RECORD
Eno.207 曲輪木 丑緒の記録
理論実証:ハイゼンベルク切断
遠くのほうで声が聞こえる。
諦めと納得はまるで他人事のようで、
全てが遠く離れていくような感覚の中、
俺の思い出と思しきものが映像として流れて、遠くへ去ってゆく。
まあ、それもそうか。
ごく当然のこととして、俺はそれを受け容れる。
胸に穴が空いたんだし。
そりゃあ、死ぬわな。
ひとつ、また一つと流れてゆくそれを、
これが走馬灯か、なんて思いながらぼんやり見ていると、
忘れていたはずの光景が流れてくる。
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そして俺はようやく思い出す。
ああ。俺は。
ずっと昔、あいつに出会ってたんだな。
黙って夜に家を出て、レッサーパンダを拾って、大人に怒られて。
「はは」
笑い声が漏れる。己の愚かさに。
どうして忘れてたんだろうな。
あの時俺は、あんなに悔しかったのに。
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悔しかった。
奪われていくのが。
奪われていくものを、見ていることしか出来ない自分が。
そしてまた、俺は奪われていくものを、見ていることしか出来ない。
でもしょうがないだろう。
胸に穴が空いてるんだ。
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責めるなよ。
どうしろってんだ、俺に。
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謝るなよ。
どうしようもないんだ、俺は。
だって、胸に穴が空いてるんだから。
動けないままそんな言い訳をする俺をよそに、映像の色が変わる。
下らない日常の一幕だ。
家に帰ってきて、飯を作って、一緒に食べる。
同じ布団で寝る。
たったそれだけの繰り返しが流れてゆく。
とらが笑っている。
とらが叫んでいる。
とらが喜んでいる。
俺は……その時どんな顔をしていたんだろう。
目の前の映像にはだんだんと、俺のものではない記憶が混じってくる。
天を覆う黒雲。
街一つ覆い尽くすそれを恐れた人々と、果敢にも雲に挑んだ者たちの顛末を、俺は垣間見る。
人々の恐れを具現化したような化け物に『虎噤』と名をつけて、彼は私を時の彼方へ追放する。
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それが誰の記憶か、言うまでもなく俺にはわかる。
彼女の記憶の大半は、暗い暗い空間で、一人きりで呟き続ける記憶だった。
俺は、見聞きした全てを、そこで反芻する。
俺は、見聞きした全てを、そこで反芻する。
俺は、見聞きした全てを、そこで反芻する。
俺は、見聞きした全てを、そこで反芻する。
私は鵺。
不壊の黒雲、限りなく広がる夜の闇。
うしお―――私を照らす真如の月。
当てのない路を照らす、救いの光。
あなたのいない世界なんて、
私はもう、
「ゴホッ、ゼホッ! ああ、クソ!」
激しい咳と共に目が覚める。
そこに投げかけられる、柔らかな労りの声。
「うしお、よかった……」
俺に覆い被さるようにして俺を見下ろす、怪奇の姫、鵺。
その身体の向こう側に、黒い竜巻きのようにのたうつ尾を持つ巨大な狐が嗤っている。
そんなものが見えてしまう―――
鵺の胸には、向こう側が見えるほどでかい穴が空いていたから。
俺は思わず声を荒げる。
「よくねえだろ、なんだこの穴は!」
「これは、私が悪いから」
悪戯が見つかった子供のように、鵺は。
俺から目を逸らしたままボソボソと言葉を継ぐ。
「私のせいで、怪我をさせちゃった。
だからこれは私の傷。私のものを返してもらっただけ」
そう言われて俺は自分の胸をまさぐる。
べっとりと血の付いた胸には、穴も傷跡さえもない。
埋められている。
シャツに空いた穴は、俺の身体を貫通して空けられたもののはずだ。
果たして、俺の身体に空いた穴。
そこには黒い靄が詰め込まれるように満ちていた。
混じり合っている。
夢で見た通り、鵺を―――
とらを構成していたのは、こういう性質のものだったのだ。
融け合い、混じり合い、一つになろうとするもの。
形のない黒い雲。
「この、バカ野郎が……」
「ハハ、そう! 大馬鹿者だ! オレも、お前も!その鵺も!」
ぷしゅ、という空気の音と共に、鵺の身体が削れる。
わずか漏れる吐息に、苦悶の色が浮かんでいたのは俺の聞き間違いではない。
「はは、ははは、ははははははは!
