RECORD

Eno.38 穂叢 焔芽の記録

子ども

僕は子どもだ。

先生から見てどうとか、まだ大学生だからモラトリアム期間だとかそういう話ではない。
成熟という観点で、僕は皆よりずっと子どものまま大きくなってしまったのかもしれない。

ただ、理性でそういうものだと片付けるのばかりが上手くなった。
外面だけは周りに合わせて、大人のフリをするのばかり上手くなった。

その結果、内面は子どものまま。
何かを楽しいと思ったり、何かに嬉しいと思っている時の僕は子どものそれに近いのだろうな。

相棒と手を繋いで歩いた昔、互いのことについて聞いたり教わったりしながら歩いて
それはとても楽しかった、ような気がする。
もう10年は前だから正確に覚えてる訳じゃないから参考記録だけど。

玄に手を繋いで貰ったときも、同じように語ってみて
やっぱり、楽しかった。子どもの時と同じような感覚だった気がする。
そこに、いつもの『楽しい』や『嬉しい』以外の感覚はたぶんなかったとも。

変わっていないのだ。
きっと10年前から変わっていなくて、情緒を育てる事なく言葉だけ巧みになっている、そう考える理由。
比較としてはまだ参考記録ではあるけども。

好きなことについて話す僕も、思えば子どもだったんだろう。
僕はそういう性質だと思っていたけど、より詳しく見れば、言語化による制御を外した結果があれなんだろう。
素に近いのは自覚してたが、であればこそ。

狭義での好意というのが分からないのは、単に子どもだからなのか。 
ただそこに至る経験をしたことがないだけなのか。

嫉妬や羨望はむしろ、小さいうちに処理に苦労する感情のはずだ。
でもこちらに関しては僕にはないか、希薄で感じたことがないかのいずれかで

まだ何も分からないな。
子どもだから何、という事でもないし引き続き探究するだけだが。
子どもだから早く大人になりたいとかじゃなくて、ただ自分がどういうものであるかを分かりたい。
そして一生掛けても理解しきれるものでもないのだし。

ただまぁ、自分を知らずに、人に知って欲しいなんてのは無茶だ。
だから純粋な興味と、知られたいという願望と、共に実現するために続けていく。

……手を繋いだ時の感情の比較、は僕もどうかと思うが。
それは果たして誠実なのか?とは思うが。
幸いにも力を貸してくれると言うのだから、その言葉に甘えるとしよう。