RECORD

Eno.381 刀禰 明瑞の記録

しかももとの水にあらず

春惜しい頃、夏の気配がふわりと沸き立つ明瑞の幼きある日のこと。
明瑞は着慣れないぶかぶかの道着を着て、稽古場で正座をしていた。
そのときの明瑞にとって、刀の稽古はまだ「遊び」と「訓練」の間にあった。
なんせ漢字さえ覚えたてで、言われるままに稽古をしていた時期だったから。

明瑞は居合術の師匠の、祖父のことが昔から大好きだった。
祖父についてよく覚えていることと言えば、祖父の手が好きだったことだ。
何も言わないが褒めてくれるときに頭を撫でてくれる優しい手、
稽古のとき流麗に刀を振るうときのかっこいい手。
そして、その時も祖父の手を見ていた。
刀を握り、振るう祖父の手を。

「ししょう、どうして練習するときはお空をきるの?」

稽古中、突然明瑞はそう言ったのだ。
祖父は質問の意図を探るべく、明瑞の言葉を待ち聴く姿勢を見せる。

「だってししょうは本当は竹をすぱーん!ってきるのに、今はお空をきってる」

ただ空気を斬るというのは明瑞にとって不可思議なことだった。
風は空から降っていて、空気は空の下にあると思っていたあの日。
今思い返せば本当に斬るべきものは何なのか、
なんのために稽古をしているのかとあの日は問いたかったのだ。
祖父は刀を下ろし、明瑞の顔を見据える。

「斬れるというのは、竹や藁のような何も物だけじゃない」

明瑞はぽかんと祖父の顔を見上げた。
声色が穏やかでとりあえず怒られていないことだけは分かっていた。

「この世には刀では斬れないものが多い。
 斬る者はそれをどう見据えるかという問題だ」

「……明瑞、刀で斬れないものとは何だと思う?」

自分の大切なものを渡すように祖父の目尻には優しさが灯っていた。
明瑞は言葉の意味をすぐには理解できなかった。
ただ、そのときの祖父の言葉を思い出すと、押さえたくなるくらい胸の奥がじつと冷やされる。

万物は流転し、川の水はすでにもとの""ではないことをいずれ知る日までに大事に抱える問い、明瑞の考える””の原点であった。