RECORD

Eno.1461 篠崎 駿の記録

Mother and Child

『龍華』を出たのは夜の八時過ぎだった。
駅前のネオンがまだ派手で、酔いが少し残る足取りで裏道に入る。住宅街へ抜ける近道。街灯がまばらで、十一月の夜風がコートの襟を立てさせる。

角を曲がったところで、小さな声が聞こえた。

「……帰りたくない」

公園のブランコの前。街灯の下に、三つの影があった。

広斗と透が、地面に座り込んでいる。
そしてブランコに座ったまま動かない武が、膝を抱えて俯いている。

俺は足を止めた。

「……お前ら、まだこんなとこにいたのか」

三人がびくっと顔を上げる。

「篠崎兄さん……!?」

広斗が立ち上がり、透が慌てて武の肩に手を置く。

「どうしたんだよ。もう遅いぞ」

広斗が小声で答えた。

「武が……帰りたくないって」

透が続ける。

「さっきまで駄菓子食べてたのに、急に『今日は帰りたくない』って……」

武はブランコの鎖を握りしめたまま、顔を上げない。眼鏡の奥の瞳が、街灯に濡れて光っている。

俺はゆっくり近づいて、ブランコの隣に腰を下ろした。

「武、どうした?」

沈黙が続く。風がブランコの鎖を鳴らす。

やがて、震える声が零れた。

「……お母さんに、会いたくない」

広斗と透が顔を見合わせる。

俺は黙って待つ。

「お母さん……最近、俺のこと見る目が怖いんだ」

武の指が、鎖を強く握る。

「俺が帰ると、『今日も遅かったね』って笑うけど……その笑顔が、すごく疲れてて。俺が何か悪いことしたみたいに感じる」

涙がぽたりと膝に落ちた。

「俺、帰ったらまた『ごめんね、武』って言われるのが怖い。お母さん、俺のせいで泣いてる気がして……俺がいない方が、お母さん楽なんじゃないかって」

広斗が口を開きかけるが、俺は軽く手を上げて制した。

「武」

俺は静かに言った。

「お前が帰らないと、お母さんはもっと泣くぞ」

武が顔を上げる。

「俺も昔、母さんがいなくなった後、父さんが帰ってくるのが遅い日が続いたとき、『俺がいない方が父さん楽なんじゃないか』って思ったことあった」

風が冷たい。

「でもな、ある日父さんが酔っ払って帰ってきて、俺の部屋の前で立ったまま『駿……帰ってきてくれて、ありがとう』って泣いたんだ。あの時初めて分かった。俺がいない方が楽なんじゃなくて、いるから頑張れるんだって」

武の肩が小さく震える。

「俺……お母さんに、迷惑かけてるだけなんじゃないかって」

「違う」

俺ははっきりと言った。

「お前が帰るから、お母さんは明日も頑張れるんだよ」

透がそっと武の背中を撫でる。

「僕も……お父さん、帰ってこない日多いけど、僕が『おかえり』って言うと、すごく嬉しそうな顔するよ」

広斗が少し離れたところで呟いた。

「俺も、母ちゃんに怒鳴られた次の日、『ごめんね』って言ったら、ぎゅって抱きしめられた」

武が眼鏡を外して、袖で目を拭った。

「……本当に?」

「ああ」

俺は立ち上がって、武の前にしゃがんだ。

「帰ろう、武。お母さん、待ってるよ」

武はしばらく俯いたままだった。

やがて、ゆっくりとブランコから降りる。

「……うん」

広斗と透がほっとした顔で立ち上がる。

四人で公園を出た。街灯が長く影を落とす。

武の家は俺のアパートから二十分ほどの距離だった。

門の前まで来ると、玄関の明かりが漏れている。

「……お母さん、起きてる」

武の声が震える。

俺は武の背中を軽く押した。

「行け」

武は一歩踏み出し、振り返った。

「篠崎兄さん……ありがとう」

「いいよ。また明日、学童でな」

武が門を開ける。玄関のドアが開いて、母親の声が聞こえた。

「武……!?遅かったから心配したよ……」

「ごめん……」

母親が駆け寄って、武を強く抱きしめる。

「……帰ってきてくれて、ありがとう」

その言葉に、武の肩が大きく震えた。

俺は静かに踵を返した。

広斗と透が、俺の両側に並ぶ。

「篠崎兄さん……やっぱりヒーローだね」

広斗が呟く。

透が小さく笑った。

「僕、明日からもっとお父さんに話しかけてみる」

風が優しく頰を撫でた。

家に帰る道すがら、空を見上げると、雲の切れ間に星が一つ、瞬いていた。

(優……見ててくれるか)

きっと、あの星は、武の帰りを待っていた母親の涙の色だ。

俺はコートのポケットに手を突っ込んで、ゆっくりと歩き出した。

夜はまだ冷たいけど、胸の奥は、少しだけ温かかった。