RECORD
Eno.1015 灰原 よたの記録
資料__消滅集落(ウェブページ)
灯村(とぼしむら)は、かつて富山県南部に存在した村である。
1926年(昭和元年)12月に発生したと見られる森林火災によって全集落及び家宅が消失し、消滅している。
またこの前にも1925年(大正14年)11月に森林火災が発生し、複数の集落が離村した。特に村目、小口、東海の3集落は該当災害による被害を訴え、追放される形で離村している。
1954年(昭和29年)4月7日、自治体の調査によって正式に消滅集落であると決定づけられた。
上新川郡(現在の富山市南部)にあり、面積は約3.66km²。
薬師岳に面する黒部川に沿って発展した山間部の村で、付近に以下の山を持つ。
山:薬師岳、中ノ保岳、日輪岳
町村制の施行と分離
1889年(明治22年)4月1日に施行された町村制によって一度は大山村に合併されたが、交通の不便や部落意識の差から常に諍いが発生していた。
1894年(明治27年)5月6日には大山村管轄の有峰村がある有峰湖付近で火事を起こしたことから(→有峰湖森林火災)村内断裂が生じ、事実上の村八分となる。
1894年(明治27年)6月1日に大山村からの分離独立を上新川郡自治体に申請したが不許可、その後6月20日に再度申し出があった。その当時に発生した大山村村民と旧灯村村長の口論により弾圧が表面化し、同年9月4日、自治体は交通不便を理由に独立を認めた。
当時の灯村村民は他合併村に対して非常に攻撃的な言動が多く、自治体に向けても「村を汚すな」「山に無関係の者を踏み入れさせるな」といった主張を繰り返していた。
自治体からの除名処分
その後1914年(大正3年)に至るまで数度の報告義務破棄が確認され、期間内の村の状態は近隣村民の偵察結果からのみ推測が可能である。
大山村役員が灯村村役場にて灯村村長と会話した際の記録の一部が保管されている。その中には「外の村民との交流は一切断絶し、山と共に生きる。村は我々の火である。火を絶やしてはいけない。長く保てば大火となるものも、火花の頃に風が吹けば塵芥と同じである。」といった記述が確認された。
1922年(大正11年)2月1日、当時総人口300人前後と見られる灯村は、自治体の一切の主張を無視したことから自治体の町村の区分から除外される。
事実上は公式な町村でなくなり、複数の集落が過ごす部落として扱われる。
その後も一切の音沙汰はなかったが、自治体の補助を外れてからも役員が自主的に調査へ赴き、灯村の様子を記録していた。記録は村が消滅したと見られる1926年12月11日までである。
二度の森林火災による消滅
1925年(大正14年)11月7日、灯村周辺の森林で大きな火災が発生した。人為的なものと考えられるが火元は不明であり、3集落10戸にわたって大きな被害を被った。
当時村長だった東海含む集落は半壊し、黒部川沿いに避難しようとしたが溺死や動物による殺害を受けている。
またこの火災被害を受けて村目、小口は大山村に復興補助を求めたが拒否され、その場で複数人が怪我を負う事件も発生。村民は取り押さえられ、灯村との交渉に用いられたが、灯村集落の戸星はこれを一切受け入れなかった。
一連の流れを経て、1年にわたり複数の集落が離村。最終的に灯村はひとつの集落のみで維持され、その総人口は54人であったとされる。
1926年(昭和元年)12月23日、灯村で再び火災が起きる。これは当時の集落内にある村長の家から発生したと考えられ、一村心中を目論んだ人為的な放火と見られる。
灯村全域に火が回り、周辺村民や自治体も集合して鎮火させたが、灯村住民から生存者は発見されなかった。
結果、火災による一村消滅。書類上は上記の区分除外の時点で村としての区分を外れていたものの、実際に部落として消滅した。
現在
富山市に併合後、付近には慰霊碑が立てられたが管理不十分で、定期的に立ち入る人員もないため廃村として管理はされていない。
簡易な通行止め処分はあるものの付近の登山コースやハイキングコースの一角にあり、火災跡が現在も見られている。
