RECORD

Eno.307 倉橋ゆづるの記録

愚者の杯

 
酒に酔えない人間はいる。
向かいの席でティーカップの中身を見つめている友人は、
まさにそういうタイプの『人間』だった。

こういう類の人間は、酔うことができれば楽になれるのかというと違う。
享楽に耽ったことを、熱狂したことを恥辱とし、
はたまたそれに殉ずるものまでいる始末。

だが、それを笑うことはできない。
時に死を選ぶほどの苦痛にもがく者を笑うことができるのは、
……間違いない、人でなし・・・・だ。

思わず舌打ちが漏れて、彼はひとつ瞬きをした。
こちらの反応を窺うわけでもなく、
ただその音によって思惟の洞窟から引き摺り出されたようだ。

「……あんたに苛ついてるわけじゃないよ、ゆづ」
「うん、分かってるよ」

それでも言葉にしておくことは大事だから、そう伝える。
すると彼は、本当に嬉しそうにはにかむのだ。

「みーちゃんのそういうところが好き」
「………………あんたのそういうところがさぁ〜〜〜〜」

いつものように、彼は無防備に純粋な好意を差し出してくる。
思わず天を仰いだ。

「……そういうところがさ、
 『酒に酔いやすいやつ』とか『飲んだくれ』を
 勘違いさせるんだよ、分かってる?」
「うん……?」

彼が曖昧な笑みを浮かべて小首を傾げると、
アッシュブロンドの髪がさらりと揺れた。
灰色の瞳は瞬くだけで光を柔く反射して――
月並みな表現となるが、吸い込まれそうなほどに美しい。


それゆえに、彼は悪意を向けられることが多い。


妬み嫉み、羨望、加虐性や支配欲、
そういったものを逆撫で・・・してしまう。
良くも悪くも、相対する者の人間性を引き出すのだ。

――いや、引き出すなんてものじゃない。
暴く・・
胸を割いて開いて、胸骨を砕き、肺腑の下の心臓を抉り出す。

たまったものじゃないだろう。
だから自身を守るために、彼に手を上げるのだ。
そしてそれに対して己を守る術を知らない彼は、
容易に傷ついてしまう。



だから私が色々と教えてあげている。
自分でも呆れるくらい、甲斐甲斐しく。
それで懐かれてしまった。
全幅の信頼を寄せられている。

「酒に酔えないなら酔えないで、
 『酒に強いふり』とか『酔ったふり』も
 できるようにならないと、」

それができるなら、この友人があんな目・・・・をすることはない。
他人に、特に彼に対して要求するには些か無茶な話だ。
私は言葉を切った。

「……ゆづ」
「うん」
「『ちーちゃん』以外の人を無理に好きになれとは言わない」

話に聞く限りでの判断になるが、
この友人には長らく、『ちーちゃん』以外の拠り所がなかった。
だから『ちーちゃん』さえいれば良い、と思っている。

「……でもね、『人間』のかたちを受け入れよう、
 肯定しようって気持ちは、祈りでもあるんだよ」
「『酔えない人々』の、ね」

人間の有り様を疑いなく肯定できているのなら、
祈るなんて行為は必要ないのだから。

その中で苦しみもがく人々が、
どうにか適応しようとして選んだのは、
より大きなスケールで『人間』を量る語ることだった。

問題を抽象化し、希釈して、曖昧にすれば――
彼らも酔ったふりができる。
『人間』の悪辣な部分を受け入れ、
『人間』の善性に希望を抱くことができる。
器用に生きられない罪悪感を誤魔化せる。


――素面で過ごすには、世界は複雑に、人は賢く・・なりすぎた。


「だから純粋に『人間が好き』という人を、
 みーちゃんは信用しないでしょう?」
「違いますぅ、酔ってる人間の言葉を信じてないだけですぅ」

頬杖をついてむくれてやると、彼は声をあげて笑った。
……本当に、楽しそうに。