慣れた橙色に揺らめいたように見えた。
よく見れば、その黒髪は黒一色というわけではない。
全ての色を内包しているからこそ、黒という色に見えているだけとでもいうように、動くたび色味を僅かに変える。
言うなれば黒色の虹というような色合い。
それが、病的といっていいほど白く透き通るような肌とのコントラストでより一層強調されて見える。
およそ人間ではあり得ない。
人外。天女。
怪奇の姫君。
背筋を伸ばし直立していたおかっぱ頭が、振り返りざま回し蹴りのように乱暴に俺の腹を蹴飛ばして、ぼんやりと女を眺めていた俺は壁に体をしたたか打ちつけた。
痛くはない。
ただ、衝撃で肺から空気が一気に吐き出され、咳き込んでしまっただけで。
姿見の横、壁にもたれるように身体を起こし、近藤をにらみつける。
「がふッ、て、めえ……」
「その薄汚い科学を二度と姫様に向けるんじゃない……人間」
科学?
呼吸を整えながら、俺は考える。
今のやりとりのどこに科学があるというんだ?
「止せ」
鈴を転がすような声。
たったの一言だけ、しかしそこには明確に不快である旨が含まれているのがわかった。
圧倒的上位者が、不機嫌であるということが、音からだけでなく空気を伝播して感じられる。
それだけで、海の底にいるような重さがまとわりつくかのように、息苦しく、身動きができない。
動くことを許されていない。
「……しかし、」
「私は止せと言ったぞ」
俺にかかる圧力が減った、と感じた時には、おかっぱ頭―――近藤が火にでも炙られたかのように額から脂汗を流していた。
先ほどの重圧が、指向性を持って奴に向けられたのだ、と俺はそれで悟る。
ただ言葉を投げかけただけ、そこに在るというだけで、これほどまでに他者に影響を及ぼすことができるものなのか?
「姫!どうかご容赦を!」
悲痛な叫び声を上げる今野。
それに対して少女は眉をわずかに上げるだけで応えた。
苦悶の表情を浮かべる近藤に、ばね仕掛けのように飛びついた今野は、幼子に教え聞かすように囁く。
「見ろ、近藤……あの人間の呆けたツラを。
さすが姫の術だ。感情の感染……
非日常への恐怖と違和感を徹底的に塗り潰されて、身に迫る危険を感じられなくなっている無様な顔つきを。
あんな状態で我らに、姫に敵意など抱けるはずがない。
放っておくんだ、あんな取るに足らん人間風情を、わざわざ相手する必要はないんだ。そうだろう……?
わかったら、殺意を鎮めろ。鵺様は全てを見通しておられる」
俺を罵倒しないと会話もできないのかと言わんばかりの言い様も、今の俺には聞いている余裕がない。
思考が巡る。巡りすぎる。
今野の台詞は、そのいちいちがあまりにも示唆的だったからだ。
なるほど、確かに麻痺している。
痛みもなければ、違和感もない。
当たり前のように、おかしなこの現実を受け入れてしまっている。
そういうことか?
喋るレッサーパンダなんてわけのわからない生き物を受け入れて何も思わなかったのも、
身を焼くほどの怒りがいつの間にかなくなっていたことも。
全て、こいつがやっていたことだったのか?
