RECORD

Eno.112 天降川もあの記録

#06 「引くほどに満ちていく」

 束都校の中等部卒業、もとい高等部への進学を間近に控えたある日。
 学生寮に入寮する荷造りに悪戦苦闘しながら、「寮に移ったらいよいよ言い訳が利かなくなる」からと、半ば現実逃避気味にいつもの出し入れ・・・・の練習をし始めると。
 私の腕とぴったり重なるように、もしくは覆いかぶさるようにして、すぐそばに白い腕が浮いていた。

 真っ白な包帯を透明な型にぐるぐると巻き付けでもした風に、指を、手のひらを、そして腕を形作る様は、さながらホラー映画のミイラに近いものを感じさせられた。
 これはうっすらと透けて見える時もあれば、表面の細かな網目までくっきりと見える時もあり。
 私の後を追ってついてくることも、独りでに動くこともあった。
 透けた腕に反対の手を翳しても通り抜けてしまい、繰り返し試しても一向に触れられない。
 一方、くっきりしている時の腕には本物の腕を掴んでいるような質量と弾力が確かにあって、しかし包帯の隙間から覗く内側は空洞以外の何でもなく。
 それなのに私の手の届く距離であれば、この腕を操って物を動かすことさえできた。
 そして白い腕は普段そうしているのと同様に、私の意識的な働きかけによって、あたかも最初から存在していなかったように消えてなくなる。

 いよいよ来たる偉い人への説明がややこしくなりそうな気配を感じ、頭を抱えたくなった。
「神秘を制御する」――この一点においては、果たして言いつけを守れたと胸を張れるだろう。
 ただこの力、とりわけ白い腕について、神秘であると言い切ったとしても納得されるかどうか。
 これが私に何かをさせたいのか、もしくは私に寄り添っているだけなのか。
 単に私の抱いた願望や想いがこれを視覚化させただけか。
 いかに神秘といえど、そういった部分を謎のままにしておいていいのだろうか?

 そういった分からなさに対しても、恐らく神秘管理局でなら一応の答えをくれる。
 それで良しとしないのは、先んじて私の答えを用意したいのに考えが纏まらないからだ。
 他人に意見を求めはしても、そこに全てを委ねるようでは駄目だ。
 誰しも、悩みも詰まりもするものだが、自分の思考を止めていい理由にはならない、といつだかお父さんが言っていた。



 腕の検証に時間を割いたあまり、ろくすっぽ荷造りが進まなかった夜。
 気が付けば、私は馴染み深い灰色の森の中にいた。

 硬いコンクリートの地面。高さのまばらな建物が、私を取り囲むようにして立ち並ぶ。
 照りつける日差しに目が眩み、額に滲んだ汗が大粒の雫となって流れ落ち、足元に跡をつける。
 一部が欠けてそのままになっているお向かいのブロック塀。
 世間話に花を咲かせる近所のおばさま方。
 人懐っこく吠える散歩中の犬。
 聞き慣れた車のエンジンとタイヤの音。
 風情ある風鈴の音色と対照的な、やかましいセミの声。
 記憶にあるごく最近のそれとはどこか少しずつ異なっているのに、確かに見覚えのあるこの場所。
 試しに後ろを振り向いてみれば、「天降川」の表札と立派な門扉が当たり前にそこにある。

 些細な違和感を胸に抱えて、心当たりを頼りに歩き出す。
 何千何万と歩いた道を少し進んで、十字路を一つ曲がる。
 また少し歩き、同じように曲がろうとして、ふと角にある家の垣根の隙間から庭を覗き込んだ。
 視線の先には、縁側の日陰で暑そうに寝そべる老齢のグレート・ピレニーズの姿。
 数年前に天寿を全うしたと聞かされたはずの彼が、どういうわけか元気そうにしている。

 それから再び歩き始めて、一つ、二つと道を曲がったところに、やはりそれ・・はあった。
 鳥居を思わせる仰々しい石のアーチをくぐり、真新しさの残る石畳の歩道を踏みしめて。
 青々とした木々の隙間から差し込む陽の光に目を細め。
 あの日の自分をなぞるべく、その場にうずくまってもみて。
 しばらくして顔を上げても、セミのうるささはこれっぽちも変わらなかった。

 こういうことではないのか、と立ち上がり、来た道を戻ろうとした間際。
 私の目の前に白い包帯が一束現れては、解けたり絡み合ったりを繰り返して人の上半身を形作っていく。
 中空の胴体。のっぺらぼうな頭部。
 腰から下はなく、宙に浮いたまま、存在しない顔でこちらを見つめ。
 知っている白い腕をこちらに差し伸べて、じっと様子を窺ってくる。
 明らかに異質な、けれどどこか安心感を覚えるその人型と顔を合わせ。
 向けられた手に自分の手を重ねた時、私はようやく合点がいった。

 そうか。あの包帯お母さんが私を守ってくれていたんだ。

 こんな単純な答えを見落としていたなんて。
 余計なことにばかり目が行って、肝心なものが見えていなかった。
 あの日、これを握り締めたのは偶然であっただろうが、その包帯にはいつだって娘の身を案じる強い想いが篭っていて。
 そんな当たり前の祈りと、私の欲望と、或いは他の何かを巻き込み混ざり合って、一つの神秘を織り成した。
 もっと面倒臭い事情があるのか否かは、きっと私の知るところじゃあない。
 たまたまそこに居ただけの怪奇に過ぎなかったとしても、害意を持たないならきっと問題にはならない。
 これが私の身を守るための力であるなら、もう多くを求めずともいい。
 今は、それで。



 この上なくはっきりと冴えた目が、真っ白な天井の一点を注視する。
 夢を見ていた。いつぞやの夏の日の夢。
 内容も概ね覚えているが、思い出せてしまうからこそ、この目覚めがいまいちすっきりしない。
 白紙のまま放ったらかした答案用紙に、一晩経ったら一見それらしい答えが記してあるような、奇妙なむず痒さ。
 そういえば、前にいなくなったものが枕元に戻ってきたのも、夢を見た翌朝だった気がする。
 夢という形で力と自らの存在を意識させていたなら、考えを整理させてもおかしくはない、のか?
 しかしなるほど。眠っていても、自分の出した答えには違いない。

 掛け布団からもぞもぞと抜いた左手を突き出してみれば、うっすらと白い影がちらついて。



――……『引くほどに満ちていくレス・イズ・モア



 いつか読んだあの言葉が、ぽつりと私の口を衝いて出た。