※この記録はフィクションであり、記録内に登場する土地、団体、人物、事件、思想、宗教とは一切関係ありません。
概要
1926年(昭和元年)12月に発生したと見られる森林火災によって全集落及び家宅が消失し、消滅している。
またこの前にも1925年(大正14年)11月に森林火災が発生し、複数の集落が離村した。特に村目、小口、東海の3集落は該当災害による被害を訴え、追放される形で離村している。
1954年(昭和29年)4月7日、自治体の調査によって正式に消滅集落であると決定づけられた。
地理
上新川郡(現在の富山市南部)にあり、面積は約3.66km²。
薬師岳に面する黒部川に沿って発展した山間部の村で、付近に以下の山を持つ。
山:薬師岳、中ノ保岳、日輪岳
歴史
町村制の施行と分離
1889年(明治22年)4月1日に施行された町村制によって一度は大山村に合併されたが、交通の不便や部落意識の差から常に諍いが発生していた。
1894年(明治27年)5月6日には大山村管轄の有峰村がある有峰湖付近で火事を起こしたことから(→有峰湖森林火災)村内断裂が生じ、事実上の村八分となる。
1894年(明治27年)6月1日に大山村からの分離独立を上新川郡自治体に申請したが不許可、その後6月20日に再度申し出があった。その当時に発生した大山村村民と旧灯村村長の口論により弾圧が表面化し、同年9月4日、自治体は交通不便を理由に独立を認めた。
当時の灯村村民は他合併村に対して非常に攻撃的な言動が多く、自治体に向けても「村を汚すな」「山に無関係の者を踏み入れさせるな」といった主張を繰り返していた。
自治体からの除名処分
その後1914年(大正3年)に至るまで数度の報告義務破棄が確認され、期間内の村の状態は近隣村民の偵察結果からのみ推測が可能である。
大山村役員が灯村村役場にて灯村村長と会話した際の記録の一部が保管されている。その中には「外の村民との交流は一切断絶し、山と共に生きる。村は我々の火である。火を絶やしてはいけない。長く保てば大火となるものも、火花の頃に風が吹けば塵芥と同じである。」といった記述が確認された。
1922年(大正11年)2月1日、当時総人口300人前後と見られる灯村は、自治体の一切の主張を無視したことから自治体の町村の区分から除外される。
事実上は公式な町村でなくなり、複数の集落が過ごす部落として扱われる。
その後も一切の音沙汰はなかったが、自治体の補助を外れてからも役員が自主的に調査へ赴き、灯村の様子を記録していた。記録は村が消滅したと見られる1926年12月11日までである。
二度の森林火災による消滅
1925年(大正14年)11月7日、灯村周辺の森林で大きな火災が発生した。人為的なものと考えられるが火元は不明であり、3集落10戸にわたって大きな被害を被った。
当時村長だった東海含む集落は半壊し、黒部川沿いに避難しようとしたが溺死や動物による殺害を受けている。
またこの火災被害を受けて村目、小口は大山村に復興補助を求めたが拒否され、その場で複数人が怪我を負う事件も発生。村民は取り押さえられ、灯村との交渉に用いられたが、灯村集落の戸星はこれを一切受け入れなかった。
一連の流れを経て、1年にわたり複数の集落が離村。最終的に灯村はひとつの集落のみで維持され、その総人口は54人であったとされる。
1926年(昭和元年)12月23日、灯村で再び火災が起きる。これは当時の集落内にある村長の家から発生したと考えられ、一村心中を目論んだ人為的な放火と見られる。
灯村全域に火が回り、周辺村民や自治体も集合して鎮火させたが、灯村住民から生存者は発見されなかった。
結果、火災による一村消滅。書類上は上記の区分除外の時点で村としての区分を外れていたものの、実際に部落として消滅した。
現在
富山市に併合後、付近には慰霊碑が立てられたが管理不十分で、定期的に立ち入る人員もないため廃村として管理はされていない。
簡易な通行止め処分はあるものの付近の登山コースやハイキングコースの一角にあり、火災跡が現在も見られている。
PL補足
※この記録はフィクションであり、記録内に登場する土地、団体、人物、事件、思想、宗教とは一切関係ありません。