少女に視線を向ける。俺の視線から逃げるように、女は目を伏せた。
「ごめんね……」
星が流れるようなか細い声。
それは確かに音として美しいものだったが、それがこいつの泣き出す直前の声だと、俺にはなぜかわかる。
そして、呟かれた声と共に、俺達の体を縛っていた場の重圧が薄れ、消えた。
「おお、姫の寛大さに感謝を!ありがたく存じます!近藤、お前も早く感謝を捧げるんだ」
「……ありがとうございます、姫君」
圧力が消えたことで、ようやく倒れることを許されて、息も荒くその場に倒れ込む近藤。
同僚を気遣うように一瞥すると、今野がわざとらしい声をあげる。
「さあ、姫様。もはやコンなあばら家にこれ以上用はありますまい。
皆、姫の帰還を待ち望んでおります。どうか、ご理解いただけませんか」
懐から黒い塊を取り出して、俺に向ける。
それが何なのかはわからないが、どうせ碌なものではあるまい。
俺の背中を小突いていたのも、きっとアレを使っていたのだ。
今野は、こちらのことは一瞥もしない。
張り付いたような笑みを浮かべながら、少女に向けて首を傾げて見せた。
「……わかった。それがお前たちの望みなら」
少女は表情も変えぬままそう答えた。
「と」
俺が声をあげて立ち上がろうとした瞬間、
ぷしゅ、という間抜けな音と共に、ガラスの砕ける破砕音が鳴り響いた。
俺の後ろの姿見が、何かによって完全に破壊されていた。
「おっと、手が滑りました」
「……私に同じ事を三度言わせるつもりか」
「ああ、ああ、勿論です姫様。そんな愚は犯しません。
彼が動かなければ私も何もいたしませんとも。
彼が木偶のように立ち尽くし、狸のように地べたを這い回っている限り、何も……ね」
それは少女に向ける弁解の体裁であったが、俺に向けた恫喝の台詞であった。
何もするな。
一瞬俺を睨めつけた、今野の緑色の瞳に押されるようにして、俺は再び壁にもたれかかる。
俺が抵抗する様子を見せなかったことで満足したのか、今野はこんこんと笑った。
「それでは御機嫌よう。人間。
もう二度と会うこともないでしょう」
そして、ドアを開けて出ていく。
黒髪の少女はちらと俺を振り返って、
「うしお」
と俺の名前を呼んで、俺の目を見た。
俺はただ、黙って少女の顔を見つめていることしかできなかった。
震える唇が二度、開いて、閉じて。それが言葉になる前に。
少女の背中を近藤が押して、家の外へと追いやる。
鉄製の重いドアが閉ざされた。
薄暗い部屋に、俺だけが取り残された。
あっという間の出来事だった。
割れ落ちた鏡の破片に、自分の顔が映って見えた。
その姿がどこかで見たように思えて、俺はすぐそれに思い当たる。
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ああ、そうだ。
腑に落ちる。
今の俺の目は、あの時伏せられた田沼教授の目にそっくりだった。
そして、それならば。
あの少女の視線は、とらが最後に俺を見たのは。
「ふざけやがって」
口にしてみる。
そうとも。あれは、あの日の俺の姿だ。
あの時、教授室で俺が吠えたのは、
善き科学者である田沼教授ならわかってくれると、わずかでも期待したからじゃなかったのか。
俺の無念をわかって欲しいと願ったからじゃないのか。
それならば。
あの目をしていたとらだって、俺に何かを期待していたのではなかったか。
燃え上がる。
いっぺんに身体に力が戻る。
呆けている場合ではない。
走れ!
内なる炎に導かれるよう立ち上がり、鉄のドアを蹴破らんばかりに飛び出せば、
俺の家の目の前でひずむ空間の中に消えようとする三人がそこにまだいた。
二歩の距離。それを、大きく一歩踏み込んで、跳ぶ。
「なあッ、き、さま!」
ぎょっとした表情で振り返る今野。
しかし、もう遅い。
身を捨ててのドロップキックが、その顔面に炸裂した。
「は。はッは!」
笑えてくる。
俺の身体はこんなにも、現実離れしていたのか。
今野の顔を蹴り飛ばし、もつれあうように歪みを越え、俺達は裏世界へとなだれ込んだ。
夜とも昼ともつかぬ紫紺の空。黒く燃ゆる夕陽。人影だけが伸び、その先に人の姿はない。
でたらめなピクトグラムの描かれた、見たこともない標識。不自然に滲んだ、この世ならぬ言語で描かれた看板。
家の成り損ないが列を成して並ぶ、まがいものの住宅街。
今野と近藤がもみくちゃになって倒れている隙に、俺は少女の手をとる。
もどかしいので抱き上げ、そのまま全力で走り出す。
俺の腕の中で、少女は目をいっぱいに見開いて俺を見上げる。
「うしお、どうして……」
「お前にゃ言いたいことがあるからだ」
逃げ切れるか。大丈夫。
ここが表世界の東部学生区にあたる土地なら、土地勘は俺にある。
角を曲がる。そこには俺の知る、入り組んだ路地が広がっている。
「いいか、とら。言いたいことがあるならな、ちゃんと口に出して言え!
あんな、目線だけで察してもらおうなんざ、」
ぷしゅ、
という音がして、
突然目の前に壁が現れる。
慌ててとらだけはぶつけないよう、身を捻る。
激突。しかし痛みはない。
早く立ち上がって、逃げなければ、
……立ち上がる?
