RECORD
Eno.102 不明門通 辰巳の記録
※子供が酷い目に遭う描写があります
自販機の底を漁る時は、なるべく細くて長い小枝を探すところから。
丈夫で良くしなる、多少強引に奥を引っ掻いても折れないものを見つけるのが重要だ。
自販機の下には案外たくさんの小銭が眠っている。
石畳の路地が多いから、みんなどうせ無理だと匙を投げて拾うのを早々に諦めてしまう。
そういうところを重点的に探っていく。
100円玉、欲を言えば500円玉がいい。
運が良ければコンビニ裏のゴミ捨て場に賞味期限の切れた弁当が置いてあるから、それも狙い目だ。
見つからないように背を縮めて店裏に回り、しかし今日に限って一つも無かった。ついてない。
電気と水道が止まってもう何日経ったのかわからない。なるべく辰巳に栄養のあるものを食べさせてやりたかった。
「あにき、おなかすいた……」
「我慢できるか?」
「むり……」
「……なんとかする、待っとき」
なんとかする、と言ったけれど。金がなくてはどうにもできない。俺もおなかすいた。
今日はもう少し足を伸ばして、いつもより遠くの自販機を漁ってみよう。
物心ついた時には弟がいた。
俺は弟と代わることができて、弟も俺と代わることができた。声に出さずに会話もできた。
俺達にとってそれは普通のことだったから、これが普通じゃないと知ったのはもう少し後の話になる。
2009年。京都府の南部、京都市下京区。
俺達は俗に言うところのネグレクトにあたるような、あまり育ちのよろしくない家庭環境の親のもとに生まれた。
母親は一人だが父親はたくさんいた。たくさん居すぎて、結局どれと血が繋がっていたのかはついぞ分からない。
母親はとっかえひっかえ違う男をよく家に連れてきていた。そもそも連れてきた中に父親は居なかったのかもしれない。
まともに一人で歩けないほど幼いくらいの赤ん坊の頃はどうしていたのだろう。
出産をどうしたのかもわからない。
届出と戸籍は、行政手続きは、産婦人科にかかるような金はあったのか、なんて考えると疑問がいくらでも噴出してくる。
物心のつくまでの三歳まで何とか生き永らえたということは、おそらく周りの手を借りるなり何なりして体裁は保っていたのだと思う。
世話をしてくれる人は確かに居たはずだが、五歳を迎える頃までの記憶はひどく曖昧でもう思い出せそうもなかった。
とにかく、気付いた時には既にこの状態からのスタートだったわけだ。
俺には辰巳がいて、辰巳には俺がいた。どういうわけか、そういうことになっていた。
母親が望んだ出産だったのかそうでないのかは分からない。堕胎はしなかったらしい。
生んだくせして生まれてきた俺達には興味が湧かず、通常親が行うであろう育てることを殆どしなかった。
もしかすると生まれつき片目が潰れてしまっていたから、見目の観点から愛情を注げなかったのかもしれない。
野性動物では、最後に孵化したり身体が弱い個体が生まれたら、その子供を間引くのだと図鑑に書いてあったから。
とはいえもとより俺達に他に兄弟はいないので、間引くのではなく育児放棄だったのかもしれないけれど。
家にやってくる父親達の反応は様々だった。
俺達に興味のない奴、面白がる奴、疎ましく思う奴、憐れむ奴。
憐れむ奴が大当たり、興味のない奴が少し当たり、他は外れ。
家から閉め出されることはまだ良い方で、黙らせる手段に拳が振り上がる方が圧倒的に多かった。
児童相談所は後に学校に通うようになってから存在を知ったのだけれど、そういう類いの奴に見つからないようにちゃんと服に隠れる位置を狙いすましていたらしい。
言われてみれば腹や背が多かったような。
辰巳は殴られると泣いてしまうので、うるさくてますます手足が出される。
嫌な悪循環に陥るうち、自然と俺は辰巳と交代する事が多くなっていった。
殴る蹴る叩くの面倒ごとは俺の係にしよう、ということになった。
痛いことや嫌なことが続いているうちは俺の係。
食事をしたり遊んだりは辰巳に役目を譲った。
気まぐれに父親の一人が持ってきた絵本には三匹のヤギが描かれていて、小さいヤギと中くらいのヤギは、次にやってくる大きなヤギに後を任せていた。
兄たるものは弟を守らなければいけないらしい。
それなら俺も倣おうと思った。
辰巳は幼く弱い、殴られたり蹴られたり叩かれるとすぐに泣く。
それなら多少は我慢ができる俺が兄になるべきだ。
