RECORD

Eno.1461 篠崎 駿の記録

北海道旅行〈一日目〉『Three Moment』

今年の冬も相変わらず容赦なかった。雪が降りしき、吐く息が白く凍る。

俺たち五人は、陽介の「せっかくだし旅行に行こうぜ!」という一言で強引に決まった二泊三日の北海道旅行にやってきた。

空港を出た瞬間、吹雪が顔面を叩きつけてきた。

レンタカーに乗り込んで、窓の外は真っ白。

ワイパーが全力で動いても視界は十メートル先までしか効かない。

「マジで死ぬかと思った……」

陽介がハンドルを握りながら苦笑いする。

雪ちゃんは助手席で「でもテンション上がるー!」とスマホで写真撮りまくり。

彰は後部座席で「……寒い……死ぬ……」と震えながら俺のコートに潜り込んでくる。

イドロだけが窓に顔をくっつけて、
「降雪量、毎時八センチ……これは美しい災害でありますね」とか呟いてる。

そして、ようやくたどり着いたのがこの小さな温泉街だった。

宿に行く前に、俺たちは車を降りて、雪に埋もれた街を少しだけ歩いてみることにした。

夕方四時過ぎだというのに、もう真っ暗。

街灯だけがオレンジに雪を照らし、商店街の軒先には立派なつららが下がっている。

足元は新雪が三十センチ以上積もっていて、一歩ごとにズボッと膝まで沈む。

「うわっ、冷てっ!」

陽介が先頭で雪を蹴り上げながら叫ぶ。

雪ちゃんが突然立ち止まって、空を見上げた。

「ねぇ、見て見て!雪、星みたいにキラキラしてる!」

確かに、街灯に当たって降ってくる雪が、まるで光の粒みたいに輝いている。

彰が「……綺麗……」と小さく呟いて、俺の腕にぎゅっとしがみついた。

温かい。

俺はふと、イドロを見た。

彼女は雪を両手で受け止めて、じっと見つめている。

「……これは」

珍しく、言葉が途切れた。

「どうした?」

イドロはゆっくりと顔を上げて、

「データでは知っていましたが……実際に触ると、温度差が……胸の奥が、ざわざわします」

雪ちゃんがニコニコしながら近づいて、
「それって“感動”ってやつだよ、イドロ」

「……感動、でありますか」

イドロはもう一度、両手に乗った雪を見つめて、そっと息を吹きかけた。

雪がふわりと舞って消えていく。

「……消えてしまうのに、確かにここにいた。それが、とても不思議であります」

陽介が後ろから雪玉を作って、

「おいイドロ、感傷に浸ってるとこうなるぞ!」

バシッと背中にぶつけた。

「……陽介様、現在気温マイナス八度。雪玉の速度は時速……」

「うわっ、ごめんごめん!冗談だって!」

俺たちは笑いながら、商店街を進んだ。

閉まってる店が多い中、一軒だけ明かりが灯ってる土産物店があった。

ガラス戸を開けると、あったかい空気と「いらっしゃいませー!」というおばちゃんの声。

店内は狭くて、干物とか熊の木彫りとか、昭和の香りがする民芸品がぎっしり。

雪ちゃんがすぐに「かわいいー!」と雪だるまのキーホルダーを手に取る。

彰は「……これ、かっこいい」と、鬼の面を指差す。

俺は棚の奥にあった、古いガラス瓶のラムネを見つけた。

「懐かしいな、これ」

陽介が「俺も飲みたい!」と即買い。

レジでおばちゃんが「今日は大雪で、お客さんほとんど来てないのよ」と笑う。

「こんな日に来てくれてありがとね。若い子たちが来ると、街が明るくなるわ」

雪ちゃんが「私たち、これからあの奥の温泉宿に行くんです!」と指差すとお婆さん笑って言った。

「ああ、あの古い旅館ね。うちの旦那が子供の頃からあるのよ。いいとこ選んだねぇ」

外に出ると、雪はさらに強くなっていた。

でも、もう誰も寒いなんて言わなかった。

イドロが俺の隣を歩きながら、小さく呟いた。

「……この街も、雪に埋もれていくのに、まだ灯りがついている」

「ああ」

「消えそうで、消えない。それが……人の温かさというものでありますか?」

俺は少し驚いて、イドロを見た。

彼女は雪を見上げたまま、静かに続けた。