まさか! あの『鵺』が!
呪具の一つでコンなにも簡単に打倒できるとは!
狸どもにも劣るたかが人間!一匹!庇って!
こうまで楽に削れてくれるとは!
ああ、オレはなんと愚かだったのだ!
なァにが姫だ、下らない! 実に非合理!
はじめからこうしておけばよかったのだ! ははははは!」
ぷしゅ、ぷしゅ、と空気を裂く音が鳴る度。
大音声で笑う狐が攻撃をする度、鵺の身体は削れてゆく。
削れた傷から漏れ出した黒い霞、モヤのようなものを吸い取ると、
狐の身体は更に肥大化し、新たに黒い力の奔流のような尾が生える。
「そうだ。この力を喰らえば、オレはもっと強くなれる!
オレが―――九尾になる。
この無辺の黒雲を従えて、このオレこそが新たなる怪奇の王になるのだ!」
「そんなこと、させない」
「できるかァ?そのナリで!
足手纏いの人間一匹抱えて! その傷で!
なあ、鵺サマ? 今のお前にそれができるかァ?!!」
天に向かって哄笑する狐。
天まで伸びるその黒い尾の数は九。
一つ一つが竜巻と見紛うほどに力に満ち、暴れ狂い、偽物の市街を破壊してゆく。
そんな歩く災害のような狐から俺を庇うように立つ鵺は、どう見たって満身創痍。
「大丈夫。うしおだけは、絶対助けるからね……」
なのに、このバカは。
作り物の笑顔でそんなことを抜かして見せるこいつは、
出来の良さそうな見た目と違ってなにもわかっていないのだ。
俺はそっと自分の胸を撫ぜる。
俺の胸にはもう、穴は空いていない。
このバカが、どうにかしてそれを埋めてくれやがったからだ。
「おい、とら」
呼びかける。
すると、炎が風に揺らぐように、髪の色がちらと橙色に染まった。
「……その名前で呼ばないで」
「とら」
「うしお!危ないから、私の後ろに隠れて!」
「お前が言ったんだぞ。
『ぬえじゃなくて、とらでいたいとおもって』たんじゃねーのかよ。
なあ、とら」
とら、と呼びかける度、夜を切り取ったような鵺の髪が煌めき、明滅する。
夜空の如き闇色から、薄明のごとき橙色に。
「……お願い、うしお。私をとらと呼ばないで。
力が、上手く使えなくなる―――」
「上手く使うとあいつに勝てるのか?」
ほとんど叫ぶようにしてそう懇願する鵺に、俺は淡々と質問を投げかける。
「答えろ、とら。俺だけ助けるとか言ってたな。
それでお前はどうすんだよ。
あの狐と心中か?
そんなんでいいのか、お前」
温かさを知らないなんて抜かしてたこいつは、いつだって自分を責めていた。
こういうときでさえ、自分でなんとかするものだと思いこんでいるのだ。
こいつは、誰かに甘えるやり方さえ知らない。
「俺だけ帰って、家を片付けて。
一人で寂しくフレンチトーストを食うんだ……お前のぶんまでな。
お前はそれで、本当にいいのかよ」
「……やだ…………」
俺の問いかけに、鵺は―――とらは振り返ると。
凍てつく薔薇のような人外の美貌をぐしゃぐしゃに歪めて、大粒の涙を零した。
「わたしも、いっしょにたべたいよお、うしお……」
「なら全部。俺に任せろ」
その場に崩れ落ち、座り込んで、ぐすぐすと泣くとらの頭に手を置いてやる。
血が足りないせいだろうか、冷え切った指先がとらの体温で温かく感じられた。
「そこで待ってろ。すぐ終わらせるから」
そうして、とらの代わりに、狐の前に俺は立つ。
「さて。それでは―――科学の時間をはじめよう」
狐は笑う。上位者の優越を存分に噛み締め、唇を歪めている。
「科学ゥ? 今更そんなもので何ができる、人間。
貴様ら人間の科学を奪い、そこでうずくまる鵺の力を喰らい!
もはやオレの力はかの大妖狐、九尾の狐をも凌駕した!