あんなに毎日泣いてばかりだった辰巳がそのうち笑うようになっていったのは純粋に嬉しかったし、俺自身そんな辰巳を見て救われた心地がしていた。
ただ時折、本当にたまに。
蹴られ殴られながら───こう思いもした。
絵本にはヤギが三匹居たんだから、俺にも大きなヤギが居たら良いのにって。
後に大きなヤギになってくれる人に会ったのは、それから少し経ってからのこと。
親戚付き合いがどうとかで、親族で集まる機会が一度だけあって。
珍しく風呂に入ってもいいことになり、これまた珍しく新しい服を買い与えられ、髪も整えられて、たぶんこれまでの人生で一番綺麗になった日に。
俺達はそこで初めてショウ兄に会った。
利発そうな見た目の青年だった。
綺麗な身なりをしていて、整った顔立ちで、ただ少しだけ身長が他の大人と比べて低くて。
それでも頭は俺達よりもずっと高いところにあって。
そんなショウ兄は膝をついて、わざわざ俺達の目線にあわせてくれた。
「こんにちは、不明門通さんのとこの子?」
「あ……」
「覚えてへんかなぁ。赤ちゃんの頃にいっぺん会ってるけども。はは、さすがに忘れてもうたか」
「…………えっ、と……」
面倒ごとは俺の役目だったのに、俺は初めて辰巳に勝手に代わってしまった。
幼稚園も保育園も行ったことがなくて、そもそも人に話しかけられたのが本当に久しぶりで。
ショウ兄を前にまごついてしまったのだ。
辰巳はこの頃には処世術として、近所の人達に愛想良く挨拶をして菓子を貰うことを覚えていたから。
話すのは得意だという打算もあって、思わずやってしまった。
案の定、急に代わった辰巳は少し不思議そうにしていたし、ショウ兄はそのせいで勘違いしていた。
「……あにき?」
「あら!兄貴やなんて嬉しいわぁ。おおきにね。まぁ俺は君の兄貴やなくて従兄弟なんやけども。辰巳くんやろ?」
「う、うん、たつみ」
「雄々しくてカッコええ名前よなぁ。おばさんも仕事忙しいんやろけど……ホンマに久しぶりやね辰巳くん。しばらく見ぃひんうちに大きくなったんやなぁ。男子三日会わざれば何とやら」
うんうんと頷いているショウ兄は全く記憶にない。
そもそも親戚付き合いがほぼなく、それこそ生まれたばかりの赤ん坊の頃まで遡ってしまうので辰巳も俺も覚えがなかった。
辰巳が申し訳なさそうに言う。
「あの……おれ知らん……ごめんなさい」
「おっと、自己紹介がまだやったねぇ。烏丸ショウ言います、以後お見知りおきを。ちょうど今あの縁側のとこに立ってる、冴えないオッサンおるやろ?あのオッサンの息子が俺。辰巳くんのお袋さんはあのオッサンの妹にあたる人やね」
「ショウ……おにいさん?」
「うはは。わざわざ堅苦しい言い方せんでもよかよ。さっきの兄貴みたく、兄ちゃんとかフランクに呼んで構へんで」
「じゃあショウ兄って呼んでもええ?」
「ええよ」
人なつっこい笑顔でショウ兄は笑った。
こんなに長く人と話していて辰巳が疲れないか心配だったが、さすがは俺の弟。
物怖じせずに会話ができている。
「なんや新しい弟できたみたいで嬉しいわ!なかなか会えへんかったもんねぇ。なぁ辰巳くん、さっき卓上のお菓子貰われへんかったやろ? ねね婆が気ィ揉んでたで。ほら、兄ちゃんのお食べ」
「ええの?」
「もちろん。まぁジジババ連中のお茶請けやさかい、口にあわへんかったら堪忍ね」
いたずらっぽくショウ兄が笑う。
出されたものに手をつけるな、余計なことは言うな、と出発前に鬱陶しそうに言っていた母親は居ない。
今は煙草を吸いに席を外している。
辰巳が食べたそうにしているのが分かって、俺は「今なら食べてもいい」とこっそり伝えた。
辰巳は目を輝かせて夢中でもぐもぐ菓子を頬張る。きっと美味しいんだろうな、なんて少し羨ましくなってしまう。
いけない、良い兄は弟のお菓子をとったりしないのだから。我慢だ。
「あらあら、そんなに急いで食べたら喉つまらせてまうよ。ゆっくりちゃんと噛み」
「おいしい!」
「そりゃ良かった。……辰巳くん、じーっと壁際で大人しゅうしてはったから、心配になってもうて。なんや棒切れみたいに細っこいし。俺が辰巳くんくらいの頃は菓子なんて言われる前にねね婆からブン盗ってたで。お行儀ええお利口さんなんやねぇ。えらいえらい」
「ううん、ちゃうよ。おれ、さっきまであにきに代わって貰てたんよ。えらいのはあにきやと思う」
「…………えーと? そうなんや……?」
ショウ兄は首をかしげたが、子供特有の不思議な言い回しだと思ったのか、それ以上は言及しないでいてくれた。