「雪様が作った私も、いつか消えてしまうかもしれない。でも……」

雪ちゃんが振り返って、ニコッと笑った。

「大丈夫だよ、イドロ。私がいるもん」

イドロは少しだけ、目を細めた。

「……はい。雪様がいる。だから、私はここにいられる」

街灯の下、俺たち五人の影が雪に長く伸びていた。

雪は降り続く。

でも、俺たちの足跡だけは、ちゃんと残っていた。

その足跡が、宿へと続いていく。

ようやく見えてきた、古びた木造三階建ての宿。

廊下がギシギシ鳴り、障子は黄ばみ、湯殿の天井は煤で黒光りしている。

でも、それが逆に心地よかった。

まるで時間が止まったような、懐かしい匂いがした。

「うわっ、マジで昭和!」

陽介が靴も脱がずに玄関を飛び込む。

古びた木造三階建ての宿は、廊下がギシギシ鳴り、障子は黄ばみ、湯殿の天井は煤で黒光りしている。

でも、それが逆に心地よかった。まるで時間が止まったような、懐かしい匂いがした。

「うわっ、マジで昭和って感じ!」

陽介が靴も脱がずに玄関を飛び込む。

雪ちゃんが「ちょっとー!靴脱いでってば!」と追いかけ、彰は「……虫、出ないよね?」と小声で俺の袖を掴んだ。

俺は苦笑いしながら「大丈夫だって」と肩を叩く。

イドロだけが興味深そうに柱の彫り物を眺め、「なるほどなーこれが日本の“わびさび”というものでありますね」と一人で感心していた。

部屋は十畳と六畳の続き間で、窓の外は真っ白な雪景色だけ。

まずは温泉に入ることにした。

男湯と女湯は壁一枚隔てただけ。声は丸聞こえで、むしろそれが面白かった。

男湯に入ると、湯気がもうもうと立ち込め、窓の外は雪がしんしんと降っている。

湯船は檜づくりで、湯の香りがふわりと鼻をくすぐる。

「うおおお、生き返るー!」

陽介が一番に湯船にドボンと飛び込んで、盛大に湯が跳ねた。

俺はゆっくり肩まで浸かりながら、思わずため息が漏れる。

「おい駿、背中流してやるよ」

陽介がニヤニヤしながらスポンジを手に近づいてくる。

「いや、自分でできるって」

「いいからいいから、親友だろ?」

仕方なく背中を預けると、陽介の手がピタリと止まった。

「……なあ、駿」

低い声だった。

「あれからさ、俺たち、ちゃんと向き合えてるかなって、時々思うんだよな」

湯船に沈みながら、俺は小さく笑った。

「向き合えてるよ。だって、こうしてまた五人で馬鹿やってるじゃん」

陽介は少し黙って、それから照れ臭そうに笑った。

「……そっか」

その笑顔が、昔よりずっと素直で、優しく見えた。

その時、壁越しに女湯から声が聞こえてきた。

「雪、背中流してあげるね」

彰の少し照れた声。

「えへへ、ありがとー!彰の指、細くて気持ちいい~」

雪ちゃんの甘えた声に、俺と陽介は顔を見合わせて吹き出した。

「イドロは?」と彰は聞く。

「私は自分で充分であります。しかし……せっかくなので、お願いしてもよろしいでしょうか」

イドロが珍しく弱気な声で言うと、
「はいはい、イドロもこっちおいで~」と雪が楽しそうに誘う音がした。

男湯は静かで、女湯はキャッキャと賑やか。

でも、壁一枚隔てて、同じ湯に浸かっていると思うと、妙に温かい気持ちになった。

陽介が急に立ち上がり、「おーい!そっちはどう?」と叫ぶ。

すると即座に雪ちゃんが「最高すぎて元気が出るー!!駿君も元気ー?」と返してきて、
俺は思わず「元気すぎるくらいー!」と叫び返す。

彰が「……恥ずかしいんだけど…」と小声で呟くのが聞こえて、みんなで大笑いした。

五人全員の声が混ざって、湯気の中で響いて、それが幸せだった。

温泉から上がると、みんな頬が赤くて、湯疲れと幸せそうな顔をしていた。

廊下を歩いていると、突然雪ちゃんが「ねぇねぇ、卓球台あったよね!?」と目をキラキラさせて振り返る。

「あったあった!地下の娯楽室!」と陽介が即答。

彰が「……私、疲れてるんだけど」と小声で呟いたけど、雪に袖を引っ張られて結局ついてきた。

