RECORD
Eno.494 御機嫌盗りのトージャクの記録

少年は何も答えなかった。

急いで自転車に跨ろうとした少年が振り返ると、
その人影はやはり常夜灯にもたれたまま動かなかった。
けれども呟くような嗄れ声は、
澄んだ夜の空気のせいか、確かに耳へと響いて来る。

それからしばらくの間、自転車を駆る音を聞いていたそれは、
再び静寂を取り戻したダム湖の水面に、空の小瓶を投げ入れた。
そうして吐く溜め息には、不思議と不満の色はない。

ダム湖の淵にて②

「何、『死の瞬間を譲ってくれ』とは言っても、
そう難しい事はありませんよ。
あんた様はただ、最期まで後悔せず、
御自身の決意を全うして頂ければそれで結構。
どんなに藻掻こうと、どれだけ手を伸ばそうと、
誰もあんた様を救わない。
その運命を静かに受け入れたまま、
安らかならざる死を迎える……何の問題もないでしょう」
少年は何も答えなかった。

「ただまぁ、こんな簡単な事がなかなか成功しないもので、
皆あと少しという所で後悔なさる。
止めておけば良かったと思ってしまう。
もう何もかも遅く、助からないところまで来ようとも……。
ですが……ねぇ、良いでしょう。
どうせ捨てる命が、
最期に誰かの役に立つのですから……」
急いで自転車に跨ろうとした少年が振り返ると、
その人影はやはり常夜灯にもたれたまま動かなかった。
けれども呟くような嗄れ声は、
澄んだ夜の空気のせいか、確かに耳へと響いて来る。

「もし、この世の薬でも治せない苦しみがあるなら、
私の店に御出でなさい。
場所は知らなくても構いません。
ただ、あんた様が必要だと思った時に自然と辿り着く……。
そういう約束になっていますから」
それからしばらくの間、自転車を駆る音を聞いていたそれは、
再び静寂を取り戻したダム湖の水面に、空の小瓶を投げ入れた。
そうして吐く溜め息には、不思議と不満の色はない。

「他人の不利益にも利益にも気が回せるなら、
きっとまだまだ生きられるでしょうよ──」