RECORD
Eno.1461 篠崎 駿の記録
Family
岬ヶ丘の坂を下り、雪ちゃんとは駅前で別れた。彼女は「また明日ね」と小さく手を振り、街灯の下で翠色の髪を揺らして歩き去る。
振り返ったその横顔に、夕陽の残光が優しく溶け込み、俺の胸に小さな灯りをともす。
俺はリュックを背負い直し、家の鍵を握りしめた。潮の香りが夜風に混じる。
十一月の夜は冷え込み、指先がじんわりと痺れるが、心の中はほんのり温かい。雪ちゃんの告白が、墓地での静かな風のように残っている。
家は変わらず、木造の二階建て。門の錆びた郵便受けに「篠崎」と彫られたプレートが、月明かりに淡く光る。
鍵を回すと、軋む音が静寂を破る。玄関の靴箱には父さんの革靴が一足だけ。刑事の仕事は夜も容赦ないが、今日は珍しく家にいた。
「……ただいま」
声は空っぽの廊下に吸い込まれるが、リビングの灯りが漏れ、テレビの音が微かに聞こえる。父
ソファに座り、缶ビールを片手にニュースを眺めている。背中が少し丸くなった気がするが、それでも頼もしいシルエットだ。
「お、駿。帰ってきたか」
父さんが振り返る。目元には疲れからか影が見えるが、刑事のバッジがテーブルの上に無造作に置かれている横に、俺の幼い頃の写真が一枚、そっと寄り添うように置かれている。
「ああ。陽介に休めって言われて」
俺はリュックを下ろし、ソファに腰を沈める。父さんが立ち上がり、冷蔵庫を開ける。いつものルーチンだが、今日はどこか優しい空気が流れる。
「最近どうだった?」
「まあ、忙しい。事件が立て続けでな……でも、お前がいると思うと、なんとか踏ん張れるよ」
父さんの声は低く、どこか遠い。でも、その言葉に込められた温かさが、俺の心を溶かす。俺は頷き、雪ちゃんのことを思い出す。墓地での告白。優の笑顔。そして、父さんのこの家が、いつも待っていてくれること。
「雪ちゃんは元気してたか?」
父さんが唐突に聞く。ビールのプルタブが鳴るが、その音さえ優しく響く。
「ああ。会ったよ。相変わらずだ。でも、今日はなんか……特別だった」
「そうか……よし、お腹空いたろ? なんか作ってやる」
父さんがエプロンを手にキッチンへ向かう。俺は立ち上がり、止める。
「いや、俺が作る」
「いいって。子供に飯食わせるのが、親の務めだろ」
父さんが笑うが、俺は首を振る。
「大丈夫だって。それに父さんが自分でお米炊いてるの見た事ないし」
父さんが一瞬動きを止める。
「父さんだって昔は炊いてたさ。お前の母さんと一緒にな」
「それ、結婚する前だろ」
俺の言葉に父さんが苦笑いするが、その目には懐かしい光が宿る。
「いや、今日は俺が作る」
なかなか食い下がらない父さんに、俺は微笑んで頷く。父さんが米をザルに取り、蛇口をひねる。水音が響く中、俺は野菜を洗い始める。
肩が触れ合う距離。昔、母さんが台所に立っていた頃の光景が、重なり合うように蘇る。
父さんの手が少し震えるのは、疲れか、それとも思い出のせいか。
炊飯器のスイッチが入る。父さんが味噌汁の具を刻む。包丁の音が規則的で、俺は魚を焼くフライパンを振る。
キッチンに立ち込める匂い──醤油の香り、魚の焦げ目、湯気が立ち上る温かさ。父さんがふと呟く。
「お前、俺より上手く焼けてるじゃないか」
「父さんが教えてくれたんだろ」
俺の言葉に、父さんが照れくさそうに笑う。家族の絆が、こんな小さな瞬間に息づいている。
夕食はシンプルだが、愛情たっぷり。炊きたてのご飯、焼き魚、味噌汁、沢庵。
