RECORD
Eno.102 不明門通 辰巳の記録
[Eno.494]トージャクさん&プレイス:心の毒屋・御機嫌盗りを大々的にお借りしています!
ご確認ならびに掲載許可を下さり、本当にありがとうございました!
SpecialThanks:他螺千城企画携わりの方達複数名
それがどれくらい前の事だったのか、青年は覚えていない。
裏世界に来て少し経ってからだったような気がする。
あまりにも朧気で、曖昧模糊で、不明瞭で。判然としない記憶。
ただ一つはっきりと覚えているのは、まだ自分の背丈が十分に伸び切っていない頃。
ねね婆と手をつなぐと肩が持ち上がるような、縊り座敷にいた逆柱と目が合うような背丈であったことは覚えている。
昔はあの柱の前を通るたび、ぎょろりとした目に怯えていたから。そこだけは記憶に残っていた。
死骸地の奥、毒屋『御機嫌盗り』は果たして今もそこに在った。
正直に言ってしまうと、訪れた事のある毒屋かどうかすら定かでない。
ぼんやりと覚えているのは、ねね婆に手を引かれて死骸地までいったこと、そこにあった毒屋に世話になったこと、それだけだ。
螺千城で毒屋の看板を掲げる店はそう多くない。
死骸地で毒屋といえばおのずと御機嫌盗りということになるが、やはり店を見ても青年は何も思い出せなかった。
店の立地はここだったろうか。外観はこんなだったろうか。
記憶は掴もうとしても霞の向こうに手を伸ばすように掴めず、ただ自分の手をつないで引いてくれた掌皺の感覚が蘇るだけ。
「毒屋───毒屋は居るか」
がらりと引き戸を開ければ、和風に設えられた店内の様子が伺い知れた。
色取り取りの小瓶が棚の上に並び、とぷりと中で液体らしき何かが揺れている。
夾竹桃の鉢から、甘い香りがほのかに店内へ漂っていた。
戸から入って来る風を拾ったのか、勘定台に置かれた風車がカラリと回る。
そうして番頭が姿を現した。
淡い色の髪が揺れる。中性的な見目をした、男か女か判別できない顔付き。
市松模様の襟巻きの奥から、しわがれた老人のような声でこう言った。
「……おや、お客さんですかぃ。いらっしゃい。私は店主ではなく雇われですがね」
「店主でも番頭でも、毒屋は毒屋に変わりないだろう」
「左様で」
青年はこの街で商いを営む者達を屋号で呼ぶ。
修繕を担う庭園の彼女は朱無垢屋で。銭湯の番台カエルは湯屋で。
今でこそ磨諾鬼の旦那と呼ぶ彼も、はしらぎさまを買うより以前は人形屋の呼称だった。
ゆえにトージャクと名乗る番頭もまた、同じように青年は毒屋と呼ぶ。
煙管の雁首からくゆらせた煙が夾竹桃の香りと混ざった。
先程よりも少しだけ澄んだ声で、トージャクは来店の常套句を言ってのける。
「ようこそおいでくださいました若旦那。ここは心の毒屋『御機嫌盗り』。身体の代わりにあんた様方の心の有り様、それを変える手助けをする店でございます」
文言に覚えがあるのは、やはり青年が幼い頃ここに一度訪れたせいだろうか。
しかしトージャクが主人と仰ぐ者に応対をして貰ったのか、それとも従業員を名乗るトージャク本人に応対をして貰ったのかすら思い出せなかった。
遡ればかれこれ数年は軽く飛んでしまうので、もしも八年前ともなると目の前の彼ないし彼女の年齢とはどうにも擦り合わない。
怪奇の容姿から年齢を推し量るのは無理筋だと、青年は早々に己の中に浮かんできた推測を切って捨てた。
「さて、何が御入用でしょうか」
「聞きたい事があって来た。あとはもしかしたら抽出と、それから買い付けをしに」
「畏まりました。少々お待ちを」
青年の言葉にトージャクは一度頷く。
まるでこちらの返答を予測していたかのような頷き具合だった。
トージャクは初めから分かっていた振る舞いで立ち上がると、店の奥に引っ込んで戸棚を漁る。
青年はトージャクの行動に少し驚いた。確かにこの店に来た目的は今告げた通りなのだが、それにしたって迷いが無い。
一つは最初に話したとおり、自分の中に渦巻いていた事の真相を確かめること。
そうしてもし上記の疑問が解けたのなら、新たに毒をこしらえて貰うこと。
最後にもう一つ。昔ここで作ったであろう毒を買い取りに来たのだ。
しかしまだトージャクには何の毒が欲しいのか伝えていない。
にもかかわらず、トージャクは小瓶を三つほど握って店の奥から戻ってきた。
