RECORD
Eno.88 御子柴 桜空の記録
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──御子柴桜空が、記憶を失った。
厳密に言えば、現代日本に類する世界の記憶以外の殆ど、ではあるが。
心の準備はしていた。一度は甘んじて受け入れる未来だと。
それでも──胸の内を鷲掴みにでもされたような鈍痛を錯覚した。

完全に赤の他人というよりかは、
色ボケを起こしたせいであんまり距離感が変わっておらず、
なんだか気が抜けてしまったのは俺達らしいといえばらしくあったが。
それに、何もこいつが人間らしくなりやがってる中、何も手を打たなかったわけじゃない。
そもそも打つ手がないならずっと傍にいたに決まっている。
今日桜空の前に来たのは、打ってきた布石の最後の仕上げをするためだ。
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不安になってきた。俺のことを忘れたのはいいとして、
変な方向に転がってしまっていないか?頭の容量に空きができてしまったせいだろうか。
まあいい。気を取り直して、予め確認していた地点へと向かう。
裏世界への入り口。俺らの本来あるべき場所。
"お仕事"というのは嘘ではないが、真実でもない。
ある意味、普遍化した神秘をもう一度呼び起こそうなんて真似を働くのだ、
神秘管理局の奴と何度も相談を重ね、千賀の力を借りてコロニストを通し事情を汲んでもらい、
『ある条件』を呑むことで、"友好的な怪奇の神秘保守"を名目に───
今からやることを一定黙認してもらえる手筈になった。
相互不干渉。これほどまでに、その言葉に助けられたことはない。
そして、それを隠し、こいつにはただ『機関からの依頼』とだけ伝えたわけだ。
「ある程度サポートはしてやるから、
あんたはいつも通り構えてたらいいよ」
「ふふ、おれ、張り切っちゃいますからね!」
そうして、いかにも自然を装って肩に軽く触れつつ、
目前に近づいた、表と裏の境目を跨ぐ。神秘を纏う空気が、この身に触れる。
───その瞬間に、流し込む。弟子の神秘によく似たやり方で。
今の桜空にないものを。けれど、桜空と同質のものを。
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「……照史さん?」
違和感に気づいたか、少女が怪訝そうな声をあげる。
さあ、言葉遊びですらない、子供騙しの時間だ。
表のものを裏に連れていくだけでは、神秘が溶け込んで混じるだけ。それでは意味がない。
けど、桜空という怪奇は「表裏があった」のである。人間としての彼女と、怪異としての彼。
それを表だけにされた。ならば、それをそのまま逆にする。
逆にするだけで形容できるほど単純なひとではないから、元通りにはできないだろうが。
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牛の首は、根底は未知。知られざる恐怖だ。神秘の特徴と変わりない。
表では坊さんの戯言と扱われるそれが、魍魎の蔓延る裏では『未知』そのものとして機能する。
そうして、表と裏を結びつけ、ひっくり返す。
───表で生きる、怪異だった頃の記憶を忘れ、
人間として自然な記憶のみを残した人間が、ひっくり返ると何になるか。
そんなもの、みなまで言うまい。
少し離れた前方に、青年の姿が見える。
しかしあまり人の容ではない。獣耳を生やし、足は逆関節。たなびくマフラーは蛇の尾のよう。
傍の少女がそれを視認して、何かを言おうとした瞬間───
矛盾に辻褄を合わせるかの如く、瞬き一つで消え失せてしまった。
そして残された青年は、にこやかに。
俺の良く知る笑顔より幾分か獰猛に笑っていた。
「これが、彼と君の考えた秘策の一つってわけ?」


それは、侵略戦争を知り、異界騒ぎを知り、我々の元の世界を知り。
───現代社会で生きたことは全て抜け落ちた、
元よりも怪奇らしい、北摩市における御子柴桜空の裏面。
機関から課せられた、こいつを生み出す条件とは、
自分を正式に神秘能力者として管理局に登録し、二人もろとも監視を受け、
そして決して、『表世界に過度干渉しない』ことだった。
つまり、表世界で人間として暮らす方の桜空に、
必要以上に働きかけるのは控えろ───というところだろう、と推測する。
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これは、陽の当たる世界では決して語られない、裏面の物語の記録。
桜空だけのものではない。俺たちの、もう一つの物語だ。
*サニーサイド・ダウン
* これはサブキャラクター・日向照史視点の記録です。
──御子柴桜空が、記憶を失った。
厳密に言えば、現代日本に類する世界の記憶以外の殆ど、ではあるが。
心の準備はしていた。一度は甘んじて受け入れる未来だと。
それでも──胸の内を鷲掴みにでもされたような鈍痛を錯覚した。

「照史さん……照史さん、ふふふ……」
完全に赤の他人というよりかは、
色ボケを起こしたせいであんまり距離感が変わっておらず、
なんだか気が抜けてしまったのは俺達らしいといえばらしくあったが。
それに、何もこいつが人間らしくなりやがってる中、何も手を打たなかったわけじゃない。
そもそも打つ手がないならずっと傍にいたに決まっている。
今日桜空の前に来たのは、打ってきた布石の最後の仕上げをするためだ。
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「俺の顔を見るのは良いけどさ、今から何しにいくか忘れてない?」

