RECORD

Eno.88 御子柴 桜空の記録

種と仕掛けとコイントス

 


結局、御子柴桜空が実質的に記憶を失っていた期間はほんの数日ぐらいのことだった。
やっぱり備えあれば憂いなしということ。

だけど、手筈は完璧というわけにはいかなかったようである。





表世界に、怪奇としてのオレはいない。


裏世界に、人間としてのおれはいない。



存在が分かたれて、未だ戻らぬまま。それに。



(──思い出せない)



こちらに怪奇として生きた記憶しかない、までならそれでいい。
人間の方のオレが表世界で過ごした記憶が混ざるのだって別にいい。






だが。北摩市外でも確かにしていたはずの人間の真似事を、
そうして得た記憶を、経験を、さっぱり思い出せなくなっていたのだ。



暗いお屋敷で、ただただ操られ続け、
あの人に手を引かれ、外に連れ出してもらった、全ての始まり──
──始まりの、そのあとが大事なのに。



……何が?


本の面白い部分だけを読み飛ばしてしまっている。
己に穿たれた黒く深い誤謬。いや、寧ろこれで正しくなった、のか?

自分のことがまるでわからない。
でも、表世界のそいつは、
自分の人生をそう例えられることは嫌がりそうだな、なんて思った。





度重なる戦いと逃亡の記憶に、
疲れ切った心の埋め合わせが欠けている、ようにも感じた。


人として生きる中、人を愛していたような気がする。
何も起きないわけではない、些細な出来事を拾い集めるような、
そんなちいさな日常を愛していたような気がする。



気が確かである保証は、ここにありはしない。











春がもう過ぎて、訪れた季節にじわりと汗ばむ日々。
裏世界の意味不明な飲料が並ぶ自販機を目にして、どれを買ってみるか迷った。

外見から興味が惹かれるものを二つまでは絞れた。
ならば、と十円硬貨を弾いて、それを上に向けた掌に落とし、握る。




指の隙間に挟まった。





側だ。