娯楽室は薄暗くて、ちょっと湿った匂いがした。
卓球台は古くて、ネットが少し歪んでいる。

ラケットは木製で、重くて手に馴染む。

「彰と勝負ー!」

雪ちゃんがラケットを振り回しながら彰を対戦相手に指名。

彰はため息をつきながらも「負けないから」と静かにラケットを握った。

ゲーム開始。

最初は雪ちゃんが連取。

「やったー!彰ちゃん弱いー!」と雪が跳ね回る。

でも彰は黙ってサーブを変えていく。
だんだん動きが鋭くなって、雪の甘いボールを見逃さずスマッシュ。

「……え、ちょっと待って!?」

雪が慌てて後退するけど、もう遅い。

彰のスマッシュがバコーン!と決まるたびに、雪ちゃんの悲鳴が響く。

最終的に10対8で彰の勝ち。

雪ちゃんが「もう一回!もう一回だけ!」と駄々をこねるけど、彰は「次は明日ね」とラケットを置いて、珍しくちょっと得意げな笑顔を見せた。

その横で、俺は陽介とイドロと三人で、窓際の長椅子に座って外を眺めていた。

窓の外は雪が降りしきっていて、庭の灯籠に雪が積もり、ぼんやり灯りが滲んでいる。

「……綺麗でありますね」

イドロがぽつりと呟いた。

いつもは無表情に近いのに、今日は瞳が少しだけ柔らかくなっている気がした。

陽介が缶コーヒーを一口飲んで、
「なあイドロ、お前さ……雪って好き?」と唐突に聞いた。

イドロは少し考えて、静かに答える。

「データ上では単なる六角形の結晶の集合体であります。しかし……」

窓にそっと手を触れて。

「今、こうして見ていると……“綺麗”という感情が、確かに発生しています」

陽介が「ははっ」と笑った。

「それ、人間と同じじゃん」

「そうでありますか?」

「うん。俺も、ただの水の結晶だってわかってるけど……やっぱり綺麗だなって思うもん」

俺も口を挟む。

「雪ってさ、降ってる時は冷たくて邪魔だけど、積もると世界が静かになるよな」

イドロが小さく頷いた。

「……静か、でありますね」

「そうだろ?」

「はい……でも、今は」

イドロが俺たちをちらりと見て

「この部屋の中は、静かだけど……温かい。とても」

陽介がニヤリと笑って、イドロの肩を軽く叩いた。

「お前、だいぶ人間っぽくなってきたな」

「それは……褒め言葉でありますか?」

「もちろん」

イドロは少し目を伏せて

「……ありがとう、であります」 と、ほんの少しだけ、口元が緩んだ。

窓の外では雪が降り続き、卓球台の向こうでは雪ちゃんと彰が「もう一回だけ!」「もう疲れたってば!」と笑いながらじゃれ合っている。

俺たちは三人、黙ってそれを眺めていた。

冷たい雪と、
温かい部屋と、
五人の声と笑い声。

全部が混ざり合って、この夜は、いつまでも終わらなければいいと思った。

雪ちゃんがこっちを振り返って手を振ってきた。

「ねえ!三人ともこっち来てー!次はダブルスにしようよー!」

俺たちは顔を見合わせて、立ち上がった。

雪はまだ降りている。

でも、もう寒くなんてなかった。

その後、みんなで部屋に戻ると、雪が突然立ち止まった。

「あ、そうだ!イドロ、メンテナンスまだだったよね!」

イドロがぴたりと足を止めて、こくりと頷く。

「はい。本日分の軽微メンテナンスは未実施であります」

「じゃあ今やっておこう!みんなも見学していいよ~」

雪は嬉しそうにイドロの手を引いて、畳の上に座布団を二枚重ねる。

イドロは素直に正座して、スカートの裾を丁寧に直した。

「では、お願いします。雪様」

雪は白いタオルを肩にかけて、まるで美容師みたいに後ろに立つ。

「今日は軽めだから、首と肩と背中の関節周りだけね」

「了解であります」

雪がまず、イドロの首の後ろにある小さな蓋をカチッと開ける。

中からほんのり青白い光が漏れた。

「わっ、冷たくない?」と彰が覗き込む。

「平気平気、イドロはいつもこんな感じだから」

雪は小さなドライバーでネジを二つ外すと、細いケーブルを抜き差ししながら、