「あかん、これナイショって約束やった。ショウ兄、ナイショね」
「うん、分かったよ。言わへんから安心し。ほな兄ちゃんと約束な」
「ゆびきりげんまん!」
「はいはい、針千本」
ぎゅっと枝のような小指とやわらかい大人の小指が結ばれる。
針は痛いから嫌だな、と思った。
「いつのまに食べたんこんなん!なぁ行く前に言うたやろ食うなって!」
「っめんなさ、……ごめんなさい……」
「大人しゅうしとけて私言うたやろ!?ただでさえ親戚連中に色々言われて疲れてる時に、なんでアンタは私を怒らせるような真似すんの!?頭悪いなぁもう!ああもうホンマ苛々する!なんで言うこと聞かへんの!犬だってできる事せぇ言うてるだけやのに!待てもできひんなぁアンタは!」
辰巳がうっかりポケットから包み紙を出してしまい、菓子を食べたことが母親にバレてしまった。
ばちん、と頬で平手が炸裂する。尻餅をついて、せっかく買って貰った新しい服が汚れてしまった。
じんじんと頬が熱くなって、ビィンと片耳の音が膜を張ったように聞こえる。流石に針ほどではないけれど痛い。
「頬は目立つからやめとき、見えないとこにせなアカン」と連れ込まれたらしい男が煙草をふかしながら笑っていた。
交代している間、辰巳にはこういう時の対処法を教えてある。
内側で耳を塞いで、だんごむしのように小さく丸まってやり過ごす。
俺の役目が終わるまでは交代せず、表に出てこないようにするためだ。
嫌な記憶がなるべく辰巳の中に残らないで欲しかった。
金切り声も痛みも熱さも冷たさ空腹も、全部遠ざかればいい。
楽しいところだけ切り取って、つぎはぎにくっつけて、他はいらない。
先に行った小さなヤギにホッとして、そうして大きなヤギが後から助けに来るのを待っていた。
がらがらどん。中くらいの小さなヤギ。凶暴なトロルが橋の下から呼んでいる。
「いやいや、食べないでおくれ。待った方がいい。少し待てば、ぼくより大きなヤギがやって来るよ」
「そうか、それならそいつを食おう。とっとと失せろ!」
トロルはそう言って、中くらいのヤギを見逃しました。
現実は見逃してはくれない。
それでもいつか大きなヤギが助けに来るのを、俺はずっと待っていた。
「煙草貸して。いっぺんしっかり覚えさせないとあかんわ」
「えー、なにすんの。目ェはバレたらめんどくさいでぇ」
「バレなきゃええねんこんなん。どうせ最初っから潰れてんなら大して変わらへん。コイツ黙ってたら露見しいひんから。ほら早く貸して」
「しゃーないなぁ。高いんやで最近の煙草は。感謝せえよ」
前髪を掴まれて、じゅうと皮膚が焼ける音がした。
「出してへんの君だけやで、不明門通くん」
「……ごめんなさい」
「おうちのひとにプリント見せた?」
「……まだです」
「保護者の方に電話通じひんから困ってんねん。今度ちゃんと持って来てな」
小学校に行くようになって少し経ってから。給食を食べるのにお金が必要だと初めて知った。
空っぽの封筒はまだ鞄の奥底にある。
三者面談のプリントもそうだ。ほけんだよりも。
見せる宛のない保護者へ向けた通知が溜まっていく。
「あにき、おかねどないしよ」
「待ってもらうしかないやろ」
「でも痺れきらしてたで先生」
「……うん」
月額4500円も払えるわけがないので結局のところ踏み倒すしかなく、電話口でヒステリックに叫ぶ母親に家庭事情を察した先生は無駄と分かりつつもこうして時たま催促をしてくる事があった。
最終的には欠食届を使って支払うことそのものをやめて、なんとか母親に連絡が行かないように事を済ませたり、流石の母親も揉め事を避けるために渋々払ったり。
給食の時間に何をするでもなく席に座っている俺達に対して、友人達は無邪気に「なんで食べへんの?」とか「おようふくどないしたん?」とか、純粋な疑問をぶつけてきて。
そのたびに辰巳も俺も曖昧に誤魔化していた。
「お前んち金ないん?」は全くもってその通りだったので頷くしかなかったし、そんな俺達に対して友人のよしみで余ったパンなどを恵んでくれるのは大変ありがたかった。
やっているのは犬猫の餌付けに近い行為だったが、それでも食いつなげたのはこれのおかげだ。
給食費を払っていない最中も、調理員の人達がこっそりパンをくれることも多かった。
幼稚園も保育園も、集団生活の体験をしないままに行った小学校はなかなかにインパクトのあるもので、それでも辰巳の性格のおかげか友人関係にはさほど困らなかった。