「御婦人から言伝を預かっております」
「ねね婆から?」
「はい、以前こちらで毒を拵えた際に───」
今日盗って貰った毒は、どうか売らずにとっておいてくださいな。
きっとあの子はあと何年後かにこの店にやって来て、毒の所在を聞いてくるから。
いくつか買い取りすることもあるでしょう。だからそれまでは。
その後は煮るなり焼くなりお好きにどうぞ。
「と、仰られまして」
「……」
しばし顎に手を当てて考え込んでしまった青年を横目に、トージャクは持ってきた小瓶を三つ並べて見せる。
端から順に紫のもの、黄色いもの、赤色のもの。
どれも薄い硝子越しにユラユラと波紋を見せて、毒と言われなければただの色水にしか見えない。
黄と赤には何となく予想がついた。
確かに抜いて貰った覚えがある。ただ、残り一つが分からない。
自分の記憶では毒を生んだのは二瓶だったはずだ。これは何だろう。
「覚えがない。二つじゃ無かったのか?」
「いいえ、確かに三つ。正真正銘あんた様の毒ですよ、若旦那」
「……、…………。そうか、一旦脇に避けておこう。今は疑問に答えて欲しい」
「私で答えられることでしたら何なりと」
トージャクは長く待つのは慣れているのか、静かに煙管を持ち直している。
商品が商品だ。毒を売るのも買うのも、直前になって渋る客がいるのは予想がつく。
長丁場も想定されているのか、毒屋は催促の素振りもなく悠々と美味そうに煙を吐いて見せた。
「少し、気になることがあって」
「はい」
「御機嫌盗りで抜き出した毒が再発……つまり蒸し返すような事はあるのか?」
「基本的にはありやせんね」
「なぜ?」
「一度盗った毒というのは、盗られた記憶こそ残りますが……そこに辿り着くための、想起への手掛かりを失います。そうして思い出すことができず、やがては忘却するものです」
トージャクは一度言葉を切って、煙管の火種を灰吹に落とした。
こぼれた幾つかの粉がさらさらと崩れていく。
「例外として。たとえば失恋の痛みを毒として抽出し、さらにそこからもう一度失恋を味わえば、それは同じく新鮮な痛みを伴いますが。もしや何か不備が?」
「いや、不備ってわけじゃない。盗られた毒は確かに無くなった」
トージャクの言葉は一度聞いた覚えがある。
遠い昔に注意事項として教えてもらったような気がする。
記憶に紐づいた感覚や感情を抜き去り、それを毒として抽出する。
それが心の毒屋の仕事の一つだ。
「黄色い小瓶は昔俺が売った『表世界への切望の感情』だと思う。間違いないか」
「ええ、手がかりを失っているのによく覚えておいでで。間違いありません」
やはりそうか、と青年はひとりごちた。
こちらに来てまだ日の浅い、少し経ってからの時に。幼い自分が癇癪を起していたのだと青年は聞いていた。
帰りたい帰りたいと連日連夜泣きわめき、しかし神秘だけになった身体は表世界へとつながる門を越えることは叶わない。
帰りたくとも帰れない状況下で、ねね婆は考えに考えて、そうして毒屋へと青年を連れて来たのだ。
そうしなければこの裏世界で生きるには当時の青年は幼すぎた。
もしも取り除かなかったのなら、焦がれる心は行き場を失ってどん詰まり。とうに壊れていただろう。
毒として売って正解だった。
ねね婆の目論見通り、するりと抜け落ちた感情はやがて青年をすっかり落ち着かせて。
二度とは戻れぬあの世界への渇望は、真夏の水のように蒸発した。
ゆっくり馴染み、順応して。
この世界で生きていくことを受け入れて、もう帰れないことを受け止めて。
納得することができたのだ。青年には毒屋に救われた恩義がある。
何もこれといって珍しい事ではないらしい。
表世界に爪弾きにされてしまった怪奇達のうち、上手く化けることも叶わぬ、何らかの事情で表へと出ていけない連中が。
たまにこうして盗ってもらいにくるのだとトージャクは語る。
トージャクは一度盗った毒は再発することはほぼ無いと先のとおり告げていた。
であるならば、青年の中に今渦巻いている感情はおそらく表世界へ帰りたいと思う気持ちではないのだ。
別の出どころから生まれてきた、経路の異なる感情。
つまり【帰りたい】のではなく、【行ってみたい】が正しい。
表世界への純粋な興味なのだろう。
確かにここ最近、高校生に進級した弟からの近況報告の頻度が増えたように思う。
