RECORD

Eno.42 甲賀 力の記録

甲賀ログ『母は物語、父は現実、俺はそのあいだ』

 

高校二年の夏。
つまり、クラスメイトの将来の夢が
「特にない」から「なんとなく公務員」に
ランクダウンしはじめる季節。

そして、物語の外からやってくるものが、
現実に紛れこむにはちょうどいい気温と湿度。
そんな季節に、異能は芽吹いた。


その時、母の存在が
“語られるべきもの”だったことを知った。

─────────────────────

ユミルという名前の女がいた。
白い髪。北の血筋。輪郭の甘い、無垢のようでいて
決して触れさせないような北欧系の顔立ち。

目にした者はきっと、物語の登場人物だと錯覚する。
だが物語とは元来、語られるためのものであって、
理解されるためのものではない。
ユミルという女は、そういう存在だった。

だが甲賀にとっては母であり、
ユミルにとって甲賀は息子であった。
それ以外のことはどうでも良かった。


父が死んだ日、母は光になって消えた。
いや、本当に光になった。

現象としては“昇天”に近かったが、
宗教的な意味ではまるで整合が取れない。
神父に聞いても神社に問い合わせても、
納得は得られなかった。

ただ一つだけ、誰もが一致していたのは──
あれは現実だったということ。
現実に、母は消えた。

以来、戸籍上は「行方不明」。
法的には、所在不明。
感情的には、喪失未満。
物語的には、伏線だった。


──伏線は、回収される。

それが物語というものならば。


─────────────────────

高校二年の夏。
甲賀の中に、異能が芽吹いた。

甲賀の能力は、《物語の出力》だった。
北欧神話という体系そのものを
一文節ずつ、現実世界に召喚する。

「オーディンの槍」「フレイの祝福」「ミーミルの泉」
それらの言葉を“読み”、意味を与え、
虹の橋を通して物質として現すことができる。

恐ろしく形容的で、恐ろしく抽象的で、
恐ろしく親子のつながりを感じさせる力だった。

虹の橋《ビフレスト》をくぐった先。
神話世界《アスガルド》で、甲賀は真実を知った。

母・ユミルは、
北欧神話の中に登場する“始まりの巨人”であり、
彼女の死によって幻想だった北欧神話世界が
実在する世界として創り変えられていたという事を。

母は、物語の住人だった。
神話という閉じられた円環から、
現世にやって来た“異物”だった。

唯一、それを現実につなぎとめていたのが父の魂。
だから、父が死ねば、母もまた消える運命にあった。

運命。
それはこの物語において、もっとも退屈で、
もっとも容赦がない言葉だ。

けれど、運命は切れたのに、物語は切れなかった。
母の神話は、甲賀の中に残った。

父から受け継いだのは、土地と汗の重み。
牛を育てる術、草を読む目。
地に根ざし、足元から信じる力だった。

母から受け継いだのは、天を駆ける物語。
世界の成り立ちを語る言葉。
創造も破壊も、祈りも戦いも、
全部が「読み上げる」ことで現実となる神話の力。

それらは理解されなくても構わない。
ただ、現実に“在る”ことができればいい。
それは母が選んだ生き方でもあったのだから。

後悔とは、失ったものに手を伸ばした瞬間に生まれる。
甲賀の後悔は、母を奪った世界にではなく、
そうなると知りながらも母を選んだ父にでもなく、
自分が“何も知らなかった”ことに向けられていた。

ならば、知った以上、立ち止まっている理由はない。
神話を継いだ者として、牛飼いの息子として、
この不条理な現実に物語の牙を突き立てる。


語られるべきものは、まだ終わっていない。


物語は終わらない。
なぜなら、それを語り続ける者がここにいる。