そして、父さんが冷蔵庫から取り出した、母さんが好きだった漬物。皿を並べ、向かい合う。
「いただきます」
箸を手に取り、ご飯を口に運ぶ。瞬間、眉を顰める。
「このお米、ちゃんと研いでないだろ」
父さんが箸を止める。少ししょんぼりした顔だが、すぐに笑いがこぼれる。
「父さんも昔は炊いてんだがな……」
「だからそれ結婚する前だろ!?」
俺はつい笑いがこみ上げ、父さんも声を上げて笑う。味は少し硬めだが、温かい。心まで満たされる、家庭の味。
箸が進むたび、言葉が自然に溢れる。雪ちゃんの話、優の思い出、父さんの仕事の愚痴。笑い声がリビングに響き、夜の冷え込みを忘れさせる。
食事を終え、皿を流しに。父さんがビールをもう一本開けるが、俺にもジュースを注いでくれる。
「部屋使えよ。掃除しといたから」
「ああ、ありがとう」
階段を上る。自室は変わらず。ベッドに優の写真。窓から見える岬の灯台。天井を見上げ、横になる。
目を閉じるが、眠れない。
時計の針が深夜を回る。喉が渇き、一階へ降りる。リビングの灯りが薄暗く漏れる。
父さんがソファに座り、酒を飲んでいる。何やら呟いている。
耳をすます。テーブルに母さんと幼少期の俺の写真。アルバムが開かれ、父さんの手がそれを撫でる。隣に、俺の最近の写真も加わっている。
「…なぁ…紅音…駿。成人したんだぞ…大きくなったもんだよな…あの子があんなに立派に…」
父さんの声が震える。涙が頰を伝うが、それは悲しみだけじゃない。酒の匂いが混じる中、母さんの笑顔が写真の中で輝く。そして、父さんの肩が少し強く見える。
俺は何も言わず、静かに階段を上る。自室に戻り、ベッドに潜る。
(帰ってきてよかったな……この家に)
胸が温かい。潮の音が遠くから聞こえる。目を閉じ、ようやく眠りが訪れた。
振り返ったその横顔に、夕陽の残光が優しく溶け込み、俺の胸に小さな灯りをともす。
俺はリュックを背負い直し、家の鍵を握りしめた。潮の香りが夜風に混じる。
十一月の夜は冷え込み、指先がじんわりと痺れるが、心の中はほんのり温かい。雪ちゃんの告白が、墓地での静かな風のように残っている。
家は変わらず、木造の二階建て。門の錆びた郵便受けに「篠崎」と彫られたプレートが、月明かりに淡く光る。
鍵を回すと、軋む音が静寂を破る。玄関の靴箱には父さんの革靴が一足だけ。刑事の仕事は夜も容赦ないが、今日は珍しく家にいた。
「……ただいま」
声は空っぽの廊下に吸い込まれるが、リビングの灯りが漏れ、テレビの音が微かに聞こえる。父
ソファに座り、缶ビールを片手にニュースを眺めている。背中が少し丸くなった気がするが、それでも頼もしいシルエットだ。
「お、駿。帰ってきたか」
父さんが振り返る。目元には疲れからか影が見えるが、刑事のバッジがテーブルの上に無造作に置かれている横に、俺の幼い頃の写真が一枚、そっと寄り添うように置かれている。
「ああ。陽介に休めって言われて」
俺はリュックを下ろし、ソファに腰を沈める。父さんが立ち上がり、冷蔵庫を開ける。いつものルーチンだが、今日はどこか優しい空気が流れる。
「最近どうだった?」
「まあ、忙しい。事件が立て続けでな……でも、お前がいると思うと、なんとか踏ん張れるよ」
父さんの声は低く、どこか遠い。でも、その言葉に込められた温かさが、俺の心を溶かす。俺は頷き、雪ちゃんのことを思い出す。墓地での告白。優の笑顔。そして、父さんのこの家が、いつも待っていてくれること。