「ここ、今日ちょっと動きが硬かったでしょ? 温泉で温まったからちょうどいいタイミング」

「はい。肩関節のトルクが0.7%低下しておりました」

「うんうん、わかった。じゃあちょっと調整するね」

雪は慣れた手つきで、関節部分に極小のスパナを当てて、微調整していく。

カチ、カチ、という小さな音がするたびに、イドロの肩がぴくっと動く。

「くすぐったい……であります」

「我慢してね~」

陽介が腕を組んで見ながら、ぼそっと。

「……お前、マジでメンテナンスされてるんだな」

「はい。雪様の手はとても優しいので、安心であります」

次に雪ちゃんはイドロの背中に手を回し、ドレスの背中のリボンを少し緩めて、背骨に沿ったパネルを開く。

「ここは冷却液の循環が少し滞ってたみたい。ほら、ちょっと青くなってる」

細いチューブに指を這わせて、軽く押すと、青い液体がさらさらと流れる音がした。

「うわ、なんかSFっぽい……」と俺が呟くと、雪が得意げに振り返る。

「これが詰まるとオーバーヒートしちゃうの」

イドロが目を閉じて、気持ちよさそうに。

「……雪様の指、温かくて……とても心地良いであります」

雪ちゃんが頰を赤くしながら、でも嬉しそうに、

「よしよし、今日はいっぱい動いたもんね」

最後に首の後ろのパネルを閉めて、蓋をカチッとロック。

「はい、おしまい!動作チェックしてみて?」

イドロが立ち上がって、くるっと一回転。
両手を上げて、肩を回したり、首を傾げたり。

「動作良好。関節トルク100%回復。冷却効率も最適値であります」

「やったー!」

雪ちゃんがぱっとイドロに抱きついた。

「いつも丁寧にメンテナンスしてくれて……感謝であります」

イドロが、ぎこちなく、でも確かに雪の背中に手を回す。

雪ちゃんが顔を上げて、にこっと笑う。

「イドロは私の最高傑作なんだから、ずっと大事にするよ」

その瞬間、部屋の中がなんだかすごく温かくなった。

陽介が照れ臭そうに鼻を掻いて、

「……ったく、親子みたいだな」

俺はただ、微笑みながら見ていた。

雪がイドロの頰にちゅっとキスして、

「はい、これで今日も完璧!明日もいっぱい遊ぼうね!」

イドロが、ほんの少しだけ頰を赤くして、

「……はい。雪様と、みんなと、ずっと一緒にいたい、であります」

雪ちゃんが振り返って、俺たちにウインク。

「ねえ、みんなも次はメンテナンスしてもらおうか?」

「遠慮しとく!!」と全員即答。

部屋に笑い声が響いた。

そして、宴会場代わりの広間にこたつを二つ並べ、缶ビール、日本酒、つまみが山盛り。

メインイベントの大富豪大会が始まった。

「ルールは革命あり、8切りあり、スペ3返しあり、都落ちなし!」

陽介がトランプをシャッフルしながら高らかに宣言。

雪ちゃんが「えー、都落ちなしは甘すぎー!」と文句を言うも、多数決で却下された。

一戦目の結果は俺は惨敗で最下位。

陽介が大富豪で「貧民の駿、ビール注げ!」とドヤ顔で罰ゲームを言い渡していく。

仕方なく注いでやると、雪ちゃんが「次は私が大富豪になるから見ててね♪」とウインクしてきた。

二戦目、彰が革命を連発して場をひっくり返し、また俺がいきなり大貧民。

「ちょっと待て、俺のジョーカー返したのお前だろ彰!」

「戦略だよ戦略」

そう言い放つ彰に、みんな爆笑。

三戦目、雪ちゃんが急に「私、駿君と同じチームがいい!」と言い出し、急遽ペア戦に

俺と雪ちゃん、陽介&彰、イドロは単独だったが本人は「単独でも問題ありません」と言いながら、必死でカードをガードしていて、それだけで笑える。

俺と雪ちゃんのペアは最強だった。

雪が耳元で「駿君、ここは8切り!」とか「今だよ、ババ押し付けちゃえ!」と小声で指示してくるから、完璧に連勝。

陽介が「こらー! イチャイチャすんなー!」と叫ぶけど、もう遅い。

最終的に俺たちが大富豪&副富豪で優勝。

罰ゲームは大貧民の陽介と彰に決定。

「王様だーれだ?」