「そんなことありませんよ。
デート……もとい、共同作業……またの名を"お仕事"ですよね!」
不安になってきた。俺のことを忘れたのはいいとして、
変な方向に転がってしまっていないか?頭の容量に空きができてしまったせいだろうか。
まあいい。気を取り直して、予め確認していた地点へと向かう。
裏世界への入り口。俺らの本来あるべき場所。
"お仕事"というのは嘘ではないが、真実でもない。
ある意味、普遍化した神秘をもう一度呼び起こそうなんて真似を働くのだ、
神秘管理局の奴と何度も相談を重ね、千賀の力を借りてコロニストを通し事情を汲んでもらい、
『ある条件』を呑むことで、"友好的な怪奇の神秘保守"を名目に───
今からやることを一定黙認してもらえる手筈になった。
相互不干渉。これほどまでに、その言葉に助けられたことはない。
そして、それを隠し、こいつにはただ『機関からの依頼』とだけ伝えたわけだ。
「ある程度サポートはしてやるから、
あんたはいつも通り構えてたらいいよ」
「ふふ、おれ、張り切っちゃいますからね!」
そうして、いかにも自然を装って肩に軽く触れつつ、
目前に近づいた、表と裏の境目を跨ぐ。神秘を纏う空気が、この身に触れる。
───その瞬間に、流し込む。弟子の神秘によく似たやり方で。
今の桜空にないものを。けれど、桜空と同質のものを。
「俺の記憶そのものを喰わせるよりいい方法があるよ」
「言葉でどうにかするのは、俺も得意だからさ。
ならきっと、君もできるはず」
……簡単に言ってくれる。それが本当に得意だった奴は、今失われているのに。
共に歩いてきた時間は途方もない。消えてしまった思い出は数えきれない。
だから取り戻すんじゃあないか。目の前で笑ってる奴の考えてることなんか、
自分のことのように分かる。自分でもあるから、当たり前だ。
上等だ。笑ってやる。
「ああでもやっぱり。
呼び水としてほんの一部だけは持っていって」
「その方が確実だろうし、それに、
これでも……君たちを心配してるのは、嘘じゃないから」

「 達が、俺になってから……長い時間が経つ。
君たちと違ってお互いを奪い合ってしまったせいでね。
もうそれすらも、他人事になってしまった話だけど」

「助けられないのは俺だけでいい」
「俺じゃない君たちは」「二人の方がいいよ」
侵略戦争のころは、逃げてしまった。
それごと、優しく抱き留められてしまった。だから今がある。
それから何年も経った今は、もう逃げない。
「……照史さん?」
違和感に気づいたか、少女が怪訝そうな声をあげる。
さあ、言葉遊びですらない、子供騙しの時間だ。
表のものを裏に連れていくだけでは、神秘が溶け込んで混じるだけ。それでは意味がない。
けど、桜空という怪奇は「表裏があった」のである。人間としての彼女と、怪異としての彼。
それを表だけにされた。ならば、それをそのまま逆にする。
逆にするだけで形容できるほど単純なひとではないから、元通りにはできないだろうが。
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「あんたは世界の境を跨ぐたび、反転する」
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「科学の優勢な世では普遍的なものとして。
未だ神秘の衰えない世では、未知のものとして───」
牛の首は、根底は未知。知られざる恐怖だ。神秘の特徴と変わりない。
表では坊さんの戯言と扱われるそれが、魍魎の蔓延る裏では『未知』そのものとして機能する。
そうして、表と裏を結びつけ、ひっくり返す。
───表で生きる、怪異だった頃の記憶を忘れ、
人間として自然な記憶のみを残した人間が、ひっくり返ると何になるか。
そんなもの、みなまで言うまい。
少し離れた前方に、青年の姿が見える。
しかしあまり人の容ではない。獣耳を生やし、足は逆関節。たなびくマフラーは蛇の尾のよう。
傍の少女がそれを視認して、何かを言おうとした瞬間───
矛盾に辻褄を合わせるかの如く、瞬き一つで消え失せてしまった。
そして残された青年は、にこやかに。
俺の良く知る笑顔より幾分か獰猛に笑っていた。
「これが、彼と君の考えた秘策の一つってわけ?」

「随分思い切りますね」

「怪異としての記憶しか持たない『桜空』として、オレを引っ張り出すなんて」
それは、侵略戦争を知り、異界騒ぎを知り、我々の元の世界を知り。
───現代社会で生きたことは全て抜け落ちた、
元よりも怪奇らしい、北摩市における御子柴桜空の裏面。
機関から課せられた、こいつを生み出す条件とは、
自分を正式に神秘能力者として管理局に登録し、二人もろとも監視を受け、
そして決して、『表世界に過度干渉しない』ことだった。
つまり、表世界で人間として暮らす方の桜空に、
必要以上に働きかけるのは控えろ───というところだろう、と推測する。
「ああ、そうだ」

「片面にされたものを両面にした、なんてな」
これは、陽の当たる世界では決して語られない、裏面の物語の記録。
桜空だけのものではない。俺たちの、もう一つの物語だ。