RECORD

Eno.457 一樺 チカの記録

⚡四月は最も残酷な月(2)

 

 

空は見たこともないような深い紫紺色に染まっている。
建物の向こうにある燃えるような夕焼けは、まるで絵の具を乱雑に塗りたくったかのような、
不自然な鮮やかさ。
街並みは廃墟のように静まり返っている。
まるで、精巧に作られた巨大なジオラマの中に迷い込んでしまったかのようだ。



風がひゅう、と音を立てて吹き抜けた。
生臭く、埃っぽい匂いが鼻腔を刺激する。
さっきまでいた隙間の匂いとは違う、もっと根源的な、古びたものの匂い。



「……ここは、何処だ?」

頭が状況の理解を拒否している。
ただの路地裏の隙間がどうして、こんな場所に繋がっている?
舞台のセットが次の場面のために回転したかのように、世界が変質している。



混乱と困惑、驚愕、そして、得体の知れない不安。
嫌な予感がして、後ろを振り返った。

その予感は当たっていた。
入ってきたはずの建物の境目が、ただの塀に変わっている。まるで最初からそうだったかのように。



「クソッ!」

悪態をついた、まさにその時。
足元に伸びる自分の影が、視界の端に入った。
夕焼けに照らされて長く伸びた、頼りない影。だが、何かがおかしい。





影が、一つではない。
自分の影のすぐ隣に、寄り添うようにして、もう一つ、暗く、長い影が伸びている。
人の影よりもずっと暗闇が深く、ずっと不気味な形をしていた。



「────ッッ!!」

背後に立つ「それ」が何なのか、確かめる勇気はなかった。
考えるよりも先に、体が動いている。
脱兎のごとく走り出した。どこへ向かうという当てもない。ただ、あの影から一刻も早く遠ざかりたい一心で。



背後で何かが蠢く気配がした。ねばつくような、湿った音。




 “い ち か ば く ー ん … …” 



掠れた声が、自分の名前を呼ぶ。
鼓膜を直接震わせるように、頭の中に染み込んでくる。



(気安く呼ばれる謂われはねぇぞ……)

恐怖が背中を撫で上げる。
足を動かせ。もっと速く。心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打っている。
肺が酸素を求めて喘ぎ、喉が渇ききってヒリヒリする。
それでも、止まるわけにはいかない。



角を曲がる。また角を曲がる。やはりというべきか、北摩市の土地勘はここでは全く役に立ちそうにない。
道は捻じ曲がり、見慣れない路地が口を開け、そして、唐突に行き止まりが現れる。



三度目の行き止まりに突き当たった時、不意に悟った。
これは、迷宮だ。
哀れな餌を弄び、追い詰めるための、悪意に満ちた“狩り場”なのだ。



背後から、ずるり、ずるり、と何かが引き摺られるような音が近づいてくる。

もう、逃げ場はない。
壁に背をつけ、荒い息を繰り返す。心臓の音がうるさい。汗が額から流れ落ち、眼鏡のレンズを濡らす。
拭う余裕すらない。



(どうする……どうすりゃいい……)

視線が足元を彷徨う。
どこから転がってきたのか、そこには一本の錆びついた単管パイプが落ちていた。



震える手でそれを拾い上げる。
こんなもので、あの得体の知れない存在に対抗できるとは思えない。
それでも、何もないよりはましだ。
ほとんど暗闇の中の杖のように、あるいは、溺れて流木を掴む者のように、それを手元に手繰り寄せた。



路地の入り口から、影が伸びてきた。
それは、言葉で形容するのが難しい形をしていた。
体表は溶けかけた蝋のように不定形で、いくつもの黒い眼球がぎょろぎょろと蠢いている。
その塊の中心部あたりに、裂け目のようなものが開き、そこから、先ほどの声が漏れ出ていた。




 “い ち か ば く ー ん
   あ  そ   ぼ   ”



「来るんじゃねぇッ……!」

声が震えているのが、自分でも分かった。
怪物は言葉など意に介さないように、じりじりと距離を詰めてくる。



半ば破れかぶれで、金属の管を振りかぶった。


「うおおおっ!」

雄叫びと共に、渾身の力で振り下ろす。



だが。

その一撃はなんの意味もなかった。

怪物は器用にもぬるりとその身を捩らせ、鉄パイプの軌道からはずれる。
それがわかった瞬間には、視界の半分が黒い何かに覆われていた。



ゴッ!!



