RECORD
Eno.643 緋山 大志の記録
緋山大志[001]
緋山大志は、妖怪「狒々」だ。
もっとも、自らそう名乗ったことはない。
山の祠が潰された日、土埃と一緒に生まれた「何か」だった。
それは名前も持たず、言葉も持たず、ただ山の残響と共に目を開けた。
誰にも祀られず、誰にも気づかれないまま、その「何か」はしばらく山にいた。
動物の声に混じり、風の音を真似て、誰かが通るのを待った。
だが、もうあの道は使われていなかった。
舗装された新しい国道では、クラクションと排気音が絶えず、人は山を見ない。
ある日、ひとりの年寄りがたまたま林道を通った。
苔むした石に足を取られ、倒れかけたところを、思わず手が伸びた。
年寄りは「ああ、ありがてえ……狒々さまかえ」と呟き、深々と頭を下げて去っていった。
それが“彼”の最初の名前だった。
それからは、忘れられた存在としての居場所を探す日々だった。
やがて裏世界の入り口を見つけ、狒々はそちらへと身を滑らせた。
そこは異形が棲む場所で、名前を持たぬ存在も珍しくはなかった。
彼は無言のまま、静かにその隅に座った。
笑えば上唇が目を覆い、誰にも心を見せない――けれどその夜、誰かが焚いた火の前で、
「よぉ、おまえ、名前あんのか」
と隣に腰を下ろした者がいた。
返す言葉はなかったが、代わりに、
その時はじめて、彼はほんの少しだけ笑ってみせた。
もっとも、自らそう名乗ったことはない。
山の祠が潰された日、土埃と一緒に生まれた「何か」だった。
それは名前も持たず、言葉も持たず、ただ山の残響と共に目を開けた。
誰にも祀られず、誰にも気づかれないまま、その「何か」はしばらく山にいた。
動物の声に混じり、風の音を真似て、誰かが通るのを待った。
だが、もうあの道は使われていなかった。
舗装された新しい国道では、クラクションと排気音が絶えず、人は山を見ない。
ある日、ひとりの年寄りがたまたま林道を通った。
苔むした石に足を取られ、倒れかけたところを、思わず手が伸びた。
年寄りは「ああ、ありがてえ……狒々さまかえ」と呟き、深々と頭を下げて去っていった。
それが“彼”の最初の名前だった。
それからは、忘れられた存在としての居場所を探す日々だった。
やがて裏世界の入り口を見つけ、狒々はそちらへと身を滑らせた。
そこは異形が棲む場所で、名前を持たぬ存在も珍しくはなかった。
彼は無言のまま、静かにその隅に座った。
笑えば上唇が目を覆い、誰にも心を見せない――けれどその夜、誰かが焚いた火の前で、
「よぉ、おまえ、名前あんのか」
と隣に腰を下ろした者がいた。
返す言葉はなかったが、代わりに、
その時はじめて、彼はほんの少しだけ笑ってみせた。