RECORD
Eno.1461 篠崎 駿の記録
Memento Mori(修正版)
朝、まだ薄暗い部屋で目が覚めた。
カーテンの隙間から差す光が、床に落ちた昨日の服をぼんやり照らしている。
俺は布団を跳ね除けて立ち上がった。
今日は、俺の中学時代の友人──友近 秋の命日だ。
洗面所で顔を洗う。水が冷たくて、目が覚める。鏡の中の自分は、ひどく疲れた顔をしていた。頬がこけ、目の下に隈ができている。
クローゼットから黒いシャツを出した。葬式のときに着たやつだ。
まだ匂いが残っている気がして、一度袖を通してから、結局白いシャツに変えた。秋は白が好きだった。
冷蔵庫からペットボトルの水だけ取って、玄関へ向かう。
靴を履こうとして、ふと足を止めた。
下駄箱の上に、あのとき秋がくれた手紙が置いてある。もう黄ばんだ封筒。開けていない。開けるのが怖かった。
今日は、持っていこう。
封筒をポケットに滑り込ませ、ドアを開ける。
外はまだ冷え込んでいて、吐く息が白い。自転車のカゴに、花束をそっと置いた。
白い菊と、秋が好きだったオレンジのカーネーション。
駅まで十分。電車に揺られること三十分。降りた駅は、もう何度も来た道だ。
秋の墓は、山の裏手の小さな共同墓地にあった。
俺は自転車のブレーキをかけ、砂利道にタイヤを滑らせながら止まる。
門をくぐると、すぐにそれが見えた。
友近秋 享年十六
墓石には、誰かが置いたらしい白い菊が半分枯れていた。
俺は持ってきた新しい花束──秋が好きだったオレンジのカーネーション──をそっと差し替える。
「……よお、秋。久しぶりだな」
声をかけてから、自分でも苦笑いした。
中学を卒業してから、もう五年。
俺は二十歳で、秋は永遠に十六歳のまま。
リュックを下ろし、地面に座り込む。
枯れ草がズボンに刺さるのも構わず、墓石に背中を預けた。
太陽がちょうど頭の上を通り過ぎようとしていて、墓石の影が俺の膝にぴたりと重なる。
秋は、いつも図書室の隅にいた。
中学二年の秋、秋はもう歩くのもやっとだった。
遺伝性の進行性筋疾患。医者は「高校にはなれない」と宣告していた。本人も、それを静かに受け止めていた。
ある日の放課後、秋は俺を呼び止めた。
「駿、ちょっと来て」
彼は屋上のフェンス際まで行った。夕陽が、病室の消毒液の匂いみたいに薄く広がっている。
「これ、あげる」
差し出されたのは、手作りの絵本だった。表紙は厚紙に水彩で描かれたワニと小鳥。タイトルはなかった。
「読んでみて」
俺はページをめくった。
──ある森に餌を取るのが苦手なワニがいた。
森のみんなは笑った。「お前は役立たずだ」と。
でもそんなワニにも友達が出来た。
それは飛ぶのが苦手な小鳥だった。
小鳥はワニを目印に毎日飛ぶ練習をした。
ワニはそれがただ嬉しいかった。
こんな自分にも友達が出来たのがすごく嬉しいかった。
二人はそれから仲良しになり小鳥はワニの上で歌ったりして楽しく過ごしていた。
ワニは獲物を取れずほとんど食べ物を口にしてない日が続いた。
そして、ある日ワニは空腹で震えていた。
そして、口の中で眠っていた小鳥を、反射で飲み込んでしまった。
ワニは慌てて吐き出したが小鳥は既に息絶えていた。
小鳥はもうこの世にはいなかった。
ワニは悲しくて悔しくて泣いた。何日も何日も涙が溢れた。
そして、ワニは自分の流した涙に溺れて死んだ。
でも、ワニの流した涙は湖となり周りには木が生い茂り美味しい実をつけた。
森の動物たちはそこに集まるようになった。