貴様が何をしようと、このオレに届くことはないと知れ!」
「なんでお前に俺が何かしてやらなきゃなんねーんだ」
あんまり的はずれなことを言うものだから、俺は小さくため息を吐く。
それから、傍らのとらに向かって指を伸ばす。
「座標系定義:曲輪木とら」
こうして伸ばした指を通じて、何か神秘的な力が流れているのだろうか。
わからない。しかし、これが人の力だと俺は確信している。
俺の言葉に意味があったのか、ひときわとらの髪は強く輝き、闇の色を失う。
「なんだ……それは。何の真似だ」
「何って、系の定義だよ。
取り扱う系の定義をしなければ、議論なんざできやしない」
「ケイ……?」
科学を喰らったはずの狐は、オウム返しにそう口にした。
これから始まるのは仮説の実証。
『定量性』。
人の持つ形質、科学という形で結実した、神秘を断つ刃。
そう在れと望まれたように、そう振る舞う怪奇、鵺。
その大本は、先の夢で見た、天を覆う黒雲だ。
「名を与えられ、切り分けられたものは大元から離れた別の存在だ。
お前の大元たる黒雲とやらは限りのない、不可知の化け物だったかもしれないが、お前は違う。
俺がお前の形を完全に切り離して、留めてやる」
指を向けて、宣言する。
線を引いて、切り離す。
此方と彼方を分ける術。
無限の一部を切り取って、有限の一つの系として設定すること。
即ち、『定量性』。
その力が俺の意に沿い働くよう、言葉をもって指定する。
「とら。
のんきなおしゃべりレッサーパンダ。
お前は奪うことも戦うこともやめて、幸せに暮らすんだ。
心からそう望むお前の胸に、もう穴なんて空いていない」
俺の宣言と共に、刃が振るわれる。
そして同時にそれは、そう在れと望まれたように、そう振る舞う。
絶世の美少女だった姿は縮み、闇色の髪は橙色に変じ、獣の耳だけが残った幼児がそこに在った。
その胸に、穴はもう空いていなかった。
諦めと納得はまるで他人事のようで、
全てが遠く離れていくような感覚の中、
俺の思い出と思しきものが映像として流れて、遠くへ去ってゆく。
まあ、それもそうか。
ごく当然のこととして、俺はそれを受け容れる。
胸に穴が空いたんだし。
そりゃあ、死ぬわな。
ひとつ、また一つと流れてゆくそれを、
これが走馬灯か、なんて思いながらぼんやり見ていると、
忘れていたはずの光景が流れてくる。
「僕はうしお。君の名前は?」
そして俺はようやく思い出す。
ああ。俺は。
ずっと昔、あいつに出会ってたんだな。
黙って夜に家を出て、レッサーパンダを拾って、大人に怒られて。
「はは」
笑い声が漏れる。己の愚かさに。
どうして忘れてたんだろうな。
あの時俺は、あんなに悔しかったのに。
「君には休暇が必要だよ、曲輪木くん。
今日は帰って、頭を冷やしなさい」
悔しかった。
奪われていくのが。
奪われていくものを、見ていることしか出来ない自分が。
そしてまた、俺は奪われていくものを、見ていることしか出来ない。
でもしょうがないだろう。
胸に穴が空いてるんだ。
「うしお」
責めるなよ。
どうしろってんだ、俺に。
「ごめんね……」
謝るなよ。
どうしようもないんだ、俺は。
だって、胸に穴が空いてるんだから。
動けないままそんな言い訳をする俺をよそに、映像の色が変わる。
下らない日常の一幕だ。
家に帰ってきて、飯を作って、一緒に食べる。
同じ布団で寝る。
たったそれだけの繰り返しが流れてゆく。
とらが笑っている。
とらが叫んでいる。
とらが喜んでいる。
俺は……その時どんな顔をしていたんだろう。
目の前の映像にはだんだんと、俺のものではない記憶が混じってくる。
天を覆う黒雲。
街一つ覆い尽くすそれを恐れた人々と、果敢にも雲に挑んだ者たちの顛末を、俺は垣間見る。
人々の恐れを具現化したような化け物に『虎噤』と名をつけて、彼は私を時の彼方へ追放する。
「八幡大菩薩の加護が、あの化性にもあればいいのですが」
それが誰の記憶か、言うまでもなく俺にはわかる。
彼女の記憶の大半は、暗い暗い空間で、一人きりで呟き続ける記憶だった。
俺は、見聞きした全てを、そこで反芻する。
俺は、見聞きした全てを、そこで反芻する。
