RECORD
Eno.458 烏丸_椿の記録
沙羅非-Ep.8.0:夜神楽
契約の終了からふた月以上が過ぎた。
それでも、まだこの場所には。北摩には。滞在する理由がある。
滞在期間がまだ終了していないというのもある。
交友関係が理由でもある。学校も、アルバイトも……裏世界での仕事も、立派な理由である。
(……)
(だいぶ、空が平面的になってきた)
春の空はとうに過ぎ、夏の空もついこの間に終わりを迎えて。
今は……秋の空が、冬の空に変わるさまを眺めて。
瞳には、冷めた空の藍色と、霞んだ雲の灰色が反射していて。
……。
理由が増えすぎたとは、思っている。
期間は始めから決まっていたというのに、それでも名残惜しくはある。
後はただ帰るだけ。
後始末を終えて、それで終わり。
この平和な世界のことを。
この場所で出来た何もかものことを忘れて、ただ去るのみ。
(……果たすべき、役割がある)
(昔みたいに、何もかも、置き去りにするわけには、いかない)
戻らなければならない。
あの世界に。
帰らなければならない。
友人と共に。
在るべき処に。
帰るべき家に。
少し遅くなった。
相変わらず喫茶善生は隠れた人気店ではあるが、今日に限っては少しばかり忙しかった。
しかし代わりに、"まかない"としてミートボールスパゲッティを頂いた。
ビニール袋と、袋の中のおりが擦れる音を鳴らしながら、エントランスホールを歩く。
エレベーターの昇降の音。
昇降音が止み、扉が開く音。
廊下に出る。
帰るべき家。部屋の方へと歩き出す。
「……」
玄関扉が開いている。
部屋の中からの声が聞こえる。
「っ」
訓練による反射である。
手を空にする。当然ビニール袋は落ちる。
駆けて、構えつつ。覗き見る。
「──」
視線の先には、"部隊"の人間。
彼ら、彼女らは私の方を見て、焦燥した様子で口を開く。
まかないのことも忘れたままに。
靴のまま、部屋に踏み入る。
玄関マットについた靴の跡を上書きして。
受傷者の様子を、顔を、傷を見る。
「よーちゃんっ」
目は開いていない。
しかし、呼吸は確かにある。体温も下がっていない。
しかし……意識はあっても、返事をする余裕が無いのだろう。
「……」
「なんが、あったと」
部隊の人間に、問いを投げる。
心当たりは既にあるが、確証を得るために。
向けるべき視線を。怒りを。決するために。
「およそ五分前、生堀さんから不審な物音の報告がありました」
「連絡を受け、神野々さんが外部より周辺を偵察」
「ベランダと廊下に不審者が発見され、監視を始めようとしたところ、不審者が住居内に侵入」
「一名は神野々さんが無力化しましたが、もう一名は生堀さんと接触。揉みあいになり」
「……その際。犯人が携帯していたアイスピックで、腹部を刺されたと思われます」
遠くから聞こえ始めるサイレン。
おそらくは、現地警察には既に通報済みなのだろう。
「烏丸さん」
「ん」
「……このことは決して、警察には言わないでください」
担当者は、一枚の紙切れを渡す。
紙切れには、ある文言。
それを一見して、直ちに理解し。
それを、ぐしゃりとポケットに突っ込み。立ち上がる。
「情報助かった。うちはもう行く」
「お願いします。烏丸さんの靴の痕跡は消去します」
「刀もすでに、所定の場所へ移動済みです。部隊も直ちに行動します」
「わかった」
「……よーちゃんのこと、絶対助けて」
「任せてください」
警察の到着を待たず、彼女は駆ける。
途中。落としてしまっていたスパゲッティは忘れずに拾って。
先ほどまでは何とも思わなかったエレベーターの到着を。昇降機の移動を。扉が開くまでの時間を。
長く、長く、長く感じながら。
扉が開いた瞬間に、再び、駆ける。
エントランスホールを抜け。
駐車場を抜け。
表ではなく、人目につかない裏路地へ走り。
小道を抜け。
狭所を潜り。
そして……。
「っ、はあ……はあ」
「……っ」
息を、整えて。
「……ふ、う」
冷静に。
冷たい空気を取り込んで。頭を冷やして。
「──」
(正当な理由は無い)
(あるのはただ、うちの恨みだけ)
『術の使用は、なるべく控えてくださいね』
(術を使わず、裏の規則の範囲内で)
(……いや。無理やがね。周到な相手じゃ、手加減してどうにかなるわけなか)
(ならば。正当性を得るためには)
短く圧縮された思考。
時間がどれだけあるかわからずとも、彼女は結論を素早く出し。
「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」
己を奮い立たせるように、故事成語をもって自らに言い聞かせ。
