RECORD
【日記22】新月の話
ここに来る時は眩しいほどの満月が見える。
満ち欠けをするはずのそれが、いつ来ても丸のまま。
この世をば 我が世とぞ思ふ望月の
欠けたることもなしと思へば
そう彼の人が詠ったように。
まさしく欠ける事のない見事な満月を仰ぎ見て。
───綺麗だと思う。
───けれど同時に偽物だとも思った。
「向こうは朔だぞ」
二〇二五年六月二十五日は、表世界に於ける新月の日である。
円月岬。
以前の酒の席で、螺千城に住む知り合いの一人に教えて貰った場所だ。彼女が夜を切り採りにくる場所の一つ。朝焼けと夕焼けを繰り返す裏世界で、よく探せば夜を見つけられる場所はそれなりにある。
けれど。
ヤッホー横丁の新月夜店通りはずっと新月で。
深夜のオフィスはずっと深夜で。
月見台はずっと月光で歪んでいて。
それらも歩き遠ざかれば、瞬く間に夕焼けないし朝焼けが押し寄せてきて、闇夜は視界の端へと追いやられてしまう。星が回り、影が生まれ、太陽の光を遮ったそこを夜としてサイクルを繰り返し。ごくごく普通に満ち欠けをする、ごくごく普通の月は。やはり表の世界にしか存在しない。
月が自分の後ろをついてくるのだと幼い弟がよく話していた。
遠い距離にあるからそう見えるだけだ、目の錯覚だと教えてやったら、兄貴は何でも知ってるねと懐いてくれたものだが。
「向こうの月はついて来てたんだな。
やっぱり……俺が間違ってた。
辰巳の言ってる事の方が正しかったんだ」
ここの月は、自分が歩くと逃げてしまうから。
岬の奥まで行かなければその顔を覗かせてくれない。
ここから立ち去れば姿を消してしまう。つれない奴だ。
さて裏世界の北摩湖にはこんな噂がある。
湖面に反射する景色が、裏世界でも表世界でもない、湖底に沈んだ別世界の光景を映し出す事があるらしい。水面は満月の夜にのみ、神秘の水鏡となるそうな。
……なんて、まことしやかに囁かれる噂の真偽は定かでない。自分もわざわざ確かめようなどとは思わなかった。たまたま話を思い出して、たまたま暦を照らし合わせて、丁度良く重なったからたまたま立ち寄っただけ。
これでもし新月でも浮かんでいれば拍手喝采だったのだが。
相も変わらず満月が出迎えるだけだった。
そもそも朝焼けと夕焼けを繰り返すこの世界で、赫赫と目を焼く陽光に邪魔されずに、夜を仰ぎ見て月を拝める場所とは一体どこなのだろう。
水面は揺らぐばかりで何も映さなかった。
「新月なら何か別の物が映るかと期待して、
赴いたはいいものの───
やっぱり満月じゃないとダメか」
満月じゃないとダメか、なんて。
こんなにも丸々と肥えた月が顔を覗かせているのに。
随分と不遜な物言いをしてしまった。
後日、六月二十九日。
「定期的な水質調査も大変やなあ。
週一ペースやん……でもこういう地道な調査が
いろーんなとこに繋がってはるんやろな」
Eno.102:不明門通 辰巳は湖畔の探索をしています……
静かな湖のほとりでは優しげにみなもが揺れている。
「───水って境界線なんやて。兄貴が言うてた。
だからタイミングさえあえば行けるんやないかなって
俺は常々思ってるんやけども」
ざぶ、と手を突っ込む。水面が揺れている。
だって、だって今日は。今日はもしかしたら行けるかもしれない。
今日は己巳の日だ。
「───あっぶね!」
体勢を崩しながら思わず振り返る。誰もいない。だってわざわざ人目を忍んで水質検査に来たのだから。いるはずない、いるはずないのに。水面には自分しか映っていないのに。
「……ひゅう。おっかな。
なんか蹴躓いたか足でも滑らしたんかな」
「でもさあ!あれやんな!」
「お前も沈んだ方が良かったって思てるやろ!」
水面が反射している。自分がそう語りかけてくる。
鏡に向かって「お前は誰だ?」と問い続けると自己崩壊を招く。
そう都市伝説でまことしやかに囁かれているが、結局その真偽は不明だ。
「まあボヤいたところでどうにもならへんか。
ままならんねえ人生っちゅう奴は」
腕を引き上げる。長く沈めていたせいか、指先がすっかりふやけて皺になっていた。適当に掬い上げた水をキャップ付きのフィルムケースに仕舞う。

「本当は兄貴も思ってるやろ、
俺がそっち行けばよかったって」

「お前それ言うの何回目だ?
……思ってないって」

「またまた~嘘ついちゃって!
イケズなんやからもぉ~!」