縷人の言うゆらぎの影響か、そもそも裏世界へと流入する人間の数が増えている。
これに乗じて螺千城へとやってくる表世界からの客も増えた。
それらは少しずつ青年の心を揺さぶって、表世界への興味という形で発現した。
「新しく毒を拵えてもらう時の値段は?」
「幾許か頂戴しておりますよ。若旦那はこれで四回目のご利用となりますので、お代としてはこんなところでしょうか」
「なんだ結構リーズナブルだな……もっと足元見てふんだくればいいのに」
「あんた様ここに来て急にフランクになりましたね!」
軽口を叩き出した青年に、少々ぎょっとして声とは異なる若々しい反応を見せながら。
トージャクは毒を拵える約束を取り付けてくれた。
今日ではなくまた後日の機会に。今日はまだ別の用事が残っている。
ヂャプ、と揺れた黄色の小瓶をそっと指でなぞり、青年は持ち上げてしげしげと眺めてから、コトンともう一度置き直す。
さてどうしよう、これが必要になる時が今後来るとは思えない。
なんなら今しがた新しく、同じような類似の毒を抜いてもらう約束を取り付けたくらいだ。
気軽にその場の気分で買い取れるほど懐が潤っているわけでもない。
黄色い小瓶はこのまま御機嫌盗りに買い取って貰った方が良いのだろう。
問題は残りの二つ。赤の方の小瓶を手に取る。
「これは多分……関連記憶だと思う」
「ご名答」
青年が弟だと思っている表世界側の人格と、今自分が憑依しているこの身体には。
左目と、腹部と、背中に。妙な怪我が残っているのだ。
腹部と背中はともかくとして、普通に考えても眼球はあまり怪我を負うような場所ではない。
人間の致命傷になりうる頭部とつながる顔は、咄嗟に腕で庇う事が多いからだ。
片目は生まれた時から潰れていた筈だが、ではその瞳を覆う瞼のケロイドは一体どこで負ったのか。
腹背も腹背で、数が数だった。説明のつけられない数多の傷がある。
ある程度の数ならば、幼少期は随分とヤンチャだったのだろうと疑問を持つことさえ無かったのに。
人前で風呂に入るにはちょっとばかし遠慮が勝るような数の傷をこさえている。
腹背がこの有様だというのに、腕や足首、首筋などの服に隠れない露出部分は徹底的に避けるようにして傷が綺麗さっぱり無いのも奇妙だ。
到底つかない場所に瘢痕があって、到底負うべきでない数の夥しい青痣があって。
そうして一番不可解なのは、青年がそれをいつどこで負ったのか、とんと覚えていないということだった。
なんだか凄く痛い思いをしたことは覚えているのに、痛み以外の事を覚えていない。
忘れている。何かを。
怪我を負った際の、恐怖に紐づく関連記憶がすっぽり抜け落ちている。
忘れる起因となったのは間違いなく。トプンと赤色が揺れた。
「これも毒として抜いたんだな?」
「そうです。私の拵える毒は、記憶に紐づいた痛みを他者に与えることができません。痛みに関してできるのは取り出す事だけ」
「つまり両方は盗らなかったと」
「はい。痛みと恐怖、両方とも抜くかどうかを窺った際に、恐怖だけにしてほしいと仰られていましたよ」
「ねね婆お得意のアレか……」
きっと後々必要になるのを予期していたのだ。予期というよりも最早未来予知の領域に近い。
当時幼い少年だった青年が持つには辛すぎた恐怖と痛みの記憶のうち、せめて片側だけでも思い出さぬように削り取って。
裏世界での日々を平穏に過ごさせてから───それはそれとしてこっそり取り置いておくようにと、言伝までしておいた。
いつか青年が取り戻しに来るであろうことを見越して。
彼女の言った通り青年はふたたび毒屋を訪れて、今この赤色が揺れる瓶と向き合っている。
「買い取りたい。ねね婆が言ったなら尚更だ。俺も必要になると思う。いや何に必要かと問われると上手く答えられないんだが」
「忘却記憶の復元は本来あまり受け付けしかねるのですが……御約束ですからね」
「ありがとう」
「これもまた毒屋の仕事ですから。服用は今この場でなければ、想定通りの効果を発揮しない場合がありますが。いかがなさいましょう」
「いや、服用する。記憶がねじれたんじゃ意味がない」
きゅぽ、と可愛らしい音と共に栓が抜かれた。
毒の代金を支払って、そうして小瓶を唇に押し付ける。くっと一息に飲み干してコクンと喉を鳴らした。
トージャクは少し引き攣った顔をした。