王様は……雪ちゃん。

「王様の命令は1番と2番は……肩車して!」

「は!?」

「え!?」

俺と陽介が同時に叫ぶ。

「ほら、早く早く!」

雪ちゃんが手をパチパチ叩く。

仕方なく向き合って肩車を始める。

「……重いな、お前」

「うぉっと…!お前絶対落とすなよ!!フリじゃねぇからな!!?」

俺たちは顔を真っ赤にしながらも、なんだかんだ笑っていた。

その後もゲームは続きいていき、みんなで笑いあった。

気付けば深夜二時。

こたつでうとうとしながら、誰かが呟いた。

「……久しぶりに、こんなに馬鹿騒ぎしたな」

誰も答えなかったけど、みんな小さく頷いた。

陽介はこたつに突っ伏して、彰はソファで毛布をかぶって、イドロは正座したまま微妙に首を傾けてスリープモードに入っている。

俺はそっと立ち上がって、雪ちゃんの肩を軽く叩いた。

「……雪ちゃん、ちょっと玄関の方行かない?」

雪ちゃんは眠そうな目をこすりながらも、小さく頷いた。

「……うん」

二人は毛布を肩にかけて、静かに階段を上がる。

三階の物干しスペースは、昔の旅館らしく屋根裏部屋みたいになっていて、小さな窓が一つだけある。

外は雪が降り続いていて、窓から差し込む月明かりが畳を青白く照らしていた。

俺たちは並んで腰を下ろして、しばらく黙って雪を眺めていた。

「……ねえ、雪ちゃん」

俺は静かに切り出した。

「イドロって…どうしてその名前になったの?」

雪ちゃんは少し驚いたように瞬きして、それから小さく首を振った。

「彼女の名前…最初はね、IDOLだったの」

「IDOL……偶像、か」

「そう。研究所の正式なプロジェクト名も『IDOL-VII』だったし」

雪ちゃんは膝の上で指を絡めながら、遠い目をした。

「完璧な殲滅兵器……感情なんて必要ない、ただの“偶像”として作られた子だったから査察官も、技術者も、みんなそう呼んでた」

俺は黙って聞いていた。

「でも……」

雪ちゃんは息を吸って、

「人格AIを完成させた夜、私、勝手に名前を変えちゃったの」

「……変えた?」

「うん。IDOLの最後に、もう一文字……“O”を足して」

雪は恥ずかしそうに笑った。

「どうして、名前を変えたの?」

雪は窓に指で“IDOLO”と書いて、ゆっくりと答えた。

「“IDOL”は“偶像”……誰かの理想を押し付けられた、冷たい人形の名前」

「でも“IDOLO”は……」

「私の、たった一人の“オリジナル”」

雪ちゃんは俺をまっすぐ見て、静かに続けた。

「人格AIの最終行に署名するとき、私はイニシャルを埋め込んだの。それが“Original”の証だから」

「だから最後の“O”は……」

「うん。私が作った、誰にも真似できない、たった一人の子だって意味」

雪ちゃんは少し涙声になりながら、でも誇らしげに微笑んだ。

「だから私にとってイドロは妹でもあり、娘でもあり…いや、そんなんじゃ言い表せない存在」

俺は言葉を失って、ただ雪ちゃんを見つめていた。

雪ちゃんは小さく笑って、

「……しっかりと怒られたよ。上層部に。勝手に名前を変えるなんてって」

「でも変えなかったんだろ?」

「うん。私、初めて反抗した」

雪ちゃんは俺の肩に頭を預けて、囁くように言った。

「だって……私の大切な存在なんだもん。簡単に変えることなんてできないよ……」

俺はそっと雪ちゃんを抱き寄せた。

「……最高の名前だ」

雪ちゃんは俺の胸に顔を埋めて、震える声で呟いた。

「ありがとう……駿君」

小さな窓の外、雪は静かに降り続いていた。

でもここには、月明かりと、雪ちゃんの、たった一人の“オリジナル”への愛だけがあった。

雪ちゃんが小さく、でも確かに言った。

「イドロは…もう、兵器じゃないよ」

「ああ」

「私の……すごく大切な子なんだから」

俺は雪ちゃんの髪を撫でながら、静かに答えた。

「知ってる」

“IDOLO”という存在は、俺たちの大切な仲間として、確かに、ここに生まれたんだ。