RECORD

Eno.102 不明門通 辰巳の記録

【日記24】思い出せない話



※子供が酷い目に遭う描写があります








いつも兄貴が殴られてんのを、一歩引いたところで眺めてた。

兄貴と交代・・をすると、すっと身体が浮いたような心地になる。感覚の全てが遠ざかる。
痛みも温度も何もない、まるで幽霊にでもなってもうたような気分。
腹だけは減ったけど。胃だけは共有なんかいな。

俺が裏世界に行く時も同じようなことが起こる。
フワッとした浮遊感のあとはその場で眠りこけたんかと思うくらいに記憶がなくなって。
兄貴が向こうでやること終えて表に帰ってきはった時に、丁度目が覚める。変な感覚。

兄貴が───。
殴られてる時も、蹴られてる時も。
洗面台に顔押さえつけられて溺れかけてる時も。
風呂入られへんから公園の蛇口で身体洗ってた時も。
真冬にベランダ出された時も。
コンビニで残飯漁ってた時も。
自販機の底に小銭落ちてるか浚ってた時も。

俺は全部、ずっと後ろで見てた。
兄貴に全部、やってもらってた。

役割分担やって兄貴はよう言うてたけど、それが正しく半分ずつの負担だったかと言われるととてもそうは思えへん。
だって飯食う時とか、僅かな遊びの時間は全部俺やったし。
ぜんっぜん平等ちゃう。不公平やんな、こんなん。

兄貴無理してたんちゃうかなぁ、とは常々思っていたのに、俺は結局言い出せずじまいやった。
フツーに怖いもん。
そんなん言い出して、もし兄貴が「じゃあ折半するか、これからはお前も親に殴られて貰う」なぁんて言い出した日にゃどないしよ思て、怖くて言い出せんかった。
卑怯モンよな。反吐でるわマジで。

「あにき、おなかすいた……」
「我慢できるか?」
「むり……」
「……なんとかする、待っとき」

なんとかする、と兄貴は言うてくれたけど。金なんかあらへん。どうにもできない。
でも兄貴は実際にいつもなんとかしてくれて、メチャ頼り甲斐のあるエエ兄貴やった。
せやからついつい俺も甘えてもうたんよな。

そんなワガママ放題してもうたからこそ、俺にバチが当たったんやと思てる。
その当たったバチすら兄貴に肩代わりされてもうたけど。



物心ついた時には兄貴がおった。

俺は兄貴と代わることができて、兄貴も俺と代わることができた。声に出さずに会話もできた。
俺達にとってそれは普通のことやったさかい、これが全然ちぃとも普通ちゃうかったと知るのはもう少し後の話になる。

2009年。京都府の南部、京都市下京区。
俺達は俗に言うところのネグレクトに近い、お世辞にもあんまり育ちがよろしいとは言われへんような家庭環境の親のトコに生まれた。
母親は一人やったけど父親は仰山おった。
仰山居りすぎて、結局どれと血が繋がっていたのかはついぞ分からん。
母親はとっかえひっかえ違う男をよく家に連れてきてた。
そもそも連れてきた中に父親は居らんかったのかもしれへんな。

まともに一人で歩けないほど幼いくらいの赤ん坊の頃はどないしてはったんやろね。
そもそも出産まで漕ぎ着けるの無理ゲーやないか?
届出と戸籍は、行政手続きは、産婦人科にかかるような金はあったんか、なんて考えると疑問がいくらでも噴出してきてまう。
書類回りマジでどないなっとんねん。
物心のつくまでの三歳まで何とか生き永らえたっちゅうことは、おそらく周りの手を借りるなり何なりして体裁は保ってはったんやろな。
世話をしてくれる人は確かに居たはずなんやけども、五歳を迎える頃までの記憶はひどく曖昧で逆立ちしてももう思い出せそうもあらへん。

とにかく、気付いた時には既にこの状態からのスタートやった。
俺には兄貴がおって、兄貴には俺がいた。どういうわけか、そういうことになってた。

母親が望んだ出産やったのか望んでなかったんかは分からん。ともかく堕ろさんかったらしい。
生んだくせして生まれてきた俺達には興味無いんイカれとるやろ。
じゃあ堕ろせや最初っから。生んだんなら責任もって育てなアカンのに放りっぱなしやん。

一応フォローすんなら……そうやなぁ。
たぶん、目ぇ欠けてんのがイヤやったんかもしれへんな。
ハンディキャップのある赤ん坊は若い母親には重すぎたんかも。

……いやだとしても生んだならきちんと面倒みて育てろや。
犬猫ちゃうねんでこっちは。何をしとんねん。
おおう、フォロー無理やったわ。前言撤回。



家にやってくる父親達の反応は千差万別。
俺達に興味のない奴、面白がる奴、疎ましく思うてる奴、憐れむ奴。
憐れむ奴が大当たり、興味のない奴が少し当たり、他は外れ。
家から閉め出されることはまだええ方で、黙らせる手段に拳が振り上がる方が圧倒的に多かった。