「ン。無味無臭」
「あのですね! 普通もう少し躊躇なさるんですけども!」
「こんなのためらうだけ時間の、」
無駄だ、とつづけようとした青年の言葉が止まる。

「あ、」
ぼたりぼたり、と護符の隙間をつたって左目が漏れていた。
際限のないそれを無理やり手で押さえつけて、青年は大きく仰け反る。
しかし止まる気配もなく、指の隙間からだくだくと湧き水のようにあふれ出した。
勘定台にいくつかの黄色が雫となって跳ね返り、飛び散っている。
目が───目が漏れている。欠けた左目が漏れ出している。
ぼたたた、と量を増したそれに慌てて青年は懐から新しい護符を取り出して塞いだ。
「悪い、汚した」
「お構いなく」
勘定台の木目に沁み込んでいったそれを、パーカーのポケットに忍ばせていた手ぬぐいで拭き取ろうとして。
しかし青年はトージャクに制止された。
いつの間に用意していたのか濡れ布巾で絡めとり、綺麗さっぱり痕跡は拭い去られる。
「こちら御希望に沿いましたでしょうか」
「不足なく十全に。……ああ思い出した。これは確かにねね婆が盗れと言うわけだ」
「ご気分が優れませんか? 顔色がよろしくないように見えますけど」
「心配して貰うほど悪くないさ」
顔が青くなっている自覚はあったが、青年はつとめて気丈に振舞うことにした。
螺千城ではあまり弱り目を見せない方がいい。
長らくこの区画に住んで身につけた青年の処世術というか、文字通り痛い目にあって学んだことの一つだった。
布巾を片付けに行ったトージャクを無事な片目で追うと、そのまま自然と視線が紫の小瓶に向いてしまう。
「……だめだ、結局ここまで話しても分からない。これはなんだ?」
「毒ですよ。若旦那、あんた様の毒です」
「だからなんの毒なんだ」
「秘密にするようにと」
「またねね婆が?」
「ええ」
青年はため息をつく。トージャクはこの様子では明かしてくれる気が無さそうだった。
律義に何年ものあいだ毒を取り置いてくれていた店だ。
懇意の客と最初に取り付けた話は覆すこともないのだろう。
「なんだか色が毒々しいんだよな……」
「そりゃ毒ですからね」
「分かってるよそれは」
なんだろうな、と青年が言えば。なんでしょうね、とトージャクが言う。
螺千城の裏手の山へと呼びかけているようだった。
随分と前に酒を酌み交わしたヤマビコの怪奇にはもう暫く会っていない。元気にしているだろうか。
思考を明後日の方向に飛ばしてみたところで、目の前の番頭はうんともすんとも答えてくれなかった。
煙管からはもう詰めた刻みたばこが燃え尽きたのか、すっかり紫煙が立ち消えている。
ここで数時間唸って悩んだところで結論は出ない。
「……保留だ、保留。一旦取り止め。無し! 引き続き取り置いてくれ」
「あらま」
結局青年は毒の小瓶一つの買い取り、それで終いにした。
トージャクは紫の小瓶を丁寧に持ち上げて、置かれていた位置から少しだけ下げる。
また同じように奥の戸棚へと運ばれていくのだろう。
青年は頬についてしまった液の痕を擦り剥がしながら、帰り支度を始めた。
といっても大した荷物もなく、あとは踵を返せばそれでおしまい。
「今日の用事は全部済んだ。帰る。長居したな」
「とんでもない、普段のお客よりもよほど手短でしたよ。ご利用並びにお買い上げありがとうございました」
トージャクは会釈し、出ていこうとする背を見送って。
青年が引き戸に手をかけてから、思い出したように口を開く。
「マナミンとフリチーによろしくお伝えください」
「あの二人ここに来たのか!?」
結局そのまま螺千城に観光目的でやってきた二人の話をして、事の経緯を聞いた青年がなんとも気まずい顔で詫びを入れて。
ようやく青年が店から出たのち、残されたトージャクは視線を勘定台に遣る。
黄色の小瓶と、紫色の小瓶、飲み干された空の小瓶を見た。
黄と赤の小瓶は青年の言った通り。紫の小瓶については。
「しかし一体、どういった意味があるのやら」
以前、幼い青年を連れて店を訪れた際に。
老齢の夫人はもう一つだけ言葉を残していた。
───黄と紫は、きっとあの子の弟が買いに来ると思うの。
それまでどうかよろしくね、毒屋さん。
【日記21】毒屋の話
[Eno.494]トージャクさん&プレイス:心の毒屋・御機嫌盗りを大々的にお借りしています!