今にして考えれてみると同じ服を何度も着回しているぼろぼろの小学生なんてそれこそハブられそうなものだが、この辺は運良く気のいい人に恵まれていたのだと思う。
辰巳に給食を食べさせてやれたし、休みの時間はのびのびと遊ばせてやれた。
授業は楽しかったし、学校に行っている間は殴られる心配もない。
家に帰ると殴られたりひもじいのには変わりないので、相変わらずそのへんの公園の蛇口で身体を洗ったり、自販機の底を浚ったり、コンビニの弁当を漁るのは継続していたものの。
学校に行くまでの日常と比べると雲泥の差だ。
周りの人達の援助あってこその日々。
決して順風満帆ではなかったけれど、なんだかんだ俺達は上手いことやって生きていた。
はずだったのに。
前にショウ兄が律儀におくってくれた年賀状を、こっそりと隠しておいたのが功を奏した。
携帯電話の番号が書かれたそれを握り締めて公衆電話から繋ぐ。非通知にショウ兄は出てくれるだろうか。わからない。
この10円玉だって拾ったのを緊急用として大事にとっておいたもので、何度も電話を掛けられるわけじゃない。
呼び掛けだけなら良いけれど、もし留守番電話に繋がったら通話が発生して10円は帰ってこない。チャンスはたったの一度きりだ。
辰巳がこうなってしまった以上、もう迷ってはいられなかった。
何かわけのわからないものが、己の知らない手の届かないところでとんでもないことになってしまった奇妙な感覚だけが漠然とある。
いよいよ自分達だけでどうにもできなくなった時の、最後の頼みの綱だった。
祈るような気持ちで受話器を持ち上げて10円玉を突っ込み、震える指で間違えないようにボタンを押す。
数コール挟んでから、本当に運良く電話は繋がった。
ピシ、とかバキ、とか変な音が内側から断続的に響いている。もう時間がない。
「はぁい烏丸ですけど。どちらさん?」
「…………」
「おーい、もしもし?いたずら電話なん?」
「……ショウ兄」
「あっ、ええと……その声、辰巳くんか?どないしたんやこんな時間に、初めてやろ俺に電話掛けてくれたの。何かあった?」
「……あの……」
助けて欲しい、と大人に頼るのは初めてだった。それはいつも辰巳の役目だったから。
「ショウ兄、った、たす、けてほしくて、」
向こうで息を飲む音がした。10円でかけられるのは一分弱しかない。
どもりながらも必死に言葉を紡ぐ。
「おれのせいで辰巳死ぬかもしれへん。どないしよ、ショウ兄、おれどうしたらええの、」
「まずは落ち着き。おばさ───お母さんおらんの?」
「い、る、けどっ、でも……」
「……。よし、母さんの事は一旦置いとこか。ねね婆達に連絡してすぐ向かわせる、俺も今からそっち行くから。何があったか言えるか?」
「む、むり、もう時間ない、お金ない……」
「分かった、後で教えてな。場所は……今どこにおるん?年賀状送ったとこに住んではる?」
「今は……家のすぐ近くにある公衆電話」
「分かった。ほんのちょっとの辛抱やさかい、少しだけ待っててな」
「……ショウ兄」
「なぁに」
「辰巳の事、頼んでもええ?」
「辰巳くんのこと?」
「ううん、俺やなくて弟の───」
電話はそこで切れてしまった。
中途半端なところで電話が切れてしまって、ショウ兄はさぞや肝を潰したに違いない。
申し訳ないことをした。
受話器を握り締めたまま座り込んで、公衆電話のボックスに寄りかかる。
冷たいガラス板が火照った身体に心地よかった。べったりと口元についた血が、じわじわ地面に広がっていく。
意識が霧散する前にやるべき事があった。このままだと共倒れだ。
そうなる前に、俺から剥がれないといけない。
「辰巳、辰巳……」
「……」
「おれが全部持ってくさかい、心配せんでもよかよ。これからはショウ兄の言うことよう聞いてな」
「……」
「大丈夫、……」
なんとかなる。なんとかする。そう自分と辰巳に言い聞かせた。
ぐっと力を振り絞って立ち上がる。そこでようやく自分が辰巳から剥がれたことが分かった。
煙のように透けた身体がだんだんと形を崩して空中に溶けていく。
なんだかとてもねむい。つかれた。辰巳はこれからだいじょうぶだろうか。
ショウ兄がいるから、きっと困ったことにはならないはずだ。
上手くいくといいのだけれど。ここから先はもう祈るしかない。
砂山のようにさらさら流れていく自分の身体を眺めていると、どこかで聞いた声がした。



【日記25】忘れてしまった話
※子供が酷い目に遭う描写があります