児童相談所は学校行くようになってから初めて存在を知ったんやけど、アイツらずるいねん。
兄貴を殴るときは見つからないように服に隠れる位置を狙いすましよった。最悪や。

まだ役割分担がハッキリしとらん頃、半々ぐらいで交代してたぐらいの時。
俺が殴られてビービー泣いてもうたら、兄貴が今度からは俺に任せろ言うてきた。

今考えるとこれがまぁ特大ミスやったんやけども、当時の俺はありがたく兄貴にイヤな役割押し付けてもうたんよな。
兄貴だって別に積極的に殴られたいわけやなかったのに。
たぶん、気まぐれに父親の一人が持ってきた絵本のことを兄貴はきちんと覚えてたんやと思う。

確か三匹のヤギの兄弟が山に草を食みにいく内容だった気がする。その山に行く途中にトロルっちゅうデケェ怪物が住んでて、小さいヤギと中くらいのヤギは、次にやってくる大きなヤギに後を任せてた。
そんで後からやってくる大きいヤギがトロルをブチ倒して、草食ってめでたしめでたしみたいな話。

兄貴はそれに倣って弟の俺を守るためにキツいなかを立ち続けた。
兄貴は俺のこと必死に守ろうとしてくれてたんよな。なんや半ば強迫観念じみたトコすらあったし。

兄貴は泣き言ひとつ言わずに黙ってすぐ交代してくれたし、俺に恨み言をぶつけてくるようなことはしなかった。

……恨み辛み、言うてくれた方がまだ良かったんかもなぁ。




後に大きなヤギになってくれる人に会えたのは、それから少し経ってからのこと。

親戚付き合いがどうとか言うて、親族で集まる機会が一度だけあって。
珍しく風呂に入ってもエエことになって、これまた珍しく新しい服を買い与えられ、髪も整えられて、たぶんこれまでの人生で一番綺麗になった日に。
俺達はそこで初めてショウ兄に会った。

当時から利発そうな見た目の兄ちゃんやったよ。
服も素人目に分かるくらい高そうなヤツ着てはって、ハンサムで、ただ今よりもっとチビやった。
アッ今のショウ兄には内緒な。
それでも頭は俺達よりもずっと高いところにあって。
そんなショウ兄は膝をついて、わざわざ俺達の目線にあわせてくれた。

「こんにちは、不明門通さんのとこの子?」
「あ……」
「覚えてへんかなぁ。赤ちゃんの頃にいっぺん会ってるけども。はは、さすがに忘れてもうたか」
「…………えっ、と……」

確かあん時、初めて兄貴が勝手に代わったんよな。
いつも一声かけてから代わってくれはるのにビュンっていきなり。
せやから結構テンパってたんちゃうかな兄貴。
殴ってこない人と喋る時はだいたいいつも俺の役割やったし。シャイなんよな~。
そんで俺がウッカリ兄貴のこと呼んでしもて、ショウ兄はそのせいで勘違いしてた。

「……あにき?」
「あら!兄貴やなんて嬉しいわぁ。おおきにね。まぁ俺は君の兄貴やなくて従兄弟なんやけども。辰巳くんやろ?」
「う、うん、たつみ」
「雄々しくてカッコええ名前よなぁ。おばさんも仕事忙しいんやろけど……ホンマに久しぶりやね辰巳くん。しばらく見ぃひんうちに大きくなったんやなぁ。男子三日会わざれば何とやら」

知らへんこんな人!覚えとらん!誰やねん!
兄貴にコッソリ胸の内で聞いてみたけどもやっぱ知らんて。とりあえず謝っとこか。
急にブン殴ってくるかもしれへんし、おべっか使とこ。

「あの……おれ知らん……ごめんなさい」
「おっと、自己紹介がまだやったねぇ。烏丸ショウ言います、以後お見知りおきを。ちょうど今あの縁側のとこに立ってる、冴えないオッサンおるやろ?あのオッサンの息子が俺。辰巳くんのお袋さんはあのオッサンの妹にあたる人やね」
「ショウ……おにいさん?」
「うはは。わざわざ堅苦しい言い方せんでもよかよ。さっきの兄貴みたく、兄ちゃんとかフランクに呼んで構へんで」
「じゃあショウ兄って呼んでもええ?」
「ええよ」