倒れ込んでいた。
俺が壁だと思っていたのは、異世界のアスファルトで。
俺は、倒れて、
胸から、あたたかい、なにかが。
こぼれている。
「やだ、やだよ、うしおーーーーーーーーー!」
近くでとらが今にも泣き出しそうな大声をあげている。
まったく困ったもんだ。
はやく、
なきやませて
やらないと
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不可知性(Agnosticity)
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神秘の持つ特性の一つ。測定や観測、解析を拒むよう働く性質のこと。
強大な神秘であればあるほど、その存在を正しく認識することはできず、
その存在自体と、それが引き起こす場の擾乱―――神秘現象との境に区別がつかなくなってゆく。
大学から俺の家まではそう遠くない。
神秘管理局の男二人を連れて―――あるいは、犯罪者が二人の警官に護送されるかのようにして、俺は自分の家に向かった。
平日の昼間とはいえ、全く人通りはない。
この二人が根回しをしたのか、あるいは怪しげな術を使ったのかわからない。
人気のない昼の北摩テクノポリスは、まるで3Dゲームの中の街を歩いているかのような無機質さを感じさせた。
アパートの前に着いて、足を止める。
俺の背中に何か固いものを突きつけながら、センター分けの男―――今野と名乗っていた方が、偉そうに口を開く。
「開けろ。俺たちを招くために」
違和感のある物言いだった。
誰がお前たちみたいな怪しい人間を招いたりするものか。
俺がその言葉を無視して黙って突っ立っていると、背中に向けられた固いなにがしかで小突かれる。
俺はやむなく「どうぞ」と言いながら家の鍵を開けた。
途端、二人は俺を押し除けるようにして重いスチール製の扉を開け、家の中へと入ってゆく。
「お迎えにあがりました、鵺様!我らが怪奇の姫君!」
玄関から上がれば、目の前にキッチンがある。
今野と近藤はそこに直立不動で立ったまま、奥の部屋に向けて時代がかった言い回しで呼びかける。
鵺。
まさかそれはあのおしゃべりレッサーパンダのことか?
そうすっとぼけてやろうとして、俺は言葉を失う。
戸を開けて出てきたのは、困ったような顔のレッサーパンダでも、人間の子供のような姿をしたとらでもなかった。
夜の闇そのものを無造作に切り取り、纏ったかのようなドレスに、黒天鵞絨のように滑らかな長髪が滑り落ちる。
少女と女性のあわい、羽化を目前にした精妙なバランスの上に立つ。
そんな美少女が、俺の狭い賃貸アパートの部屋から現れたものだから、俺は完全に思考を停止させてしまう。
怪奇の姫と呼ばれるに相応しい威を備えた少女は長い睫毛を伏せ、その翳りの中からちらと視線を俺に投げかけてきた。
「……とら、なのか?」
かろうじて絞り出した。
あるいは、呆然と口からそう漏れた言葉が、他人言のように響く。
俺の問いかけに答えるでもなく、わずか身じろぎした少女の髪が一瞬、見慣れた橙色に揺らめいたように見えた。
よく見れば、その黒髪は黒一色というわけではない。
全ての色を内包しているからこそ、黒という色に見えているだけとでもいうように、動くたび色味を僅かに変える。
言うなれば黒色の虹というような色合い。
それが、病的といっていいほど白く透き通るような肌とのコントラストでより一層強調されて見える。
およそ人間ではあり得ない。
人外。天女。
怪奇の姫君。
背筋を伸ばし直立していたおかっぱ頭が、振り返りざま回し蹴りのように乱暴に俺の腹を蹴飛ばして、ぼんやりと女を眺めていた俺は壁に体をしたたか打ちつけた。
痛くはない。
ただ、衝撃で肺から空気が一気に吐き出され、咳き込んでしまっただけで。
姿見の横、壁にもたれるように身体を起こし、近藤をにらみつける。
「がふッ、て、めえ……」
「その薄汚い科学を二度と姫様に向けるんじゃない……人間」
科学?
呼吸を整えながら、俺は考える。
今のやりとりのどこに科学があるというんだ?
「止せ」
鈴を転がすような声。
たったの一言だけ、しかしそこには明確に不快である旨が含まれているのがわかった。
圧倒的上位者が、不機嫌であるということが、音からだけでなく空気を伝播して感じられる。
それだけで、海の底にいるような重さがまとわりつくかのように、息苦しく、身動きができない。
動くことを許されていない。
「……しかし、」
「私は止せと言ったぞ」
俺にかかる圧力が減った、と感じた時には、おかっぱ頭―――近藤が火にでも炙られたかのように額から脂汗を流していた。
先ほどの重圧が、指向性を持って奴に向けられたのだ、と俺はそれで悟る。
ただ言葉を投げかけただけ、そこに在るというだけで、これほどまでに他者に影響を及ぼすことができるものなのか?