水を飲み、泳ぎ、子供を遊ばせ──
でも、誰も、湖がワニの涙だと知らない。
ワニの名前も、知らない。
ワニが生きた意味はワニにはない。
だけど動物たちには、ワニが生きた意味がある。
たとえそれを誰も知らないとしても──
俺はそれを読み終えると自然と涙が出てきた。
そして、秋は静かに言った。
「生きてる理由ってさ、生きてるうちは分からないんだよ」
「死んでから、誰かが生きてる意味を見つけてくれるかもしれない」
「それでいいんだ」
俺は何も言えなかった。ただ、絵本を抱きしめた。
それから半年後、秋は死んだ。十六歳の春だった。
──そして今。
俺は、墓の前に立っている。
風が吹く。冬の風だ。
俺は膝をついて、墓石に額をつけた。
「……秋」
声が震える。
「俺、ずっと分からなかった。生きてる意味なんて、どこにもないって思ってた」
鞄から、あの絵本を取り出す。表紙はもう色褪せている。
「でもさ」
ページを開く。ワニが泣いているところ。
「俺、最近やっと分かったよ」
湖のページに指を這わせる。
「生きる価値って、自分の中になくてもいいんだ」
墓石が、冷たい。
「誰かにとっての支えになる…それで十分なんだ」
風がまた吹いた。今度は少し温かい。
「俺は……俺は、みんなにとっての湖になりたい」
涙が落ちる。墓石に、小さな染みを作る。
「だから、もう逃げない」
立ち上がる。
空は高く、美しい蒼穹だった。
「ありがとう、秋。お前がくれた湖で、俺は今、泳いでる」
俺は絵本を胸に抱いて、墓前で深く頭を下げた。
帰り道、夕陽が背中を押してくれる。
湖は、確かにここにある。
誰にも知られなくても、誰かの喉を潤しても。
それで、いい。
秋、お前は今も、俺の中で生き続けている。
そして俺は、みんなのおかげで生きている。
それだけで、十分だった。
カーテンの隙間から差す光が、床に落ちた昨日の服をぼんやり照らしている。
俺は布団を跳ね除けて立ち上がった。
今日は、俺の中学時代の友人──友近 秋の命日だ。
洗面所で顔を洗う。水が冷たくて、目が覚める。鏡の中の自分は、ひどく疲れた顔をしていた。頬がこけ、目の下に隈ができている。
クローゼットから黒いシャツを出した。葬式のときに着たやつだ。
まだ匂いが残っている気がして、一度袖を通してから、結局白いシャツに変えた。秋は白が好きだった。
冷蔵庫からペットボトルの水だけ取って、玄関へ向かう。
靴を履こうとして、ふと足を止めた。
下駄箱の上に、あのとき秋がくれた手紙が置いてある。もう黄ばんだ封筒。開けていない。開けるのが怖かった。
今日は、持っていこう。
封筒をポケットに滑り込ませ、ドアを開ける。
外はまだ冷え込んでいて、吐く息が白い。自転車のカゴに、花束をそっと置いた。
白い菊と、秋が好きだったオレンジのカーネーション。
駅まで十分。電車に揺られること三十分。降りた駅は、もう何度も来た道だ。
秋の墓は、山の裏手の小さな共同墓地にあった。
俺は自転車のブレーキをかけ、砂利道にタイヤを滑らせながら止まる。
門をくぐると、すぐにそれが見えた。
友近秋 享年十六
墓石には、誰かが置いたらしい白い菊が半分枯れていた。
俺は持ってきた新しい花束──秋が好きだったオレンジのカーネーション──をそっと差し替える。
「……よお、秋。久しぶりだな」
声をかけてから、自分でも苦笑いした。
中学を卒業してから、もう五年。
俺は二十歳で、秋は永遠に十六歳のまま。
リュックを下ろし、地面に座り込む。
