RECORD

Eno.22 雲隠 運太郎の記録

●羽化

・流血、猟奇的、暴力表現があります。













─2017年




 しばらく、食べ物が喉を通らなかった。
 人目のつかない所で何度も嗚咽を漏らした。




 全てを取り戻したことは終わりではなく始まりで、
 耐える日々が始まった。

 俺が元に戻ったとバレたら、次は何をされるか分からない。

 俺の心には両親から受けた愛の記憶と、
 実験対象として生きた冷たい記憶のふたつが同時に存在する。
 歪な記憶の合間を縫って、必死で変化がないことを装った。


「コロちゃん、俺以外も元に戻せるか?」



「だめかい?」




 トアの人格がヒプノスによって歪められた物であったと知っても、アイツは俺の友達であることは変わらない。
 もし俺のことを恨んでいたり、本当は大嫌いに思われてたら……流石に悲しいけど。

 それでもトアは自分の意志でああなったんじゃないだろう。
 本当の言葉を聞きたい。

(トアも、当然真実を知ったら、俺みたいに辛い気持ちになるかもしれない……
 演技し続けろって頼むのも酷だ……
 どこか一緒に逃げられる場所を探さないとな)



 考えることはたくさんだ。

(とにかく、今日を乗り切ろう)



 ふと、トアの部屋が目に留まる。
 扉は分厚い鉄。小窓すらない。
 今まではなんとも思わなかったのに、こうしてみると俺達の部屋はまるで独房だ。

「トア、起きてる?」



 扉をノックした。
 返事はない。

(鍵が空いてる……)



 胸騒ぎがした。
 ノブを回して、扉を開ける。

 鉄の匂いがした。

「……………」





 床も壁も、至る所が血濡れだった。


 血を落とすように触覚の手入れをしている、犬や猫ほどの大きさの蟻が天井に居た。
 この地に巨大な蟻塚を築いている怪異、ヒプノスだ。

「………お前がやったのか」


「お前がやったのかって聞いてんだよ!!」



 蟻に叫んだって返事など返って来るわけがない。
 半分発作だった。

 ヒプノスを異能で引き裂く。
 いとも簡単にそれはバラバラになった。

「トア……!!」



 部屋の隅に、トアは倒れていた。

 抱き起こそうと近づくも、
 起こせる部分・・・・・・が殆ど残っていなかった。
 それはまるで、蛹が蝶となり、残された抜け殻だ。

 鉄格子が取り付けられた窓が破られた形跡もなく、
 ヒプノスが侵入できるような穴もない。
 つまりあのヒプノスは、トアの心臓から……

「トア!!
 返事をしてくれ!!」



 返事など返ってくるはずがない。

「嫌だ……
 医務室、運べばまだ……」



 ……原型を保ちながら運ぶ手段がない。
 必死で掬い上げては、全身が血に濡れた。

 膝が折れる。
 うまく立てない。息ができない。

「俺は……本当の君のことを……なにも……」



 トアは優しかった。
 どんなことでも怒らず、にこやかに笑って接してくれた。
 それはヒプノスに作られたものだったとしても、トアは傍に居てくれた。

 本当のトアを知りたかった。
 意見が反発するかもしれない、ずっと怒っていたのかもしれない。
 それでも言葉を交わして、歩み寄って、もう一度友達になりたかった。

 いつも優しかったからキミが好きだったんじゃない。
 キミがキミだから。
 傍に居てくれたから。

「何も知らないのに!!」



 ヒプノスの羽化、それは自らにもいつか来たる運命。
 しかし今はそんな事考えられなかった。




 どうすればよかったのだろう。
 どうすれば助けられたのだろう。
 誰も頼れない、誰も導いてくれない。





 ──ただひたすら地の底で、己の無力さを嘆いていた。