「姫!どうかご容赦を!」
悲痛な叫び声を上げる今野。
それに対して少女は眉をわずかに上げるだけで応えた。
苦悶の表情を浮かべる近藤に、ばね仕掛けのように飛びついた今野は、幼子に教え聞かすように囁く。
「見ろ、近藤……あの人間の呆けたツラを。
さすが姫の術だ。感情の感染……
非日常への恐怖と違和感を徹底的に塗り潰されて、身に迫る危険を感じられなくなっている無様な顔つきを。
あんな状態で我らに、姫に敵意など抱けるはずがない。
放っておくんだ、あんな取るに足らん人間風情を、わざわざ相手する必要はないんだ。そうだろう……?
わかったら、殺意を鎮めろ。鵺様は全てを見通しておられる」
俺を罵倒しないと会話もできないのかと言わんばかりの言い様も、今の俺には聞いている余裕がない。
思考が巡る。巡りすぎる。
今野の台詞は、そのいちいちがあまりにも示唆的だったからだ。
なるほど、確かに麻痺している。
痛みもなければ、違和感もない。
当たり前のように、おかしなこの現実を受け入れてしまっている。
そういうことか?
喋るレッサーパンダなんてわけのわからない生き物を受け入れて何も思わなかったのも、
身を焼くほどの怒りがいつの間にかなくなっていたことも。
全て、こいつがやっていたことだったのか?
少女に視線を向ける。俺の視線から逃げるように、女は目を伏せた。
「ごめんね……」
星が流れるようなか細い声。
それは確かに音として美しいものだったが、それがこいつの泣き出す直前の声だと、俺にはなぜかわかる。
そして、呟かれた声と共に、俺達の体を縛っていた場の重圧が薄れ、消えた。
「おお、姫の寛大さに感謝を!ありがたく存じます!近藤、お前も早く感謝を捧げるんだ」
「……ありがとうございます、姫君」
圧力が消えたことで、ようやく倒れることを許されて、息も荒くその場に倒れ込む近藤。
同僚を気遣うように一瞥すると、今野がわざとらしい声をあげる。
「さあ、姫様。もはやコンなあばら家にこれ以上用はありますまい。
皆、姫の帰還を待ち望んでおります。どうか、ご理解いただけませんか」
懐から黒い塊を取り出して、俺に向ける。
それが何なのかはわからないが、どうせ碌なものではあるまい。
俺の背中を小突いていたのも、きっとアレを使っていたのだ。
今野は、こちらのことは一瞥もしない。
張り付いたような笑みを浮かべながら、少女に向けて首を傾げて見せた。
「……わかった。それがお前たちの望みなら」
少女は表情も変えぬままそう答えた。
「と」
俺が声をあげて立ち上がろうとした瞬間、
ぷしゅ、という間抜けな音と共に、ガラスの砕ける破砕音が鳴り響いた。
俺の後ろの姿見が、何かによって完全に破壊されていた。
「おっと、手が滑りました」
「……私に同じ事を三度言わせるつもりか」
「ああ、ああ、勿論です姫様。そんな愚は犯しません。
彼が動かなければ私も何もいたしませんとも。
彼が木偶のように立ち尽くし、狸のように地べたを這い回っている限り、何も……ね」
それは少女に向ける弁解の体裁であったが、俺に向けた恫喝の台詞であった。
何もするな。
一瞬俺を睨めつけた、今野の緑色の瞳に押されるようにして、俺は再び壁にもたれかかる。
俺が抵抗する様子を見せなかったことで満足したのか、今野はこんこんと笑った。
「それでは御機嫌よう。人間。
もう二度と会うこともないでしょう」
そして、ドアを開けて出ていく。
黒髪の少女はちらと俺を振り返って、
「うしお」
と俺の名前を呼んで、俺の目を見た。
俺はただ、黙って少女の顔を見つめていることしかできなかった。
震える唇が二度、開いて、閉じて。それが言葉になる前に。
少女の背中を近藤が押して、家の外へと追いやる。
鉄製の重いドアが閉ざされた。
薄暗い部屋に、俺だけが取り残された。
あっという間の出来事だった。
割れ落ちた鏡の破片に、自分の顔が映って見えた。
その姿がどこかで見たように思えて、俺はすぐそれに思い当たる。
君には休暇が必要だよ、曲輪木くん。
今日は帰って、頭を冷やしなさい
ああ、そうだ。
腑に落ちる。
今の俺の目は、あの時伏せられた田沼教授の目にそっくりだった。
そして、それならば。
あの少女の視線は、とらが最後に俺を見たのは。
「ふざけやがって」
口にしてみる。
そうとも。あれは、あの日の俺の姿だ。
あの時、教授室で俺が吠えたのは、
善き科学者である田沼教授ならわかってくれると、わずかでも期待したからじゃなかったのか。
俺の無念をわかって欲しいと願ったからじゃないのか。
それならば。
あの目をしていたとらだって、俺に何かを期待していたのではなかったか。
燃え上がる。
いっぺんに身体に力が戻る。
呆けている場合ではない。
走れ!