「雪ちゃんは元気してたか?」
父さんが唐突に聞く。ビールのプルタブが鳴るが、その音さえ優しく響く。
「ああ。会ったよ。相変わらずだ。でも、今日はなんか……特別だった」
「そうか……よし、お腹空いたろ? なんか作ってやる」
父さんがエプロンを手にキッチンへ向かう。俺は立ち上がり、止める。
「いや、俺が作る」
「いいって。子供に飯食わせるのが、親の務めだろ」
父さんが笑うが、俺は首を振る。
「大丈夫だって。それに父さんが自分でお米炊いてるの見た事ないし」
父さんが一瞬動きを止める。
「父さんだって昔は炊いてたさ。お前の母さんと一緒にな」
「それ、結婚する前だろ」
俺の言葉に父さんが苦笑いするが、その目には懐かしい光が宿る。
「いや、今日は俺が作る」
なかなか食い下がらない父さんに、俺は微笑んで頷く。父さんが米をザルに取り、蛇口をひねる。水音が響く中、俺は野菜を洗い始める。
肩が触れ合う距離。昔、母さんが台所に立っていた頃の光景が、重なり合うように蘇る。
父さんの手が少し震えるのは、疲れか、それとも思い出のせいか。
炊飯器のスイッチが入る。父さんが味噌汁の具を刻む。包丁の音が規則的で、俺は魚を焼くフライパンを振る。
キッチンに立ち込める匂い──醤油の香り、魚の焦げ目、湯気が立ち上る温かさ。父さんがふと呟く。
「お前、俺より上手く焼けてるじゃないか」
「父さんが教えてくれたんだろ」
俺の言葉に、父さんが照れくさそうに笑う。家族の絆が、こんな小さな瞬間に息づいている。
夕食はシンプルだが、愛情たっぷり。炊きたてのご飯、焼き魚、味噌汁、沢庵。
そして、父さんが冷蔵庫から取り出した、母さんが好きだった漬物。皿を並べ、向かい合う。
「いただきます」
箸を手に取り、ご飯を口に運ぶ。瞬間、眉を顰める。
「このお米、ちゃんと研いでないだろ」
父さんが箸を止める。少ししょんぼりした顔だが、すぐに笑いがこぼれる。
「父さんも昔は炊いてんだがな……」
「だからそれ結婚する前だろ!?」
俺はつい笑いがこみ上げ、父さんも声を上げて笑う。味は少し硬めだが、温かい。心まで満たされる、家庭の味。
箸が進むたび、言葉が自然に溢れる。雪ちゃんの話、優の思い出、父さんの仕事の愚痴。笑い声がリビングに響き、夜の冷え込みを忘れさせる。
食事を終え、皿を流しに。父さんがビールをもう一本開けるが、俺にもジュースを注いでくれる。
「部屋使えよ。掃除しといたから」
「ああ、ありがとう」
階段を上る。自室は変わらず。ベッドに優の写真。窓から見える岬の灯台。天井を見上げ、横になる。
目を閉じるが、眠れない。
時計の針が深夜を回る。喉が渇き、一階へ降りる。リビングの灯りが薄暗く漏れる。
父さんがソファに座り、酒を飲んでいる。何やら呟いている。
耳をすます。テーブルに母さんと幼少期の俺の写真。アルバムが開かれ、父さんの手がそれを撫でる。隣に、俺の最近の写真も加わっている。
「…なぁ…紅音…駿。成人したんだぞ…大きくなったもんだよな…あの子があんなに立派に…」
父さんの声が震える。涙が頰を伝うが、それは悲しみだけじゃない。酒の匂いが混じる中、母さんの笑顔が写真の中で輝く。そして、父さんの肩が少し強く見える。
俺は何も言わず、静かに階段を上る。自室に戻り、ベッドに潜る。
(帰ってきてよかったな……この家に)
胸が温かい。潮の音が遠くから聞こえる。目を閉じ、ようやく眠りが訪れた。