RECORD

Eno.1461 篠崎 駿の記録

Mother

翌朝、目覚ましが鳴る前に自然に目が覚めた。窓から差し込む十一月の陽光は薄く、岬の海がまだ眠っているように静かだ。

ベッドから起き上がり、優の写真に視線を落とす。笑顔が、今日の俺を後押ししてくれるみたいだ。

下に降りると、父さんはもう出勤した後だった。テーブルの上にはメモ。

「朝飯は冷蔵庫。仕事頑張れよ」

シンプルな字だが、昨夜の温かさが残っている。トーストを頬張りながら、スマホをチェック。短期アルバイトの募集メールが来ていた。

学童保育の補助員。学校が終わった後の子供たちを見守る仕事。

時給はそこそこだけど、なんか気になる。

母さんが生きてた頃、俺も学童に通ってた記憶がよみがえる。

「よし、行ってみるか」

履歴書を急いで準備し、岬ヶ丘の坂を上って駅へ。電車で二駅、街はずれの小さな施設「岬ヶ丘学童保育所」

木造の平屋建てで、庭にブランコと砂場。看板が少し色褪せてるけど、子供たちの笑い声が漏れ聞こえてくる。

面接は簡単だった。所長の女性が「人手不足で助かるわ。今日からでいい?」と言われ、エプロンを渡された後に早速子供たちの中に放り込まれる。

午後三時、学校からバスが到着し、ぞろぞろと子供たちが降りてきた。

総勢二十人くらい。みんなランドセルを背負ったまま、施設の中へ雪崩れ込む。

所長さんが大きな声で言った。

「みんな、今日は新しいお兄さんが来てくれたよ! ちょっと挨拶してもらおうかな」

子供たちの視線が一斉に俺に突き刺さる。ざわざわと好奇心の波が押し寄せてくる。

俺は軽く手を上げて、できるだけ自然に笑った。

「えっと、はじめまして。今日から一週間、みんなのお手伝いに来ました。篠崎 駿です。よろしくね」

一瞬、静かになった。

そして──

「えーっ! お兄さんめっちゃ背高いー!」

「警察の人?」

「かっこいい!」

「名前、駿くん? じゅんくん?」

質問攻めが始まった。一人の男の子が一番前に飛び出してきて、

「お兄さん、サッカーできる?」

「できるよ」

「やったー! じゃあ俺のチーム!」

その後ろでもう一人の少年が小声で「よろしくお願いします……」と頭を下げ、更に奥からもう一人の男の子が眼鏡の奥からじっと俺を見上げて、ぽつりと呟いた。

「……駿さん、って呼んでいい?」

「ああ、いいよ。よろしくね」

その瞬間、男の子の頬がほんのり赤くなった。子供たちはもう俺の周りに群がって、肩を叩いたり、エプロンの紐を引っ張ったり。

所長さんが苦笑いしながら言った。

「あら、すっかり人気者ね」

俺は照れくさくて頭を掻きながら、子供たちを見下ろした。

(……なんか、悪くないな)