自販機の底を漁る時は、なるべく細くて長い小枝を探すところから。
丈夫で良くしなる、多少強引に奥を引っ掻いても折れないものを見つけるのが重要だ。
自販機の下には案外たくさんの小銭が眠っている。
石畳の路地が多いから、みんなどうせ無理だと匙を投げて拾うのを早々に諦めてしまう。
そういうところを重点的に探っていく。
100円玉、欲を言えば500円玉がいい。
運が良ければコンビニ裏のゴミ捨て場に賞味期限の切れた弁当が置いてあるから、それも狙い目だ。
見つからないように背を縮めて店裏に回り、しかし今日に限って一つも無かった。ついてない。
電気と水道が止まってもう何日経ったのかわからない。なるべく辰巳に栄養のあるものを食べさせてやりたかった。
「あにき、おなかすいた……」
「我慢できるか?」
「むり……」
「……なんとかする、待っとき」
なんとかする、と言ったけれど。金がなくてはどうにもできない。俺もおなかすいた。
今日はもう少し足を伸ばして、いつもより遠くの自販機を漁ってみよう。
物心ついた時には弟がいた。
俺は弟と代わることができて、弟も俺と代わることができた。声に出さずに会話もできた。
俺達にとってそれは普通のことだったから、これが普通じゃないと知ったのはもう少し後の話になる。
2009年。京都府の南部、京都市下京区。
俺達は俗に言うところのネグレクトにあたるような、あまり育ちのよろしくない家庭環境の親のもとに生まれた。
母親は一人だが父親はたくさんいた。たくさん居すぎて、結局どれと血が繋がっていたのかはついぞ分からない。
母親はとっかえひっかえ違う男をよく家に連れてきていた。そもそも連れてきた中に父親は居なかったのかもしれない。
まともに一人で歩けないほど幼いくらいの赤ん坊の頃はどうしていたのだろう。
出産をどうしたのかもわからない。
届出と戸籍は、行政手続きは、産婦人科にかかるような金はあったのか、なんて考えると疑問がいくらでも噴出してくる。
物心のつくまでの三歳まで何とか生き永らえたということは、おそらく周りの手を借りるなり何なりして体裁は保っていたのだと思う。
世話をしてくれる人は確かに居たはずだが、五歳を迎える頃までの記憶はひどく曖昧でもう思い出せそうもなかった。
とにかく、気付いた時には既にこの状態からのスタートだったわけだ。
俺には辰巳がいて、辰巳には俺がいた。どういうわけか、そういうことになっていた。
母親が望んだ出産だったのかそうでないのかは分からない。堕胎はしなかったらしい。
生んだくせして生まれてきた俺達には興味が湧かず、通常親が行うであろう育てることを殆どしなかった。
もしかすると生まれつき片目が潰れてしまっていたから、見目の観点から愛情を注げなかったのかもしれない。
野性動物では、最後に孵化したり身体が弱い個体が生まれたら、その子供を間引くのだと図鑑に書いてあったから。
とはいえもとより俺達に他に兄弟はいないので、間引くのではなく育児放棄だったのかもしれないけれど。
家にやってくる父親達の反応は様々だった。
俺達に興味のない奴、面白がる奴、疎ましく思う奴、憐れむ奴。
憐れむ奴が大当たり、興味のない奴が少し当たり、他は外れ。
家から閉め出されることはまだ良い方で、黙らせる手段に拳が振り上がる方が圧倒的に多かった。
児童相談所は後に学校に通うようになってから存在を知ったのだけれど、そういう類いの奴に見つからないようにちゃんと服に隠れる位置を狙いすましていたらしい。
言われてみれば腹や背が多かったような。
辰巳は殴られると泣いてしまうので、うるさくてますます手足が出される。
嫌な悪循環に陥るうち、自然と俺は辰巳と交代する事が多くなっていった。
殴る蹴る叩くの面倒ごとは俺の係にしよう、ということになった。
痛いことや嫌なことが続いているうちは俺の係。
食事をしたり遊んだりは辰巳に役目を譲った。
気まぐれに父親の一人が持ってきた絵本には三匹のヤギが描かれていて、小さいヤギと中くらいのヤギは、次にやってくる大きなヤギに後を任せていた。
兄たるものは弟を守らなければいけないらしい。
それなら俺も倣おうと思った。
辰巳は幼く弱い、殴られたり蹴られたり叩かれるとすぐに泣く。
それなら多少は我慢ができる俺が兄になるべきだ。
あんなに毎日泣いてばかりだった辰巳がそのうち笑うようになっていったのは純粋に嬉しかったし、俺自身そんな辰巳を見て救われた心地がしていた。
ただ時折、本当にたまに。