ご確認ならびに掲載許可を下さり、本当にありがとうございました!
SpecialThanks:他螺千城企画携わりの方達複数名
それがどれくらい前の事だったのか、青年は覚えていない。
裏世界に来て少し経ってからだったような気がする。
あまりにも朧気で、曖昧模糊で、不明瞭で。判然としない記憶。
ただ一つはっきりと覚えているのは、まだ自分の背丈が十分に伸び切っていない頃。
ねね婆と手をつなぐと肩が持ち上がるような、縊り座敷にいた逆柱と目が合うような背丈であったことは覚えている。
昔はあの柱の前を通るたび、ぎょろりとした目に怯えていたから。そこだけは記憶に残っていた。
死骸地の奥、毒屋『御機嫌盗り』は果たして今もそこに在った。
正直に言ってしまうと、訪れた事のある毒屋かどうかすら定かでない。
ぼんやりと覚えているのは、ねね婆に手を引かれて死骸地までいったこと、そこにあった毒屋に世話になったこと、それだけだ。
螺千城で毒屋の看板を掲げる店はそう多くない。
死骸地で毒屋といえばおのずと御機嫌盗りということになるが、やはり店を見ても青年は何も思い出せなかった。
店の立地はここだったろうか。外観はこんなだったろうか。
記憶は掴もうとしても霞の向こうに手を伸ばすように掴めず、ただ自分の手をつないで引いてくれた掌皺の感覚が蘇るだけ。
「毒屋───毒屋は居るか」
がらりと引き戸を開ければ、和風に設えられた店内の様子が伺い知れた。
色取り取りの小瓶が棚の上に並び、とぷりと中で液体らしき何かが揺れている。
夾竹桃の鉢から、甘い香りがほのかに店内へ漂っていた。
戸から入って来る風を拾ったのか、勘定台に置かれた風車がカラリと回る。
そうして番頭が姿を現した。
淡い色の髪が揺れる。中性的な見目をした、男か女か判別できない顔付き。
市松模様の襟巻きの奥から、しわがれた老人のような声でこう言った。
「……おや、お客さんですかぃ。いらっしゃい。私は店主ではなく雇われですがね」
「店主でも番頭でも、毒屋は毒屋に変わりないだろう」
「左様で」
青年はこの街で商いを営む者達を屋号で呼ぶ。
修繕を担う庭園の彼女は朱無垢屋で。銭湯の番台カエルは湯屋で。
今でこそ磨諾鬼の旦那と呼ぶ彼も、はしらぎさまを買うより以前は人形屋の呼称だった。
ゆえにトージャクと名乗る番頭もまた、同じように青年は毒屋と呼ぶ。
煙管の雁首からくゆらせた煙が夾竹桃の香りと混ざった。
先程よりも少しだけ澄んだ声で、トージャクは来店の常套句を言ってのける。
「ようこそおいでくださいました若旦那。ここは心の毒屋『御機嫌盗り』。身体の代わりにあんた様方の心の有り様、それを変える手助けをする店でございます」
文言に覚えがあるのは、やはり青年が幼い頃ここに一度訪れたせいだろうか。
しかしトージャクが主人と仰ぐ者に応対をして貰ったのか、それとも従業員を名乗るトージャク本人に応対をして貰ったのかすら思い出せなかった。
遡ればかれこれ数年は軽く飛んでしまうので、もしも八年前ともなると目の前の彼ないし彼女の年齢とはどうにも擦り合わない。
怪奇の容姿から年齢を推し量るのは無理筋だと、青年は早々に己の中に浮かんできた推測を切って捨てた。
「さて、何が御入用でしょうか」
「聞きたい事があって来た。あとはもしかしたら抽出と、それから買い付けをしに」
「畏まりました。少々お待ちを」
青年の言葉にトージャクは一度頷く。
まるでこちらの返答を予測していたかのような頷き具合だった。
トージャクは初めから分かっていた振る舞いで立ち上がると、店の奥に引っ込んで戸棚を漁る。
青年はトージャクの行動に少し驚いた。確かにこの店に来た目的は今告げた通りなのだが、それにしたって迷いが無い。
一つは最初に話したとおり、自分の中に渦巻いていた事の真相を確かめること。
そうしてもし上記の疑問が解けたのなら、新たに毒をこしらえて貰うこと。
最後にもう一つ。昔ここで作ったであろう毒を買い取りに来たのだ。
しかしまだトージャクには何の毒が欲しいのか伝えていない。
にもかかわらず、トージャクは小瓶を三つほど握って店の奥から戻ってきた。
「御婦人から言伝を預かっております」
「ねね婆から?」
「はい、以前こちらで毒を拵えた際に───」