俺は、見聞きした全てを、そこで反芻する。
俺は、見聞きした全てを、そこで反芻する。
私は鵺。
不壊の黒雲、限りなく広がる夜の闇。
うしお―――私を照らす真如の月。
当てのない路を照らす、救いの光。
あなたのいない世界なんて、
私はもう、
「ゴホッ、ゼホッ! ああ、クソ!」
激しい咳と共に目が覚める。
そこに投げかけられる、柔らかな労りの声。
「うしお、よかった……」
俺に覆い被さるようにして俺を見下ろす、怪奇の姫、鵺。
その身体の向こう側に、黒い竜巻きのようにのたうつ尾を持つ巨大な狐が嗤っている。
そんなものが見えてしまう―――
鵺の胸には、向こう側が見えるほどでかい穴が空いていたから。
俺は思わず声を荒げる。
「よくねえだろ、なんだこの穴は!」
「これは、私が悪いから」
悪戯が見つかった子供のように、鵺は。
俺から目を逸らしたままボソボソと言葉を継ぐ。
「私のせいで、怪我をさせちゃった。
だからこれは私の傷。私のものを返してもらっただけ」
そう言われて俺は自分の胸をまさぐる。
べっとりと血の付いた胸には、穴も傷跡さえもない。
埋められている。
シャツに空いた穴は、俺の身体を貫通して空けられたもののはずだ。
果たして、俺の身体に空いた穴。
そこには黒い靄が詰め込まれるように満ちていた。
混じり合っている。
夢で見た通り、鵺を―――
とらを構成していたのは、こういう性質のものだったのだ。
融け合い、混じり合い、一つになろうとするもの。
形のない黒い雲。
「この、バカ野郎が……」
「ハハ、そう! 大馬鹿者だ! オレも、お前も!その鵺も!」
ぷしゅ、という空気の音と共に、鵺の身体が削れる。
わずか漏れる吐息に、苦悶の色が浮かんでいたのは俺の聞き間違いではない。
「はは、ははは、ははははははは!
まさか! あの『鵺』が!
呪具の一つでコンなにも簡単に打倒できるとは!
狸どもにも劣るたかが人間!一匹!庇って!
こうまで楽に削れてくれるとは!
ああ、オレはなんと愚かだったのだ!
なァにが姫だ、下らない! 実に非合理!
はじめからこうしておけばよかったのだ! ははははは!」
ぷしゅ、ぷしゅ、と空気を裂く音が鳴る度。
大音声で笑う狐が攻撃をする度、鵺の身体は削れてゆく。
削れた傷から漏れ出した黒い霞、モヤのようなものを吸い取ると、
狐の身体は更に肥大化し、新たに黒い力の奔流のような尾が生える。
「そうだ。この力を喰らえば、オレはもっと強くなれる!
オレが―――九尾になる。
この無辺の黒雲を従えて、このオレこそが新たなる怪奇の王になるのだ!」
「そんなこと、させない」
「できるかァ?そのナリで!
足手纏いの人間一匹抱えて! その傷で!
なあ、鵺サマ? 今のお前にそれができるかァ?!!」
天に向かって哄笑する狐。
天まで伸びるその黒い尾の数は九。
一つ一つが竜巻と見紛うほどに力に満ち、暴れ狂い、偽物の市街を破壊してゆく。
そんな歩く災害のような狐から俺を庇うように立つ鵺は、どう見たって満身創痍。
「大丈夫。うしおだけは、絶対助けるからね……」
なのに、このバカは。
作り物の笑顔でそんなことを抜かして見せるこいつは、
出来の良さそうな見た目と違ってなにもわかっていないのだ。
俺はそっと自分の胸を撫ぜる。
俺の胸にはもう、穴は空いていない。
このバカが、どうにかしてそれを埋めてくれやがったからだ。
「おい、とら」
呼びかける。
すると、炎が風に揺らぐように、髪の色がちらと橙色に染まった。
「……その名前で呼ばないで」
「とら」
「うしお!危ないから、私の後ろに隠れて!」
「お前が言ったんだぞ。
『ぬえじゃなくて、とらでいたいとおもって』たんじゃねーのかよ。
なあ、とら」
とら、と呼びかける度、夜を切り取ったような鵺の髪が煌めき、明滅する。
夜空の如き闇色から、薄明のごとき橙色に。
「……お願い、うしお。私をとらと呼ばないで。
力が、上手く使えなくなる―――」
「上手く使うとあいつに勝てるのか?」
ほとんど叫ぶようにしてそう懇願する鵺に、俺は淡々と質問を投げかける。
「答えろ、とら。俺だけ助けるとか言ってたな。
それでお前はどうすんだよ。
あの狐と心中か?