人なつっこい笑顔でショウ兄は笑った。
この頃から優しかったなぁショウ兄は。

「なんや新しい弟できたみたいで嬉しいわ!なかなか会えへんかったもんねぇ。なぁ辰巳くん、さっき卓上のお菓子貰われへんかったやろ? ねね婆が気ィ揉んでたで。ほら、兄ちゃんのお食べ」
「ええの?」
「もちろん。まぁジジババ連中のお茶請けやさかい、口にあわへんかったら堪忍ね」

いたずらっぽくショウ兄が笑う。
俺の目線は完全にお菓子の方に向いていた。
どないしよ、出されたものに手ェつけるなって言われてたような気がすっけど。
せやけど食べたい……。

そんな俺に気づいたのか兄貴が「今なら食べてもいい」とこっそり伝えてくれた。
包み紙を破いて口いっぱいに頬張ると、砂糖の甘さが、普段はおいそれと食べられへん幸せの味がした。

「あらあら、そんなに急いで食べたら喉つまらせてまうよ。ゆっくりちゃんと噛み」
「おいしい!」
「そりゃ良かった。……辰巳くん、じーっと壁際で大人しゅうしてはったから、心配になってもうて。なんや棒切れみたいに細っこいし。俺が辰巳くんくらいの頃は菓子なんて言われる前にねね婆からブン盗ってたで。お行儀ええお利口さんなんやねぇ。えらいえらい」
「ううん、ちゃうよ。おれ、さっきまであにきに代わって貰てたんよ。えらいのはあにきやと思う」
「…………えーと? そうなんや……?」

ショウ兄は首をかしげたけど、とりあえず納得してくれた。
あー!アカンこれ内緒やったのに言うてもうたわ。後の祭り。口滑りまくっとる。

「あかん、これナイショって約束やった。ショウ兄、ナイショね」
「うん、分かったよ。言わへんから安心し。ほな兄ちゃんと約束な」
「ゆびきりげんまん!」
「はいはい、針千本」

ぎゅっと枝のような小指とやわらかい大人の小指が結ばれる。

針千本のーます!ゆびきった!







「いつのまに食べたんこんなん!なぁ行く前に言うたやろ食うなって!」
「っめんなさ、……ごめんなさい……」
「大人しゅうしとけて私言うたやろ!?ただでさえ親戚連中に色々言われて疲れてる時に、なんでアンタは私を怒らせるような真似すんの!?頭悪いなぁもう!ああもうホンマ苛々する!なんで言うこと聞かへんの!犬だってできる事せぇ言うてるだけやのに!待てもできひんなぁアンタは!」

やらかした……また兄貴が殴られてる。俺のアホ。
後で隠れて捨てようと思うてたのに、親の目があるトコでポケットから包み紙を出してもうた。
菓子を食べたことがバレた。

ばちん、と頬で平手が炸裂する。
兄貴の視界がグワンと揺れた。兄貴の瞳越しに世界を見る。
兄貴が呻く声は聞こえるのに、俺は全然ちっとも痛くない。
代わりに胸のあたりがざわざわするだけ。

「頬は目立つからやめとき、見えないとこにせなアカン」と連れ込まれたらしい男が煙草をふかしながら笑ってた。
いやなにわろてんねん。はよ止めろや。虐待って犯罪やで。
あと見えないとこにすりゃええって問題ちゃうねん。

交代している間、兄貴はこんなん見なくてええ、聞かなくてええからと俺に説き伏せていた。
けど、それでも。俺は目を離したくないし耳を塞ぎたくなかった。
だってそうせなアカンやろ。せめて俺が見ておかな、兄貴が殴られたこと覚えてる奴がこの世に一人も居らんようになってまう。
せやから兄貴は見てないって言うといて、ホンマはこっそり全部見てた。

金切り声も痛みも熱さも冷たさ空腹も、全部兄貴だけ負ってく。
そんなん……あんまりやないの。

中くらいのヤギが自分と同じように橋を渡って、そうして大きなヤギが後から助けに来るのを待ってた。
がらがらどん。橋をがたごと揺らす。凶暴なトロルが橋の下から呼んでる。


「いやいや、食べないでおくれ。待った方がいい。少し待てば、ぼくより大きなヤギがやって来るよ」
「そうか、それならそいつを食おう。とっとと失せろ!」
トロルはそう言って、中くらいのヤギを見逃しました。



現実は見逃してはくれないし、小さいヤギは中くらいのヤギのことはずっと助けられへんまま。
それでもいつか大きなヤギが助けに来るのを、俺はずっと待ってた。



「煙草貸して。いっぺんしっかり覚えさせないとあかんわ」
「えー、なにすんの。目ェはバレたらめんどくさいでぇ」
「バレなきゃええねんこんなん。どうせ最初っから潰れてんなら大して変わらへん。コイツ黙ってたら露見しいひんから。ほら早く貸して」
「しゃーないなぁ。高いんやで最近の煙草は。感謝せえよ」