蹴られ殴られながら───こう思いもした。
絵本にはヤギが三匹居たんだから、俺にも大きなヤギが居たら良いのにって。
後に大きなヤギになってくれる人に会ったのは、それから少し経ってからのこと。
親戚付き合いがどうとかで、親族で集まる機会が一度だけあって。
珍しく風呂に入ってもいいことになり、これまた珍しく新しい服を買い与えられ、髪も整えられて、たぶんこれまでの人生で一番綺麗になった日に。
俺達はそこで初めてショウ兄に会った。
利発そうな見た目の青年だった。
綺麗な身なりをしていて、整った顔立ちで、ただ少しだけ身長が他の大人と比べて低くて。
それでも頭は俺達よりもずっと高いところにあって。
そんなショウ兄は膝をついて、わざわざ俺達の目線にあわせてくれた。
「こんにちは、不明門通さんのとこの子?」
「あ……」
「覚えてへんかなぁ。赤ちゃんの頃にいっぺん会ってるけども。はは、さすがに忘れてもうたか」
「…………えっ、と……」
面倒ごとは俺の役目だったのに、俺は初めて辰巳に勝手に代わってしまった。
幼稚園も保育園も行ったことがなくて、そもそも人に話しかけられたのが本当に久しぶりで。
ショウ兄を前にまごついてしまったのだ。
辰巳はこの頃には処世術として、近所の人達に愛想良く挨拶をして菓子を貰うことを覚えていたから。
話すのは得意だという打算もあって、思わずやってしまった。
案の定、急に代わった辰巳は少し不思議そうにしていたし、ショウ兄はそのせいで勘違いしていた。
「……あにき?」
「あら!兄貴やなんて嬉しいわぁ。おおきにね。まぁ俺は君の兄貴やなくて従兄弟なんやけども。辰巳くんやろ?」
「う、うん、たつみ」
「雄々しくてカッコええ名前よなぁ。おばさんも仕事忙しいんやろけど……ホンマに久しぶりやね辰巳くん。しばらく見ぃひんうちに大きくなったんやなぁ。男子三日会わざれば何とやら」
うんうんと頷いているショウ兄は全く記憶にない。
そもそも親戚付き合いがほぼなく、それこそ生まれたばかりの赤ん坊の頃まで遡ってしまうので辰巳も俺も覚えがなかった。
辰巳が申し訳なさそうに言う。
「あの……おれ知らん……ごめんなさい」
「おっと、自己紹介がまだやったねぇ。烏丸ショウ言います、以後お見知りおきを。ちょうど今あの縁側のとこに立ってる、冴えないオッサンおるやろ?あのオッサンの息子が俺。辰巳くんのお袋さんはあのオッサンの妹にあたる人やね」
「ショウ……おにいさん?」
「うはは。わざわざ堅苦しい言い方せんでもよかよ。さっきの兄貴みたく、兄ちゃんとかフランクに呼んで構へんで」
「じゃあショウ兄って呼んでもええ?」
「ええよ」
人なつっこい笑顔でショウ兄は笑った。
こんなに長く人と話していて辰巳が疲れないか心配だったが、さすがは俺の弟。
物怖じせずに会話ができている。
「なんや新しい弟できたみたいで嬉しいわ!なかなか会えへんかったもんねぇ。なぁ辰巳くん、さっき卓上のお菓子貰われへんかったやろ? ねね婆が気ィ揉んでたで。ほら、兄ちゃんのお食べ」
「ええの?」
「もちろん。まぁジジババ連中のお茶請けやさかい、口にあわへんかったら堪忍ね」
いたずらっぽくショウ兄が笑う。
出されたものに手をつけるな、余計なことは言うな、と出発前に鬱陶しそうに言っていた母親は居ない。
今は煙草を吸いに席を外している。
辰巳が食べたそうにしているのが分かって、俺は「今なら食べてもいい」とこっそり伝えた。
辰巳は目を輝かせて夢中でもぐもぐ菓子を頬張る。きっと美味しいんだろうな、なんて少し羨ましくなってしまう。
いけない、良い兄は弟のお菓子をとったりしないのだから。我慢だ。
「あらあら、そんなに急いで食べたら喉つまらせてまうよ。ゆっくりちゃんと噛み」
「おいしい!」
「そりゃ良かった。……辰巳くん、じーっと壁際で大人しゅうしてはったから、心配になってもうて。なんや棒切れみたいに細っこいし。俺が辰巳くんくらいの頃は菓子なんて言われる前にねね婆からブン盗ってたで。お行儀ええお利口さんなんやねぇ。えらいえらい」
「ううん、ちゃうよ。おれ、さっきまであにきに代わって貰てたんよ。えらいのはあにきやと思う」
「…………えーと? そうなんや……?」
ショウ兄は首をかしげたが、子供特有の不思議な言い回しだと思ったのか、それ以上は言及しないでいてくれた。
「あかん、これナイショって約束やった。ショウ兄、ナイショね」
「うん、分かったよ。言わへんから安心し。ほな兄ちゃんと約束な」