そんなんでいいのか、お前」
温かさを知らないなんて抜かしてたこいつは、いつだって自分を責めていた。
こういうときでさえ、自分でなんとかするものだと思いこんでいるのだ。
こいつは、誰かに甘えるやり方さえ知らない。
「俺だけ帰って、家を片付けて。
一人で寂しくフレンチトーストを食うんだ……お前のぶんまでな。
お前はそれで、本当にいいのかよ」
「……やだ…………」
俺の問いかけに、鵺は―――とらは振り返ると。
凍てつく薔薇のような人外の美貌をぐしゃぐしゃに歪めて、大粒の涙を零した。
「わたしも、いっしょにたべたいよお、うしお……」
「なら全部。俺に任せろ」
その場に崩れ落ち、座り込んで、ぐすぐすと泣くとらの頭に手を置いてやる。
血が足りないせいだろうか、冷え切った指先がとらの体温で温かく感じられた。
「そこで待ってろ。すぐ終わらせるから」
そうして、とらの代わりに、狐の前に俺は立つ。
「さて。それでは―――科学の時間をはじめよう」
狐は笑う。上位者の優越を存分に噛み締め、唇を歪めている。
「科学ゥ? 今更そんなもので何ができる、人間。
貴様ら人間の科学を奪い、そこでうずくまる鵺の力を喰らい!
もはやオレの力はかの大妖狐、九尾の狐をも凌駕した!
貴様が何をしようと、このオレに届くことはないと知れ!」
「なんでお前に俺が何かしてやらなきゃなんねーんだ」
あんまり的はずれなことを言うものだから、俺は小さくため息を吐く。
それから、傍らのとらに向かって指を伸ばす。
「座標系定義:曲輪木とら」
こうして伸ばした指を通じて、何か神秘的な力が流れているのだろうか。
わからない。しかし、これが人の力だと俺は確信している。
俺の言葉に意味があったのか、ひときわとらの髪は強く輝き、闇の色を失う。
「なんだ……それは。何の真似だ」
「何って、系の定義だよ。
取り扱う系の定義をしなければ、議論なんざできやしない」
「ケイ……?」
科学を喰らったはずの狐は、オウム返しにそう口にした。
これから始まるのは仮説の実証。
『定量性』。
人の持つ形質、科学という形で結実した、神秘を断つ刃。
そう在れと望まれたように、そう振る舞う怪奇、鵺。
その大本は、先の夢で見た、天を覆う黒雲だ。
「名を与えられ、切り分けられたものは大元から離れた別の存在だ。
お前の大元たる黒雲とやらは限りのない、不可知の化け物だったかもしれないが、お前は違う。
俺がお前の形を完全に切り離して、留めてやる」
指を向けて、宣言する。
線を引いて、切り離す。
此方と彼方を分ける術。
無限の一部を切り取って、有限の一つの系として設定すること。
即ち、『定量性』。
その力が俺の意に沿い働くよう、言葉をもって指定する。
「とら。
のんきなおしゃべりレッサーパンダ。
お前は奪うことも戦うこともやめて、幸せに暮らすんだ。
心からそう望むお前の胸に、もう穴なんて空いていない」
俺の宣言と共に、刃が振るわれる。
そして同時にそれは、そう在れと望まれたように、そう振る舞う。
絶世の美少女だった姿は縮み、闇色の髪は橙色に変じ、獣の耳だけが残った幼児がそこに在った。
その胸に、穴はもう空いていなかった。