髪の毛がブチブチ抜ける音がする。
晒けだされた潰れてる片目の瞼にタバコが押し付けられて、兄貴が叫んでるのが聞こえた。







「出してへんの君だけやで、不明門通くん」
「……ごめんなさい」
「おうちのひとにプリント見せた?」
「……まだです」
「保護者の方に電話通じひんから困ってんねん。今度ちゃんと持って来てな」

そんなん言うたって金もらえへんのにどないすんねん。
小学校に行くようになって少し経ってから。給食を食うのにお金が必要なんやて。初めて知ったわ。タダやと思てた。
空っぽの封筒はまだ鞄の奥底。三者面談のプリントも。ほけんだよりも。こんなん渡しても読まんやろ。

「あにき、おかねどないしよ」
「待ってもらうしかないやろ」
「でも痺れきらしてたで先生」
「……うん」

踏み倒すしかないんよな、これ。家庭事情を察してはる先生も無駄と分かりつつこうして時たま催促をしてくる。
無理やねんて!しゃーないやんか!
兄貴が上手いことやったのか知らへんけどたまに封筒だけは渡してたっぽい。
どっから捻出したんやら。
見栄っ張りやさかい、バレるような給食費用の滞納は避けたんかな。

給食の時間に何をするでもなく席に座っている俺達に対して、友達は無邪気に「なんで食べへんの?」とか「おようふくどないしたん?」とか、純粋な疑問をぶつけてきて、そのたびに曖昧に誤魔化しといた。
薄ら笑いでやり過ごすに限る。
「お前んち金ないん?」は全くもってその通り。
頷くしかなかったし、そんな俺達に対して友達のよしみで余ったパンを恵んでくれるのは助かった。おおきにねぇ。
やっているのは犬猫の餌付けのそれやったけど、それでも食いつなげたんはこれのおかげやね。
給食費を払っていない最中でも、調理員のオバチャンがこっそりパンをくれることも多かった。助かるわぁ。

幼稚園も保育園も行ったこと無くて、同年代の子が仰山おる小学校はおもろくて。
この時が人生ピークやったんかな。
今にして考えれてみると同じ服を何度も着回して、風呂がわりに公園の水で凌いでるぼろぼろの小学生、よう受け入れてもらえたな。
下手すりゃハブられそうなモンやけど、この辺は運良く気のいい人に恵まれてたんやと思う。

給食は仰山食えたし、休みの時間はのびのびと遊べた。
兄貴は授業が楽しかったみたいやし、学校に行っている間は親に殴られる心配もない。

家に帰ると殴られたりひもじいのには変わりないんやけど。
相変わらず兄貴はそのへんの公園の蛇口で身体洗ったり、自販機の底を浚ったり、コンビニの弁当を漁るのは継続していたものの。
学校に行くまでの日常と比べるとマジで天と地。月とスッポンやったわ。

周りの人達の援助あってこその日々。
決して順風満帆ではなかったけど、なんだかんだ俺達は上手いことやって生きてた。






はずやったのに。








「辰巳、辰巳……」
「……」
「おれが全部持ってくさかい、心配せんでもよかよ。これからはショウ兄の言うことよう聞いてな」
「……」
「大丈夫、……」

なんとかなる。なんとかする。兄貴がそう言ってる。
無理やろ、どないすんねんこんなん。もう無理やって。
行くとこまで行ってもうたのに、こっから逆転の目ないやろ。
さすがに俺でもわかるて。

そう言いたいのに、全然声が出ない。
塞いだわけでもないのに目の前は真っ暗やった。
代わりに何かが剥がれる感覚があって、そっからスルッと身体入れ替わった。
全身痛いしなんか超寒い。つかれた。ねむい。





寝る時に兄貴が言ってくれるおやすみが、初めて聞こえなくなった日。




















 


「辰巳……辰巳!」


「んぁ?」


「何寝ぼけとんねん。
 今日から新学期ちゃうんかお前、
 学校遅刻すんで!」


「───」


「…………っ!!
 ああ!?ヤッバ!!今日始業式やん!!
 なんで起こしてくれへんの!?」


「なんべんも起こしたって!
 せやけど辰巳が起きひんのやろ!
 言いがかりやめぇ!」


「んもぉ~~~目覚ましィ!!
 何をやってんねん!!
 スヌーズ……はぁあ!?止めてる!!」


「朝っぱらから大わらわやな……
 そういやお前なんか知らへんけど寝言でブツブツ言うてたで。
 夢でも見てたんか?」


「えー?なんか見てた気はすっけど
 思い出せへんよそんなん……」


「って遅刻遅刻!」