今日盗って貰った毒は、どうか売らずにとっておいてくださいな。
きっとあの子はあと何年後かにこの店にやって来て、毒の所在を聞いてくるから。
いくつか買い取りすることもあるでしょう。だからそれまでは。
その後は煮るなり焼くなりお好きにどうぞ。
「と、仰られまして」
「……」
しばし顎に手を当てて考え込んでしまった青年を横目に、トージャクは持ってきた小瓶を三つ並べて見せる。
端から順に紫のもの、黄色いもの、赤色のもの。
どれも薄い硝子越しにユラユラと波紋を見せて、毒と言われなければただの色水にしか見えない。
黄と赤には何となく予想がついた。
確かに抜いて貰った覚えがある。ただ、残り一つが分からない。
自分の記憶では毒を生んだのは二瓶だったはずだ。これは何だろう。
「覚えがない。二つじゃ無かったのか?」
「いいえ、確かに三つ。正真正銘あんた様の毒ですよ、若旦那」
「……、…………。そうか、一旦脇に避けておこう。今は疑問に答えて欲しい」
「私で答えられることでしたら何なりと」
トージャクは長く待つのは慣れているのか、静かに煙管を持ち直している。
商品が商品だ。毒を売るのも買うのも、直前になって渋る客がいるのは予想がつく。
長丁場も想定されているのか、毒屋は催促の素振りもなく悠々と美味そうに煙を吐いて見せた。
「少し、気になることがあって」
「はい」
「御機嫌盗りで抜き出した毒が再発……つまり蒸し返すような事はあるのか?」
「基本的にはありやせんね」
「なぜ?」
「一度盗った毒というのは、盗られた記憶こそ残りますが……そこに辿り着くための、想起への手掛かりを失います。そうして思い出すことができず、やがては忘却するものです」
トージャクは一度言葉を切って、煙管の火種を灰吹に落とした。
こぼれた幾つかの粉がさらさらと崩れていく。
「例外として。たとえば失恋の痛みを毒として抽出し、さらにそこからもう一度失恋を味わえば、それは同じく新鮮な痛みを伴いますが。もしや何か不備が?」
「いや、不備ってわけじゃない。盗られた毒は確かに無くなった」
トージャクの言葉は一度聞いた覚えがある。
遠い昔に注意事項として教えてもらったような気がする。
記憶に紐づいた感覚や感情を抜き去り、それを毒として抽出する。
それが心の毒屋の仕事の一つだ。
「黄色い小瓶は昔俺が売った『表世界への切望の感情』だと思う。間違いないか」
「ええ、手がかりを失っているのによく覚えておいでで。間違いありません」
やはりそうか、と青年はひとりごちた。
こちらに来てまだ日の浅い、少し経ってからの時に。幼い自分が癇癪を起していたのだと青年は聞いていた。
帰りたい帰りたいと連日連夜泣きわめき、しかし神秘だけになった身体は表世界へとつながる門を越えることは叶わない。
帰りたくとも帰れない状況下で、ねね婆は考えに考えて、そうして毒屋へと青年を連れて来たのだ。
そうしなければこの裏世界で生きるには当時の青年は幼すぎた。
もしも取り除かなかったのなら、焦がれる心は行き場を失ってどん詰まり。とうに壊れていただろう。
毒として売って正解だった。
ねね婆の目論見通り、するりと抜け落ちた感情はやがて青年をすっかり落ち着かせて。
二度とは戻れぬあの世界への渇望は、真夏の水のように蒸発した。
ゆっくり馴染み、順応して。
この世界で生きていくことを受け入れて、もう帰れないことを受け止めて。
納得することができたのだ。青年には毒屋に救われた恩義がある。
何もこれといって珍しい事ではないらしい。
表世界に爪弾きにされてしまった怪奇達のうち、上手く化けることも叶わぬ、何らかの事情で表へと出ていけない連中が。
たまにこうして盗ってもらいにくるのだとトージャクは語る。
トージャクは一度盗った毒は再発することはほぼ無いと先のとおり告げていた。
であるならば、青年の中に今渦巻いている感情はおそらく表世界へ帰りたいと思う気持ちではないのだ。
別の出どころから生まれてきた、経路の異なる感情。
つまり【帰りたい】のではなく、【行ってみたい】が正しい。
表世界への純粋な興味なのだろう。
確かにここ最近、高校生に進級した弟からの近況報告の頻度が増えたように思う。