衝撃。

視界が揺れて、四肢と胴が壁に打ち付けられる。
傍目から見れば、まるで壁に叩きつけられた蚊かハエのようだったに違いない。



「かはっ……!」

鼻の先に胃酸のツンとした匂いが込み上げる。
手から単管パイプが滑り落ち、ガランガラン、と滑稽なほどうるさく音を立てる。

怪物の脚らしきものが、地面に転がったそれを、まるで木の枝のように踏み砕いた。


複数の黒い眼球が、俺を覗き込んでいる。
裂け目のような口がばっくりと割れて、不気味な曲線を描いている。



(……やっぱり、どうにも……ならないのか……)

奇妙なほど、思考は冷静だった。
痛みも、恐怖もある。
だがそれと同時に、急速に現実感が薄れていって、この状況を俯瞰している自分がいた。





不意に浮かんだのは、さっき見たばかりの飛行機雲──

──でさえ無い。飛行機が飛び去った後の、まるで最初から何もなかったような、あの空。

かつては飛行機雲を見上げる度、自分の人生もあの飛行機のように、
世界のどこかへ繋がっているかもしれない、と淡い願望を抱くことがあった。
しかし、白い一筋の線はやがて空気に溶けて、見分けがつかなくなる。

あの飛行機は、どこかへ辿り着いたのだろうか。
あるいは見上げた空に、はじめから飛行機などなかったのかもしれない。
たった今、無になる自分の人生のように。
父親のように。



(……親父みたいに)



父の死に様をその目で見たわけではない。
しかし、父もまた、その日死ぬとは思いもよらなかったに違いない。
業務上の事故。きっと、こんな風に、理不尽で、唐突な終わりだったのだろう。
不条理だ。



だが、それが普通じゃないか。



小学校に上がって間もなく家庭は壊れ、唯一の保護者だった父親も死んだ。
これまでが十分に不条理だ。
今さら、何が起きても、大して差はないんじゃないか。



意味不明な場所で、意味不明な存在に殺されたとしても。



(……………………)



怪物の、裂け目のような口がさらに大きく開く。
その奥には、暗い闇が広がっているだけで、腐臭のようなものが漂ってくる。



意味不明なことばかりが起きて、
意味不明に人生が終わる。
その時が来たんだ──


────…………


…………





───カチリ



なにかの、スイッチが入ったような感覚。
心の深い部分が激しい反発力を帯びて、弾けるように動悸する。



Concrete veins, pulse so slow
“コンクリートの血管、脈はひどくゆっくり”
Gray paint peels, nowhere to go
“剥がれる灰色のペンキ、どこにも行き場はない”



(冗談じゃないッ……)

迫りくる痛みにただ怯えて、放棄されかけていた思考が、急速に熱を帯びていく。



「こんな……こんなワケの分からない終わり方で……」



Hear the static, Getting loud
“聞こえるノイズが、やかましくなっていく”
Lost my way inside the crowd
“人混みの中で、道を見失った”



何がCマイナスだ。何が「こんなもんだろう」だ。
誰が、そんなものを望んだ?
俺は望んじゃいない。

一度たりとも望んじゃいない!



「いいわけが……ねェだろ!!」



This static charge, can't hold it back
“この静電気みたいな衝動、もう抑えきれない”
This inner tremor, takes its toll
“この内なる震え、代償を払わせる”



腹の底が活火山になって、マグマが脊椎を通って脳天に達したかのような怒りだった。
何に対する怒りだったのだろう。
あえて表現するなら、自分自身に対する、燃えるような憤怒。



「ウオオオオォォォォ!!」


あらん限りの声で叫んだ。人生で初めての叫びだった。
それとともに、目と目の間、眉間から先に、何が熱い閃光がほとばしる。





頭の血管が切れたのかと思ったが、どうやら違う。
ディスクグラインダーが金属の板を切削するかのようなスパーク。それが目の前で激しく躍っているのに、
ちっとも眩しくはない。

それどころか、俺の敵意という敵意はハッキリとしたピントを結んで、現実に“それ”を及ぼした。



 “ ! ? ! ? ! ” 


怪物が動きを止める。その黒い眼球が、驚愕に見開かれたように見える。

視界の奥にあった行き止まりの角に立つ古い電柱が、ミシミシと軋む音を立て始める。
まるで、見えない巨大な腕に掴まれたかのように、電柱が怪物の方へと傾いていく。
コンクリートの根元が砕け、鉄骨が捻じ曲がる、凄まじい破壊音。



ZGRAAAAAAAAK !!!!



轟音と共に、電柱は怪奇の真上に倒れ込んだ。
怪物は押し潰される瞬間、甲高い叫び声を上げた。だが、それも電柱が地面に激突する音に掻き消された。
土埃が舞い上がり、視界を砂色に染める。



「ハァッ……! ハァッ……! ハァッ……!」

壁に背を預けたまま、その光景を、ただ、呆然と見つめていた。



何が、起きた?
電柱が、倒れた? なぜ? 俺が、やったのか?
あの、額の火花と、空間の歪みは、何だったんだ?



頭が、ズキズキと痛み始めた。内側から何かで強く圧迫されるような、鈍い痛み。
現実が、フィクションに侵食されている。

土埃がゆっくりと晴れていく。
そこには、無惨に折れ曲がった電柱と、その下敷きになった、黒い染みのようなものだけが残されていた。
異常なものは、もう、どこにもない。

心臓がまだ激しく波打ち、全身が小刻みに震えている。額の痛みは、徐々に強くなっている。



(とにかく、ここから離れないと……)




───その後。


別の“怪物”に補足されたところを、
「神秘ハンター」を名乗るスーツの女性に救われることになるのだが。



これが、一樺チカが“裏世界アザーサイド“と“神秘管理局”、
そして“怪奇”なるものを知った始まりだった。



PL注:途中にある英語の歌詞は、存在しない楽曲の架空の歌詞です。