
誠
「……もしもし、オカン?」

母親
「あっ……誠? 誠よな! やっと繋がったわ、生きとるんやな!?
あんたうちのおとんもずーっと電話かけとるんやから出んかい!」
繋がると思っていなかったのだろう。
電話越しの叱咤はごく当たり前の言葉だった。
中学受験の際、俺は親が強要した高校を受験したフリをした。
実際に受けた受験先は束都高校で、親が強要した高校の合否発表の日に真実を話した。
このときに東京の高校へ行くと伝え、強く反対されて。
入学を辞退する電話をかけるから場所を教えろ、と言われて。
生活費も、授業料も、自分でどうにかするから、と。
お前らの助けなんか要らない、と。
これ以上束縛されたくなくて、家を出た。
そこから親とも、兄貴とも連絡を取っていなかった。
俺がいなくなってから一年と数ヶ月。
子供を心配し、いてもたってもいられなかったのかもしれない。
長期休暇以外に連絡を取らなかったのは、学校生活を邪魔しないためだろう。
……存外に、杞憂だったのかもしれない。
そんな母親の声調に、すまん、と口にしかけて。

母親
「そんなんやから勉強でけへんのやんけ!
今何しょんの? ちゃんと勉強しとんのやろな!」

誠
「…………は、」
ーー うちの親に、そんなものがあるはずないなんて、分かりきっていたのに。
一番の心配は、こんな状況でも俺が勉強しているかどうか。

母親
「いきなり東京の高校行くとか言うて家出て!
学費も生活費も工面でけへんようなあんたが
人様に迷惑かけんと生きていけるわけないやろ!」

母親
「分かりきっとんねんそんなこと! この月影家の恥さらし!
無謀やったんやって気づいて戻ってこいってようやっと言えたわ!」

母親
「ほんまに恥ずかしいねんて、さっさとうちらの顔に泥塗らんとこっち戻り!」

誠
「…………なぁ、
それ、ほんまに本気で言うとるん?」
母親はまだ、話を聞く人だった。
正しくは、父親にあらゆる主導権を握られて、父親に全てを掌握されて俺に当たる人だった。
だから嫌いだったけれど、辛うじて擁護できる部分があった。
勉強が全てだ、と母は言った。そうでなければ父親の言い分が通らなくなる。
出来のいい兄貴が父親の言う通り、聡明でどこに出しても恥ずかしくない人間だったから。
俺という存在を許してしまえば、破綻する。
だから、俺に当たっていた。
だけど。これでは。
……この言い方では。

誠
「俺はちゃんと学校にも行っとるし、
学費も生活費も自分でなんとかしとる」

誠
「そらもちろん、色んな人に迷惑かけとるし、学校にも無理言うとる。
けどな」

誠
「それは、ほんまに恥ずかしいことなん?」

誠
「……俺はこんなオカンがおんのが恥ずかしいわ」
あぁそうか。顔が見えないから。
父親を殺しかけた獣が、今は手の届かないところに居るから。
俺がすぐ側に居たから、今まではいつ殺されるか分からない恐怖と隣り合わせだった。
それが、今は。
動物園で、檻の中に仕舞われた獣を見るかのように。
絶対に手出しをされない安全なところで、俺と対話をしている。
人間風情が、思い上がっている。
俺が折れていると過信している。
親の施しがなければ生きていけないのだと思い込んでいる。
一人で生きていけない現実に打ちのめされた、牙の抜かれた獣だと幻視している。

母親
「…………誰が、」

母親
「誰が恥ずかしいやこら!
あんた、誰がそこまで大きく育てたか分かっとんのか、あぁ!?」

母親
「あんたのために毎日毎日飯も作って服も洗って!
勉強でける環境もずっとずっと用意してった!!」

母親
「けどあんたは全く勉強せんかった親不孝もん!!
どんだけうちらが苦労したか知らんやろ!!」
ーー 知らないよ。

誠
「知るはずあらへんやろ。
それ全部、兄貴育てるついでやったんやから」

誠
「俺がどんだけ辛かったかも、
オカンは知らんやろ」

誠
「―― 自分だけが被害者面すんなや!」
そのままではいけないと思った。
アヤメが復讐を果たすために足掻いている姿がいつも気高いと思っていた。
強い意志を持って、揺らがずに事をなしえようとする姿が美しかった。
だから。俺も、と思った。
逃げるのをやめようと、向き合おうとした。
……向き合おうと、したけれど。
俺は彼女のようには強くない。
いつも妥協して、楽な生き方をしてきたから。
こんなにも簡単に、『わかり合えない』と白旗を上げている。
和解、とはでは行かなくとも、もう放っておいていいと認識させるつもりだった。
自立して、縁を切って。お互いに干渉し合わない。
それで離れたところで、お互いに疎遠な親子として生きていく。
そう、言うつもりだったのに。