縷人の言うゆらぎの影響か、そもそも裏世界へと流入する人間の数が増えている。
これに乗じて螺千城へとやってくる表世界からの客も増えた。
それらは少しずつ青年の心を揺さぶって、表世界への興味という形で発現した。
「新しく毒を拵えてもらう時の値段は?」
「幾許か頂戴しておりますよ。若旦那はこれで四回目のご利用となりますので、お代としてはこんなところでしょうか」
「なんだ結構リーズナブルだな……もっと足元見てふんだくればいいのに」
「あんた様ここに来て急にフランクになりましたね!」
軽口を叩き出した青年に、少々ぎょっとして声とは異なる若々しい反応を見せながら。
トージャクは毒を拵える約束を取り付けてくれた。
今日ではなくまた後日の機会に。今日はまだ別の用事が残っている。
ヂャプ、と揺れた黄色の小瓶をそっと指でなぞり、青年は持ち上げてしげしげと眺めてから、コトンともう一度置き直す。
さてどうしよう、これが必要になる時が今後来るとは思えない。
なんなら今しがた新しく、同じような類似の毒を抜いてもらう約束を取り付けたくらいだ。
気軽にその場の気分で買い取れるほど懐が潤っているわけでもない。
黄色い小瓶はこのまま御機嫌盗りに買い取って貰った方が良いのだろう。
問題は残りの二つ。赤の方の小瓶を手に取る。
「これは多分……関連記憶だと思う」
「ご名答」
青年が弟だと思っている表世界側の人格と、今自分が憑依しているこの身体には。
左目と、腹部と、背中に。妙な怪我が残っているのだ。
腹部と背中はともかくとして、普通に考えても眼球はあまり怪我を負うような場所ではない。
人間の致命傷になりうる頭部とつながる顔は、咄嗟に腕で庇う事が多いからだ。
片目は生まれた時から潰れていた筈だが、ではその瞳を覆う瞼のケロイドは一体どこで負ったのか。
腹背も腹背で、数が数だった。説明のつけられない数多の傷がある。
ある程度の数ならば、幼少期は随分とヤンチャだったのだろうと疑問を持つことさえ無かったのに。
人前で風呂に入るにはちょっとばかし遠慮が勝るような数の傷をこさえている。
腹背がこの有様だというのに、腕や足首、首筋などの服に隠れない露出部分は徹底的に避けるようにして傷が綺麗さっぱり無いのも奇妙だ。
到底つかない場所に瘢痕があって、到底負うべきでない数の夥しい青痣があって。
そうして一番不可解なのは、青年がそれをいつどこで負ったのか、とんと覚えていないということだった。
なんだか凄く痛い思いをしたことは覚えているのに、痛み以外の事を覚えていない。
忘れている。何かを。
怪我を負った際の、恐怖に紐づく関連記憶がすっぽり抜け落ちている。
忘れる起因となったのは間違いなく。トプンと赤色が揺れた。
「これも毒として抜いたんだな?」
「そうです。私の拵える毒は、記憶に紐づいた痛みを他者に与えることができません。痛みに関してできるのは取り出す事だけ」
「つまり両方は盗らなかったと」
「はい。痛みと恐怖、両方とも抜くかどうかを窺った際に、恐怖だけにしてほしいと仰られていましたよ」
「ねね婆お得意のアレか……」
きっと後々必要になるのを予期していたのだ。予期というよりも最早未来予知の領域に近い。
当時幼い少年だった青年が持つには辛すぎた恐怖と痛みの記憶のうち、せめて片側だけでも思い出さぬように削り取って。
裏世界での日々を平穏に過ごさせてから───それはそれとしてこっそり取り置いておくようにと、言伝までしておいた。
いつか青年が取り戻しに来るであろうことを見越して。
彼女の言った通り青年はふたたび毒屋を訪れて、今この赤色が揺れる瓶と向き合っている。
「買い取りたい。ねね婆が言ったなら尚更だ。俺も必要になると思う。いや何に必要かと問われると上手く答えられないんだが」
「忘却記憶の復元は本来あまり受け付けしかねるのですが……御約束ですからね」
「ありがとう」
「これもまた毒屋の仕事ですから。服用は今この場でなければ、想定通りの効果を発揮しない場合がありますが。いかがなさいましょう」
「いや、服用する。記憶がねじれたんじゃ意味がない」
きゅぽ、と可愛らしい音と共に栓が抜かれた。
毒の代金を支払って、そうして小瓶を唇に押し付ける。くっと一息に飲み干してコクンと喉を鳴らした。