「よしっ」
意気の言葉を吐き。
裏世界へ、踏み入る。
それでも、まだこの場所には。北摩には。滞在する理由がある。
滞在期間がまだ終了していないというのもある。
交友関係が理由でもある。学校も、アルバイトも……裏世界での仕事も、立派な理由である。
(……)
(だいぶ、空が平面的になってきた)
春の空はとうに過ぎ、夏の空もついこの間に終わりを迎えて。
今は……秋の空が、冬の空に変わるさまを眺めて。
瞳には、冷めた空の藍色と、霞んだ雲の灰色が反射していて。
……。
理由が増えすぎたとは、思っている。
期間は始めから決まっていたというのに、それでも名残惜しくはある。
後はただ帰るだけ。
後始末を終えて、それで終わり。
この平和な世界のことを。
この場所で出来た何もかものことを忘れて、ただ去るのみ。
(……果たすべき、役割がある)
(昔みたいに、何もかも、置き去りにするわけには、いかない)
戻らなければならない。
あの世界に。
帰らなければならない。
友人と共に。
在るべき処に。
帰るべき家に。
少し遅くなった。
相変わらず喫茶善生は隠れた人気店ではあるが、今日に限っては少しばかり忙しかった。
しかし代わりに、"まかない"としてミートボールスパゲッティを頂いた。
ビニール袋と、袋の中のおりが擦れる音を鳴らしながら、エントランスホールを歩く。
エレベーターの昇降の音。
昇降音が止み、扉が開く音。
廊下に出る。
帰るべき家。部屋の方へと歩き出す。
「……」
玄関扉が開いている。
部屋の中からの声が聞こえる。
「っ」
訓練による反射である。
手を空にする。当然ビニール袋は落ちる。
駆けて、構えつつ。覗き見る。
「──」
視線の先には、"部隊"の人間。
彼ら、彼女らは私の方を見て、焦燥した様子で口を開く。
まかないのことも忘れたままに。
靴のまま、部屋に踏み入る。
玄関マットについた靴の跡を上書きして。
受傷者の様子を、顔を、傷を見る。
「よーちゃんっ」
目は開いていない。
しかし、呼吸は確かにある。体温も下がっていない。
しかし……意識はあっても、返事をする余裕が無いのだろう。
「……」
「なんが、あったと」
部隊の人間に、問いを投げる。
心当たりは既にあるが、確証を得るために。
向けるべき視線を。怒りを。決するために。
「およそ五分前、生堀さんから不審な物音の報告がありました」
「連絡を受け、神野々さんが外部より周辺を偵察」
「ベランダと廊下に不審者が発見され、監視を始めようとしたところ、不審者が住居内に侵入」
「一名は神野々さんが無力化しましたが、もう一名は生堀さんと接触。揉みあいになり」
「……その際。犯人が携帯していたアイスピックで、腹部を刺されたと思われます」
遠くから聞こえ始めるサイレン。
おそらくは、現地警察には既に通報済みなのだろう。
「烏丸さん」
「ん」
「……このことは決して、警察には言わないでください」
担当者は、一枚の紙切れを渡す。
紙切れには、ある文言。
それを一見して、直ちに理解し。
それを、ぐしゃりとポケットに突っ込み。立ち上がる。
「情報助かった。うちはもう行く」
「お願いします。烏丸さんの靴の痕跡は消去します」
「刀もすでに、所定の場所へ移動済みです。部隊も直ちに行動します」
「わかった」
「……よーちゃんのこと、絶対助けて」
「任せてください」
警察の到着を待たず、彼女は駆ける。
途中。落としてしまっていたスパゲッティは忘れずに拾って。
先ほどまでは何とも思わなかったエレベーターの到着を。昇降機の移動を。扉が開くまでの時間を。
長く、長く、長く感じながら。
扉が開いた瞬間に、再び、駆ける。
エントランスホールを抜け。
駐車場を抜け。
表ではなく、人目につかない裏路地へ走り。
小道を抜け。
狭所を潜り。
そして……。
「っ、はあ……はあ」
「……っ」
息を、整えて。
「……ふ、う」
冷静に。
冷たい空気を取り込んで。頭を冷やして。
「──」
(正当な理由は無い)
(あるのはただ、うちの恨みだけ)
『術の使用は、なるべく控えてくださいね』
(術を使わず、裏の規則の範囲内で)
(……いや。無理やがね。周到な相手じゃ、手加減してどうにかなるわけなか)
(ならば。正当性を得るためには)
短く圧縮された思考。
時間がどれだけあるかわからずとも、彼女は結論を素早く出し。
「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」
己を奮い立たせるように、故事成語をもって自らに言い聞かせ。
「よしっ」
意気の言葉を吐き。
裏世界へ、踏み入る。