RECORD

Eno.359 雁倉ヌヴェルの記録

名前を見つけることのできなかった墓が26基あった

神話と空想の違いはどこにあるのだろうかとときおり考える。
共同体の中で共有され、語り継がれる空想が神話であるのなら、個人と共同体の境界はどこに引かれるべきなのだろう。
ある語りが破綻なく他者の中で再構築され、構造を持って響くとき、それは神話となるのかもしれない。

「ある吸血鬼がいたの。最初は善なる牧神であった彼は、あるとき人の血をすする恐ろしい悪鬼の話を聞き、それになることにした。彼は永遠ではない人の命をあわれみ、死にゆく魂をその身に閉じ込めることにした……」

鼻腔の奥にじんと沁みる湿った土の匂い。
夏の午後。日が傾く前。灰色に変わりかけた空。
墓石が整然と109基並んでいた。
そのうちのひとつの前で彼女は立ち止まる。

「……ねぇ、ヌヴェル。ここにあるのって、本当に“死”だと思うかしら? だって、この人たち、また別の名前で生きてるかもしれないでしょ?」

むろんそれは、火刑に処されるたびに転生する魔女のような存在を指しているのだろう。

不変とはなんだろう。
この世界に変わらぬものなど「ない。
けれど、変化の中に厳密な構造を保ち続けるものはある。

たとえば素数列。どれだけ広がっても定義の核は揺らがない。
たとえばフラクタル。
絶えず形を変えているように見えて、常に同一の論理に従っている。
川の水は流れ去っても、川という形は保たれ続ける。
永遠と須臾が、そこには同時に宿っている。

「たとえばね、私が前世とは違い、黒い髪を持つ少女であるけれど──今こうして、“また燃やされそうな魔女”をやってるなら、それって私が変わらず死に続けてるってことよね」

つまり彼女にとって、転生とは死の形式の反復であり、命の継続ではなく、構造の再演なのだという。
彼女はしゃがみこみ、墓に生えた苔を指でなぞりながら言う。

「魔女ってさ、誰かの名前をもらって生きる存在なの」

彼女にはもちろんクラス名簿に書かれた名前がある。
それは自分の名前ではないと、彼女は主張する。

「自分の名は、もう灰になっちゃったから──他人の名を繰り返し焚べる。不変であるって、失いながらも何かを続けること──継続する消失よ」

墓に刻まれた名前もいつか風で削られて消える。
それでも魔女は死に続けることを選んだ──いや、そうした神話を、自ら記述したのかもしれない。

「真に不変なら、痛みだって消えずに積もっていく。
 でもね、そうじゃない。変わり続けなきゃ、生きてなんかいけないの。
 それが存在のアイロニー。
 私は焼かれることを、受け入れる。……ううん、焼かれることで私は、清らかになれるの。
 それが私の、儀式」


変わり続けることで不変を保つ?
それは皮肉であり、同時に真実なのだろう。
でもそれは、魔女でさえ抵抗できない真実なのだろう。
不変を求める心。
不完全に生まれてしまったがゆえに、完全を夢見る私。
いつか私も、魔女を火に焚べる大人になるのだろうか?
それが定められた運命だとしたら、子供のときのまま燃やされてしまったほうがよいとすら思う。
身体は、意思などお構いなしに悲鳴を上げながら、大人へと進んでいく。
死は静謐で、死は不変。ならば…………

「──いや」


初夏のはずなのに空気はひどく冷たかった。
くすんだ空の下、強い風が私たちのあいだを吹き抜け、1秒ごとに何かを攫っていく。

「死もまた、途中なんだ、魔女」


あのカラスが私に教えたことだった。