「……んや、……ことが電話……」

「……おとう…………それが……」

「…………」

誠
「……………………」
しばらく電話越しに、二人の会話が聞こえてきた。
片方は父親の声だった。
その間、ずっと唇を噛んでいた。
怯むな、と自分で自分を励ます。怯めば、つけいる隙を与えてしまう。
父親は母親以上に、俺への当たりが強いのだから。

父親
「……なあ、誠。真も東京におるんは知っとおな?」
声の主が変わる。
これは、忘れもしない。かつて俺が殺しかけた、父親の声。
俺がずっとずっと、心から嫌っている肉親の片割れ。

誠
「兄貴が東京の大学行ったんは知っとるよ。
……ええ大学に入ったんも、将来は司法試験受けんのも知っとるよ」

父親
「お前は?」

父親
「出来損ないのお前は何でそっちにおる?」

父親
「真への嫉妬か? 環境が変わったら真みたいになれる思たか?」

誠
「んなわけないや

父親
「何でんなわけあらへんのや!!」

父親
「せめてそのぐらいの意志見せろや!
出来損ないなりに足掻く意志見せろや!!」

誠
「――ッ、」
鼓膜が破れそうな程の、怒鳴り声。
何度も、何度も。嫌と言うほど、上から振ってきた声が。
至近距離から、響いてくる。

父親
「お前は俺の子供なんやぞ!
やのに何でそないにアホなんよ!!
あ゛ぁ!?」

父親
「お前なんか俺の子供とちゃう!!
二度と俺の子供を名乗んな!!」

父親
「……こないにアホで出来悪い子、作った覚えないわ」

父親
「二度と顔も見せんな」

父親
「お前なんか生まれてこんでよかった。
どっかでさっさと死んでまえ」

父親
「―― 死ねッ! 死んでまえッッッ!!」
そこで、電話が切れた。
対話する余地を与えてはくれなかった。
一方的に言いたいことを言い、言葉の暴力を浴びせて突き放す。
しばらく、電話を耳につけたまま、動くことができなかった。
部屋の中には何も居なかった。
何の音もしなかった。
耳が痛くなるほどの静寂の中で。
両親の言葉が。
出来損ないと。生まれてこなくてよかったと。さっさと死んでしまえと。
死んでしまえ、と。
未だに鳴っている。

誠
「…………は、」

月影
「そんなん……こちとら、願い下げやし……」

誠
「あーあ、縁が切れて清々したわ……」

誠
「これで……もう、あいつらのこと、何も考んで……」

誠
「……………………」
月影、という名字は好きだ。
月影、という名のイメージに反して、月の光の意味を持つこの名字が好きだ。
狼の怪異と縁がある俺としても、自分らしい名字だと思っている。
けれど、この名字は。自分の嫌いな人間の名字でもある。
親と子の、血の繋がりを示すものでもある。
名字や名前の改名は簡単には行えない。
虐待を受けていて親から逃げ続けている、という状況には該当しない。
親子の縁を切ることも、日本では完全には切ることができない。
どれだけ否定されても、法律がそれを許さない。
だから一方的に。俺が、損な思いをするだけ。
俺だけが。
俺だけが、苦しいまま。

誠
「…………何で」

誠
「……なんで、なんよ…………」

誠
「……んで、…………良かった、はずやろ…………」
それから。この夏休みに電話がかかってくることはなかった。
この先、冬休みも春休みも。きっと声を聞くことはないのだろう。
それと引き換えに。
いつまでも、出来損ないだと、『月影』の子供ではないのだと。
生まれてきたことが悪だったから。
死んだ方が、いいのだと。
ずっとずっと、耳に残り続けている。