RECORD
Eno.255 川原の記録
︙
彼は昔馴染みだ。
厳密に言うと『彼』と呼称すべきかどうか悩ましいところだが、外見は人間の男性を模しているはずなのでそれに準じることとする。
彼は谺だが、本来はそうではなかった。
山の神だとかそういう神霊の類で、ただ山があるだけで信仰には明確な姿がなかった。
なかったから、混ざってしまった。
我々の郷里が限界集落に近かったこともあるだろう。
山そのものへの信仰が薄れた神霊は樹神に、樹神は谺に。
人が信じていられる神秘というのは日に日に小さくなり、私が知る頃には彼はただ一体その山に棲む谺になっていた。
かつて饑神を追い払っていた権能は失われたが、そもそも飢える人間はほとんどいなかった。
山野はまだ豊かにあって、またそれを刈り取る人間そのものも減っていたからだ。
それでも彼は腹をふくらしてやることを諦められなかったのだ、と思う。
周りが誰も満ちているとしても、今の自分には届かないところに飢えた子がいる、というような。
だから真似た。
彼に視覚はない。
谺という怪奇はただの音だとされたからだ。
だから音だけでわかる形にしかなれず、色はいくらか間違えた。
彼は最初に真似た人間の言葉だけを真似ている。
私は怪奇だから、彼に言葉を真似させることができない。
彼の開いた口はすなわち樹の洞で、それがなければ彼は彼でない。
だから閉じることができない。
客観的に見れば凋落したのだろうが、私はそう思わなかった。
人を真似きれなかったがために異界へ渡った彼は単に、『そうしたいから』だけで動いているように感じられたからだ。
︙
私は私で、腹を空かせた子らに含まれてしまったらしい。
彼にとっては誰も彼も怪奇であろうとそうなのだろうが。
(非)河童考
「…………」
蝉の声。灼けつく陽射し。
いやまったく苦手な部類である。
なにせほら、遮るものがないわけだ。
日焼け止めの消費量だって激しい。
蝉の声。灼けつく陽射し。
過ごした時間相応に現実寄りになっているから。
人間が受けるのと同じくらいのダメージで済んでいる。
蝉の声。灼けつく陽射し。
そこへ急に割り込む、場違いな、
彼は昔馴染みだ。
厳密に言うと『彼』と呼称すべきかどうか悩ましいところだが、外見は人間の男性を模しているはずなのでそれに準じることとする。
彼は谺だが、本来はそうではなかった。
山の神だとかそういう神霊の類で、ただ山があるだけで信仰には明確な姿がなかった。
なかったから、混ざってしまった。
我々の郷里が限界集落に近かったこともあるだろう。
山そのものへの信仰が薄れた神霊は樹神に、樹神は谺に。
人が信じていられる神秘というのは日に日に小さくなり、私が知る頃には彼はただ一体その山に棲む谺になっていた。
かつて饑神を追い払っていた権能は失われたが、そもそも飢える人間はほとんどいなかった。
山野はまだ豊かにあって、またそれを刈り取る人間そのものも減っていたからだ。
それでも彼は腹をふくらしてやることを諦められなかったのだ、と思う。
周りが誰も満ちているとしても、今の自分には届かないところに飢えた子がいる、というような。
だから真似た。
彼に視覚はない。
谺という怪奇はただの音だとされたからだ。
だから音だけでわかる形にしかなれず、色はいくらか間違えた。
彼は最初に真似た人間の言葉だけを真似ている。
私は怪奇だから、彼に言葉を真似させることができない。
彼の開いた口はすなわち樹の洞で、それがなければ彼は彼でない。
だから閉じることができない。
客観的に見れば凋落したのだろうが、私はそう思わなかった。
人を真似きれなかったがために異界へ渡った彼は単に、『そうしたいから』だけで動いているように感じられたからだ。
>>619959
「迷ったんですか?」「石」
「迷ったんですか……」
馴染みの顔ではある。
途方に暮れていたこともわかる。
彼は聴覚を持つ他者がいないと物理的に出現できないから、
私が来るまで姿のないまま右往左往していたのだ。
「焼く」
「知りませんよ何が起きても」
向日葵はお気に召さないらしい。
それもそうか。
「……まあ、秋ですよね。あなたは」
「食え」
「その押し付け癖直しませんか?」
素手に焼き芋、軍手に小銭を引き替えて歩く。
向日葵畑が途切れた地点で振り向けば、既に姿はなかった。
道案内の役には立ったらしい。
私は私で、腹を空かせた子らに含まれてしまったらしい。
彼にとっては誰も彼も怪奇であろうとそうなのだろうが。