内なる炎に導かれるよう立ち上がり、鉄のドアを蹴破らんばかりに飛び出せば、
俺の家の目の前でひずむ空間の中に消えようとする三人がそこにまだいた。
二歩の距離。それを、大きく一歩踏み込んで、跳ぶ。
「なあッ、き、さま!」
ぎょっとした表情で振り返る今野。
しかし、もう遅い。
身を捨ててのドロップキックが、その顔面に炸裂した。
「は。はッは!」
笑えてくる。
俺の身体はこんなにも、現実離れしていたのか。
今野の顔を蹴り飛ばし、もつれあうように歪みを越え、俺達は裏世界へとなだれ込んだ。
夜とも昼ともつかぬ紫紺の空。黒く燃ゆる夕陽。人影だけが伸び、その先に人の姿はない。
でたらめなピクトグラムの描かれた、見たこともない標識。不自然に滲んだ、この世ならぬ言語で描かれた看板。
家の成り損ないが列を成して並ぶ、まがいものの住宅街。
今野と近藤がもみくちゃになって倒れている隙に、俺は少女の手をとる。
もどかしいので抱き上げ、そのまま全力で走り出す。
俺の腕の中で、少女は目をいっぱいに見開いて俺を見上げる。
「うしお、どうして……」
「お前にゃ言いたいことがあるからだ」
逃げ切れるか。大丈夫。
ここが表世界の東部学生区にあたる土地なら、土地勘は俺にある。
角を曲がる。そこには俺の知る、入り組んだ路地が広がっている。
「いいか、とら。言いたいことがあるならな、ちゃんと口に出して言え!
あんな、目線だけで察してもらおうなんざ、」
ぷしゅ、
という音がして、
突然目の前に壁が現れる。
慌ててとらだけはぶつけないよう、身を捻る。
激突。しかし痛みはない。
早く立ち上がって、逃げなければ、
……立ち上がる?
倒れ込んでいた。
俺が壁だと思っていたのは、異世界のアスファルトで。
俺は、倒れて、
胸から、あたたかい、なにかが。
こぼれている。
「やだ、やだよ、うしおーーーーーーーーー!」
近くでとらが今にも泣き出しそうな大声をあげている。
まったく困ったもんだ。
はやく、
なきやませて
やらないと
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不可知性(Agnosticity)
神秘の持つ特性の一つ。測定や観測、解析を拒むよう働く性質のこと。
強大な神秘であればあるほど、その存在を正しく認識することはできず、その存在自体と、それが引き起こす場の擾乱―――神秘現象との境に区別がつかなくなってゆく。
限りのないものを測ることはできない。
限りとは、境界のことである。
神秘には、境界を薄れさせ、消失させる性質がある。
彼岸と此岸。生と死。表と裏。そして、あなたとわたしといった、個々の境界さえも。
この性質と前述の共感性の作用によって、怪奇は他者の精神状態を操作することを可能としていると考えられる。
言わば、そこにあるのは他者ではない。混じり合い、侵食され、一つということになった何かである。
多くの場合、共振的作用―――即ち集団間で恐怖が伝播することでパニックが発生するように、共感する二者以上の間で感情の相互伝播を起こすことで、恐怖感情を過剰に増幅し、神秘氾濫を起こすエネルギーを生み出す、などといった怪奇の存在が予測される。また、いわゆるテレパシー能力や、感情を伝播するエンパシー能力、呪いに依る痛覚共有なども、この不可知性による境界消失が影響すると考えられ―――