RECORD

Eno.74 川崎 彩羽の記録

Case5:量子不死


量子不死(Quantum Immortality)は、スウェーデン出身の理論物理学者マックス・テグマーク等によって提唱された哲学的思考実験であり、
量子力学における多世界解釈(Many-Worlds Interpretation)に基づいた、「主観的意識の所在」について論じる仮説的アイデアである。


この仮説では、あらゆる量子的な出来事が分岐を生じさせ、全ての可能性がそれぞれ独立した世界として実現するとされる。
この世界観に沿う場合、たとえば致死的な状況に陥った場合は「自身が死んだ世界」と「自身が生存した世界」が二分して出現するとされ、
それに対する自身の意識がどちらか一方のみに主観的に継続され、それを「観測」として受領している……という考えであり、
このことから「人間の意識というものは、常に死を回避した世界に移行し続けている」という仮説である。

この主張は、ある異なる結果が同時に起こり得る状況が確率で分岐し得る状態において
「死(もう一方)を経験する自分は存在しないのだ」という一種の論理帰結として提示される。
しかし、他者から観測可能な証拠が一切残らず、意識の継続は主観的にしか確認できないという性質ゆえに、
この仮説は検証も反証も困難極まるものである。

この考え方は、しばしば死後の世界観・不死性・自己の一貫性に関する形而上学的議論の中で取り上げられるが、
科学的仮説というよりは、「主観的体験が物理法則のもとでどう扱われるか」という問題提起の性格が強くあり
「人は死なない」とする主張に対して反証不可能性をもって信憑性が高まると錯覚する危険を伴う可能性があるため
誤って受け取られると、不健全な不死観や運命論的な態度を大きく助長するリスクもある。

この思想実験は「科学的理論の皮をかぶった形而上学」とも呼びうるものであり、
主観と物理現象の境界線を巡る懐疑的な思索を誘発する例として、哲学やSF的文脈で広く言及される。
この仮説に従えば、どんな死地に陥っても、主観的には生き延びる世界線を渡り歩く自分がいる――
そんな世界観を元にした、SF作品や哲学的ディストピアに対する豊かな物語性の発想源となっている。

---

「彼の世は“私”を不要とし、始末せんとし、それを果たした。
 けれども“私”は消えず、また別の世に落ち、遂には此処まで至った」


「ある種我々はこの主観に於いて、
 生を選択され続けた末路ではあるのかも知れない。
 いくらでも終わる機会はあった。けれども、我々は終わらず此処に在る」


「何処かに“私”が未だ在る世界はあったのだろうか。
 何処かに“私”が利用されつくした世界はあったのだろうか。
 何処かに“我々”にならなかった世界はあったのだろうか。
 ────なんて、さ」



「潰えた可能性は観測出来ない、
 枝分かれした別の枝を観測する事は叶わない。
 夢想するしか無く、その先を見る事は能わない。
 箱を開けて観測出来る猫とはまた話が違う!」


「ウチが欲しいのはいつだって真新しい“結果”!
 だからこそ、やっぱウチは生き残った可能性を突き詰めて行きたいや。

 こういうのはウチよりあちら・・・のが得意な話かも~?」