枯れ草がズボンに刺さるのも構わず、墓石に背中を預けた。
太陽がちょうど頭の上を通り過ぎようとしていて、墓石の影が俺の膝にぴたりと重なる。
秋は、いつも図書室の隅にいた。
中学二年の秋、秋はもう歩くのもやっとだった。
遺伝性の進行性筋疾患。医者は「高校にはなれない」と宣告していた。本人も、それを静かに受け止めていた。
ある日の放課後、秋は俺を呼び止めた。
「駿、ちょっと来て」
彼は屋上のフェンス際まで行った。夕陽が、病室の消毒液の匂いみたいに薄く広がっている。
「これ、あげる」
差し出されたのは、手作りの絵本だった。表紙は厚紙に水彩で描かれたワニと小鳥。タイトルはなかった。
「読んでみて」
俺はページをめくった。
──ある森に餌を取るのが苦手なワニがいた。
森のみんなは笑った。「お前は役立たずだ」と。
でもそんなワニにも友達が出来た。
それは飛ぶのが苦手な小鳥だった。
小鳥はワニを目印に毎日飛ぶ練習をした。
ワニはそれがただ嬉しいかった。
こんな自分にも友達が出来たのがすごく嬉しいかった。
二人はそれから仲良しになり小鳥はワニの上で歌ったりして楽しく過ごしていた。
ワニは獲物を取れずほとんど食べ物を口にしてない日が続いた。
そして、ある日ワニは空腹で震えていた。
そして、口の中で眠っていた小鳥を、反射で飲み込んでしまった。
ワニは慌てて吐き出したが小鳥は既に息絶えていた。
小鳥はもうこの世にはいなかった。
ワニは悲しくて悔しくて泣いた。何日も何日も涙が溢れた。
そして、ワニは自分の流した涙に溺れて死んだ。
でも、ワニの流した涙は湖となり周りには木が生い茂り美味しい実をつけた。
森の動物たちはそこに集まるようになった。
水を飲み、泳ぎ、子供を遊ばせ──
でも、誰も、湖がワニの涙だと知らない。
ワニの名前も、知らない。
ワニが生きた意味はワニにはない。
だけど動物たちには、ワニが生きた意味がある。
たとえそれを誰も知らないとしても──
俺はそれを読み終えると自然と涙が出てきた。
そして、秋は静かに言った。
「生きてる理由ってさ、生きてるうちは分からないんだよ」
「死んでから、誰かが生きてる意味を見つけてくれるかもしれない」
「それでいいんだ」
俺は何も言えなかった。ただ、絵本を抱きしめた。
それから半年後、秋は死んだ。十六歳の春だった。
──そして今。
俺は、墓の前に立っている。
風が吹く。冬の風だ。
俺は膝をついて、墓石に額をつけた。
「……秋」
声が震える。
「俺、ずっと分からなかった。生きてる意味なんて、どこにもないって思ってた」
鞄から、あの絵本を取り出す。表紙はもう色褪せている。
「でもさ」
ページを開く。ワニが泣いているところ。
「俺、最近やっと分かったよ」
湖のページに指を這わせる。
「生きる価値って、自分の中になくてもいいんだ」
墓石が、冷たい。
「誰かにとっての支えになる…それで十分なんだ」
風がまた吹いた。今度は少し温かい。
「俺は……俺は、みんなにとっての湖になりたい」
涙が落ちる。墓石に、小さな染みを作る。
「だから、もう逃げない」
立ち上がる。
空は高く、美しい蒼穹だった。
「ありがとう、秋。お前がくれた湖で、俺は今、泳いでる」
俺は絵本を胸に抱いて、墓前で深く頭を下げた。
帰り道、夕陽が背中を押してくれる。
湖は、確かにここにある。
誰にも知られなくても、誰かの喉を潤しても。
それで、いい。
秋、お前は今も、俺の中で生き続けている。
そして俺は、みんなのおかげで生きている。
それだけで、十分だった。