「ゆびきりげんまん!」
「はいはい、針千本」
ぎゅっと枝のような小指とやわらかい大人の小指が結ばれる。
針は痛いから嫌だな、と思った。
「いつのまに食べたんこんなん!なぁ行く前に言うたやろ食うなって!」
「っめんなさ、……ごめんなさい……」
「大人しゅうしとけて私言うたやろ!?ただでさえ親戚連中に色々言われて疲れてる時に、なんでアンタは私を怒らせるような真似すんの!?頭悪いなぁもう!ああもうホンマ苛々する!なんで言うこと聞かへんの!犬だってできる事せぇ言うてるだけやのに!待てもできひんなぁアンタは!」
辰巳がうっかりポケットから包み紙を出してしまい、菓子を食べたことが母親にバレてしまった。
ばちん、と頬で平手が炸裂する。尻餅をついて、せっかく買って貰った新しい服が汚れてしまった。
じんじんと頬が熱くなって、ビィンと片耳の音が膜を張ったように聞こえる。流石に針ほどではないけれど痛い。
「頬は目立つからやめとき、見えないとこにせなアカン」と連れ込まれたらしい男が煙草をふかしながら笑っていた。
交代している間、辰巳にはこういう時の対処法を教えてある。
内側で耳を塞いで、だんごむしのように小さく丸まってやり過ごす。
俺の役目が終わるまでは交代せず、表に出てこないようにするためだ。
嫌な記憶がなるべく辰巳の中に残らないで欲しかった。
金切り声も痛みも熱さも冷たさ空腹も、全部遠ざかればいい。
楽しいところだけ切り取って、つぎはぎにくっつけて、他はいらない。
先に行った小さなヤギにホッとして、そうして大きなヤギが後から助けに来るのを待っていた。
がらがらどん。中くらいの小さなヤギ。凶暴なトロルが橋の下から呼んでいる。
「いやいや、食べないでおくれ。待った方がいい。少し待てば、ぼくより大きなヤギがやって来るよ」
「そうか、それならそいつを食おう。とっとと失せろ!」
トロルはそう言って、中くらいのヤギを見逃しました。
現実は見逃してはくれない。
それでもいつか大きなヤギが助けに来るのを、俺はずっと待っていた。
「煙草貸して。いっぺんしっかり覚えさせないとあかんわ」
「えー、なにすんの。目ェはバレたらめんどくさいでぇ」
「バレなきゃええねんこんなん。どうせ最初っから潰れてんなら大して変わらへん。コイツ黙ってたら露見しいひんから。ほら早く貸して」
「しゃーないなぁ。高いんやで最近の煙草は。感謝せえよ」
前髪を掴まれて、じゅうと皮膚が焼ける音がした。
「出してへんの君だけやで、不明門通くん」
「……ごめんなさい」
「おうちのひとにプリント見せた?」
「……まだです」
「保護者の方に電話通じひんから困ってんねん。今度ちゃんと持って来てな」
小学校に行くようになって少し経ってから。給食を食べるのにお金が必要だと初めて知った。
空っぽの封筒はまだ鞄の奥底にある。
三者面談のプリントもそうだ。ほけんだよりも。
見せる宛のない保護者へ向けた通知が溜まっていく。
「あにき、おかねどないしよ」
「待ってもらうしかないやろ」
「でも痺れきらしてたで先生」
「……うん」
月額4500円も払えるわけがないので結局のところ踏み倒すしかなく、電話口でヒステリックに叫ぶ母親に家庭事情を察した先生は無駄と分かりつつもこうして時たま催促をしてくる事があった。
最終的には欠食届を使って支払うことそのものをやめて、なんとか母親に連絡が行かないように事を済ませたり、流石の母親も揉め事を避けるために渋々払ったり。
給食の時間に何をするでもなく席に座っている俺達に対して、友人達は無邪気に「なんで食べへんの?」とか「おようふくどないしたん?」とか、純粋な疑問をぶつけてきて。
そのたびに辰巳も俺も曖昧に誤魔化していた。
「お前んち金ないん?」は全くもってその通りだったので頷くしかなかったし、そんな俺達に対して友人のよしみで余ったパンなどを恵んでくれるのは大変ありがたかった。
やっているのは犬猫の餌付けに近い行為だったが、それでも食いつなげたのはこれのおかげだ。
給食費を払っていない最中も、調理員の人達がこっそりパンをくれることも多かった。
幼稚園も保育園も、集団生活の体験をしないままに行った小学校はなかなかにインパクトのあるもので、それでも辰巳の性格のおかげか友人関係にはさほど困らなかった。
今にして考えれてみると同じ服を何度も着回しているぼろぼろの小学生なんてそれこそハブられそうなものだが、この辺は運良く気のいい人に恵まれていたのだと思う。