最初は戸惑った。子供たちのエネルギーが爆発してる。走り回る子、泣く子、喧嘩する子。

でも、だんだん慣れてくる。

俺の役割はあくまで「見守る」こと。子供達の様子を見逃さないようにし確実に一人ひとりの顔と名前を覚えていく。

そんな中、三人の男の子が特に目立つようになった。

松田広斗、伊織武、橘透。

みんな小学三年生くらい。広斗はリーダー格で、黒髪を短く切った元気な子で、武は眼鏡をかけて本好きで、どこか大人びた影がある。

透は少し内気だけど笑顔が可愛い。

三人はいつも一緒にいて、俺の周りをう従うようにうろちょろする。

「ねえ、篠崎兄さんって! 警察の人?」

初対面で広斗が聞いてきた。父さんの影響か、俺の雰囲気がそう見えたらしい。

「いや、違うよ」

「へえー。そうなんだ!それじゃあさ、鬼ごっこしよう! お兄さんが鬼!」

武と透が賛成し、庭に連れ出される。俺は仕方なく鬼役をする砂場を駆け回り、ブランコの下をくぐり抜ける。

子供たちの笑い声が響く。汗だくになりながら、捕まえるたび「やったー!」と喜ぶ顔を見てるとなんか楽しい。

休憩時間、宿題コーナーで武が俺に近づいてきた。

「お兄さん、算数教えて。ここの問題がわかんないだ」

ノートを見せられる。簡単な足し算引き算。俺は小学生の頃を思い出しながら、ゆっくり説明した。

「ほら、りんごが五つあって、三つ食べたら……」

「二つ残る! わかった!」

武の目が輝き一生懸命問題を解いている隣で透が絵を描いてる。

岬の灯台のスケッチ。意外と上手い。

「君、絵上手いね」

俺がそう言うと透が照れくさそうにする。

広斗は外でサッカーボール蹴り、俺を誘う。

「お兄さん、シュート止めてみて!」

俺はゴールキーパー役を任された。

広斗のキックは意外と強く、俺は転がりながら止めると子供たちの歓声が響いた。

でも、武だけが少し離れた場所でぼんやりと空を見上げていることがあった。

鬼ごっこが終わってみんなが水を飲んでいる時も、グラウンドの隅で膝を抱えて座っている。

広斗が「おい武、来いよ!」と呼んでも、小さく首を振るだけだ。

夕方近く、お迎えの時間が近づくと、武の母親がやってきた。まだ三十代くらいの、華奢な女性だった。

髪を短くして、スーツの上にカーディガンを羽織っている。武を見つけると、遠慮がちに微笑んで手を振った。

「お待たせ、武……今日もお利口さんだった?」

武は無言で母親の横に並ぶ。母親は俺に軽く会釈して、

「いつもありがとうございます。武がご迷惑かけてなければいいんですけど……」

「いえ、武君、すごくいい子ですよ。宿題もちゃんとやってくれました」

母親は少し驚いたように目を見開いて、それから困ったような笑みを浮かべ靴を履いている武の姿を見ながら言った。

「そう……それはよかった。実は、私、母親らしくできなくて。武も私に遠慮してるみたいで、家でもあんまり話してくれないんです」

声が小さくなる。

「血が繋がってないから、って自分から言ってくるんですよ。私が再婚した時、まだ五歳だったのに……私がもっとちゃんとできてれば、こんなぎくしゃくしなかったのかなって」

最後の言葉は、ほとんど独り言だった。武はまだ靴を履き替えていて、聞こえていないようだった。

でも俺には、武が母親の背中をちらちら見ているのがわかった。触れたいけど触れられない、距離がそこにある。

母親はすぐに笑顔を作り直して、

「すみません、変なこと言っちゃって。じゃあ、武、行こうか」

武は小さく頷いて、母親の後ろをついて歩き始めた。振り返って俺に手を振る時だけ、いつもの明るい笑顔に戻った。

「明日も来るよね、お兄さん?」

「ああ、約束だ」

親子が坂を下りていく背中を見送りながら、俺は少し胸が痛んだ。

施設を出て、坂を下りる道。潮風が頰を撫でる。雪ちゃんの顔が浮かぶ。

今度のデートの時に話すネタが増えた。

家に帰ると、父さんが珍しく早く帰宅していた。

夕食の準備を手伝いながら、今日のことを話す。

「学童? いいな。お前も昔は学童行ってたもんな…」

父さんが笑うと俺は頷く。

広斗、武、透の顔が頭に残ってる。次に会う日が楽しみだ。

夕食を食べ、風呂を済ませて。

ベッドで目を閉じる。子供たちの声が耳に残る。武の、母親の、言葉が少し重く胸に残る。

「このバイト、ただの短期じゃなくなるかもな」

岬の夜空に、星が一つ増えた気がした。