トージャクは少し引き攣った顔をした。
「ン。無味無臭」
「あのですね! 普通もう少し躊躇なさるんですけども!」
「こんなのためらうだけ時間の、」
無駄だ、とつづけようとした青年の言葉が止まる。

「あ、」
ぼたりぼたり、と護符の隙間をつたって左目が漏れていた。
際限のないそれを無理やり手で押さえつけて、青年は大きく仰け反る。
しかし止まる気配もなく、指の隙間からだくだくと湧き水のようにあふれ出した。
勘定台にいくつかの黄色が雫となって跳ね返り、飛び散っている。
目が───目が漏れている。欠けた左目が漏れ出している。
ぼたたた、と量を増したそれに慌てて青年は懐から新しい護符を取り出して塞いだ。
「悪い、汚した」
「お構いなく」
勘定台の木目に沁み込んでいったそれを、パーカーのポケットに忍ばせていた手ぬぐいで拭き取ろうとして。
しかし青年はトージャクに制止された。
いつの間に用意していたのか濡れ布巾で絡めとり、綺麗さっぱり痕跡は拭い去られる。
「こちら御希望に沿いましたでしょうか」
「不足なく十全に。……ああ思い出した。これは確かにねね婆が盗れと言うわけだ」
「ご気分が優れませんか? 顔色がよろしくないように見えますけど」
「心配して貰うほど悪くないさ」
顔が青くなっている自覚はあったが、青年はつとめて気丈に振舞うことにした。
螺千城ではあまり弱り目を見せない方がいい。
長らくこの区画に住んで身につけた青年の処世術というか、文字通り痛い目にあって学んだことの一つだった。
布巾を片付けに行ったトージャクを無事な片目で追うと、そのまま自然と視線が紫の小瓶に向いてしまう。
「……だめだ、結局ここまで話しても分からない。これはなんだ?」
「毒ですよ。若旦那、あんた様の毒です」
「だからなんの毒なんだ」
「秘密にするようにと」
「またねね婆が?」
「ええ」
青年はため息をつく。トージャクはこの様子では明かしてくれる気が無さそうだった。
律義に何年ものあいだ毒を取り置いてくれていた店だ。
懇意の客と最初に取り付けた話は覆すこともないのだろう。
「なんだか色が毒々しいんだよな……」
「そりゃ毒ですからね」
「分かってるよそれは」
なんだろうな、と青年が言えば。なんでしょうね、とトージャクが言う。
螺千城の裏手の山へと呼びかけているようだった。
随分と前に酒を酌み交わしたヤマビコの怪奇にはもう暫く会っていない。元気にしているだろうか。
思考を明後日の方向に飛ばしてみたところで、目の前の番頭はうんともすんとも答えてくれなかった。
煙管からはもう詰めた刻みたばこが燃え尽きたのか、すっかり紫煙が立ち消えている。
ここで数時間唸って悩んだところで結論は出ない。
「……保留だ、保留。一旦取り止め。無し! 引き続き取り置いてくれ」
「あらま」
結局青年は毒の小瓶一つの買い取り、それで終いにした。
トージャクは紫の小瓶を丁寧に持ち上げて、置かれていた位置から少しだけ下げる。
また同じように奥の戸棚へと運ばれていくのだろう。
青年は頬についてしまった液の痕を擦り剥がしながら、帰り支度を始めた。
といっても大した荷物もなく、あとは踵を返せばそれでおしまい。
「今日の用事は全部済んだ。帰る。長居したな」
「とんでもない、普段のお客よりもよほど手短でしたよ。ご利用並びにお買い上げありがとうございました」
トージャクは会釈し、出ていこうとする背を見送って。
青年が引き戸に手をかけてから、思い出したように口を開く。
「マナミンとフリチーによろしくお伝えください」
「あの二人ここに来たのか!?」
結局そのまま螺千城に観光目的でやってきた二人の話をして、事の経緯を聞いた青年がなんとも気まずい顔で詫びを入れて。
ようやく青年が店から出たのち、残されたトージャクは視線を勘定台に遣る。
黄色の小瓶と、紫色の小瓶、飲み干された空の小瓶を見た。
黄と赤の小瓶は青年の言った通り。紫の小瓶については。
「しかし一体、どういった意味があるのやら」
以前、幼い青年を連れて店を訪れた際に。
老齢の夫人はもう一つだけ言葉を残していた。
───黄と紫は、きっとあの子の弟が買いに来ると思うの。
それまでどうかよろしくね、毒屋さん。