辰巳に給食を食べさせてやれたし、休みの時間はのびのびと遊ばせてやれた。
授業は楽しかったし、学校に行っている間は殴られる心配もない。
家に帰ると殴られたりひもじいのには変わりないので、相変わらずそのへんの公園の蛇口で身体を洗ったり、自販機の底を浚ったり、コンビニの弁当を漁るのは継続していたものの。
学校に行くまでの日常と比べると雲泥の差だ。
周りの人達の援助あってこその日々。
決して順風満帆ではなかったけれど、なんだかんだ俺達は上手いことやって生きていた。
はずだったのに。
前にショウ兄が律儀におくってくれた年賀状を、こっそりと隠しておいたのが功を奏した。
携帯電話の番号が書かれたそれを握り締めて公衆電話から繋ぐ。非通知にショウ兄は出てくれるだろうか。わからない。
この10円玉だって拾ったのを緊急用として大事にとっておいたもので、何度も電話を掛けられるわけじゃない。
呼び掛けだけなら良いけれど、もし留守番電話に繋がったら通話が発生して10円は帰ってこない。チャンスはたったの一度きりだ。
辰巳がこうなってしまった以上、もう迷ってはいられなかった。
何かわけのわからないものが、己の知らない手の届かないところでとんでもないことになってしまった奇妙な感覚だけが漠然とある。
いよいよ自分達だけでどうにもできなくなった時の、最後の頼みの綱だった。
祈るような気持ちで受話器を持ち上げて10円玉を突っ込み、震える指で間違えないようにボタンを押す。
数コール挟んでから、本当に運良く電話は繋がった。
ピシ、とかバキ、とか変な音が内側から断続的に響いている。もう時間がない。
「はぁい烏丸ですけど。どちらさん?」
「…………」
「おーい、もしもし?いたずら電話なん?」
「……ショウ兄」
「あっ、ええと……その声、辰巳くんか?どないしたんやこんな時間に、初めてやろ俺に電話掛けてくれたの。何かあった?」
「……あの……」
助けて欲しい、と大人に頼るのは初めてだった。それはいつも辰巳の役目だったから。
「ショウ兄、った、たす、けてほしくて、」
向こうで息を飲む音がした。10円でかけられるのは一分弱しかない。
どもりながらも必死に言葉を紡ぐ。
「おれのせいで辰巳死ぬかもしれへん。どないしよ、ショウ兄、おれどうしたらええの、」
「まずは落ち着き。おばさ───お母さんおらんの?」
「い、る、けどっ、でも……」
「……。よし、母さんの事は一旦置いとこか。ねね婆達に連絡してすぐ向かわせる、俺も今からそっち行くから。何があったか言えるか?」
「む、むり、もう時間ない、お金ない……」
「分かった、後で教えてな。場所は……今どこにおるん?年賀状送ったとこに住んではる?」
「今は……家のすぐ近くにある公衆電話」
「分かった。ほんのちょっとの辛抱やさかい、少しだけ待っててな」
「……ショウ兄」
「なぁに」
「辰巳の事、頼んでもええ?」
「辰巳くんのこと?」
「ううん、俺やなくて弟の───」
電話はそこで切れてしまった。
中途半端なところで電話が切れてしまって、ショウ兄はさぞや肝を潰したに違いない。
申し訳ないことをした。
受話器を握り締めたまま座り込んで、公衆電話のボックスに寄りかかる。
冷たいガラス板が火照った身体に心地よかった。べったりと口元についた血が、じわじわ地面に広がっていく。
意識が霧散する前にやるべき事があった。このままだと共倒れだ。
そうなる前に、俺から剥がれないといけない。
「辰巳、辰巳……」
「……」
「おれが全部持ってくさかい、心配せんでもよかよ。これからはショウ兄の言うことよう聞いてな」
「……」
「大丈夫、……」
なんとかなる。なんとかする。そう自分と辰巳に言い聞かせた。
ぐっと力を振り絞って立ち上がる。そこでようやく自分が辰巳から剥がれたことが分かった。
煙のように透けた身体がだんだんと形を崩して空中に溶けていく。
なんだかとてもねむい。つかれた。辰巳はこれからだいじょうぶだろうか。
ショウ兄がいるから、きっと困ったことにはならないはずだ。
上手くいくといいのだけれど。ここから先はもう祈るしかない。
砂山のようにさらさら流れていく自分の身体を眺めていると、どこかで聞いた声がした。

「若旦那ー?ウタタネ?」

「! ……悪い、寝てた」

「珍シイネェ。
若旦那、寝ナガラ唸ッテタ!
変ナ夢デモ見タノ?」

「何だっけ……。
どんな夢だったか忘れちまったよ」