RECORD

Eno.1461 篠崎 駿の記録

Mebius

部屋に一人残されると、またあのざわつきが戻ってくる。

どうしようもない苛立ちと、胸の奥で蠢く黒い塊。まるで心臓を掴まれるような、重苦しい圧迫感。

「……もういい加減、サッパリさせよう」

そう呟いて、俺はバスルームへ向かった。足取りが重く、まるで泥の中を歩いているようだ。

服を脱ぎ捨て、シャワーの蛇口を捻る。

熱めの湯が頭から降り注ぐと、少しだけ肩の力が抜けた──と思ったのに、すぐに胸の奥がざわつく。

目を閉じて、湯気の中で深く息を吐く。息が震え、肺が痛む。

髪を洗い、泡を流し──

その瞬間。

背後から、湿った吐息のような距離で、声がした。

「貴方はそれで満足なの?」

……っ!

体が硬直する。心臓が一瞬止まったかと思うほど、激しく鼓動が跳ね上がる。

振り返っても誰もいない。当然だ。シャワーの音しか聞こえない。

なのに、その声ははっきりと、耳の奥に直接響いてくる。まるでナイフのように鋭く、心を切り裂く。

柔らかくて、少し甘ったるくて、でもどこか冷たい。

如月 優死者の声。

昔、俺が一番近くで聞いていた、あの声色そのもの。彼女の笑顔が、瞼の裏に浮かんで、胸が締め付けられる。

「駿ってさ、本当に都合がいいよね」

幻聴は続ける。シャワーの水音に混じって、まるで彼女がすぐ後ろに立っているみたいに。息遣いが感じられるほど、近くて、リアルで、恐ろしい。

「私が苦しいんでる時に結局何もできなかったよね?」

心臓が締め付けられる。喉が乾き、息が詰まる。

違う。あれは──俺にはどうしようもなかった。あの状況じゃ誰も──

でも、罪悪感が波のように押し寄せる。彼女の最後の表情、助けを求める目。俺はただ、逃げただけだった。

「言い訳?」

声が笑う。優がよくした、ちょっと意地悪で、でも愛おしい笑い方。あの笑いが、今は嘲笑に変わっている。

「私を置いて逃げたのは、駿でしょ」

違う、違う、違う。

涙が込み上げてくる。シャワーの水に混じって、頰を伝う。

俺は慌ててシャワーを止めた。蛇口を強く捻りすぎて、手が痛む。指先が震え、力が抜けない。

水音が消えると、静寂が一気に押し寄せる。耳鳴りがするほどの静けさ。

耳を疑うような静けさの中で、また囁きが落ちてきた。

「……今度は、雪のことまで見捨てるつもり?」

息が止まる。世界が止まる。

「彼女、優しいよね。私みたいにわがまま言わないし、暗いところも怖がらないし」

「…………やめろ」

声に出して呟いた。自分の声が震えているのがわかる。喉が渇き、言葉が掠れる。

「駿はさ、もう二度と誰かを助けられないんだよ」

その言葉が、心の奥底に突き刺さる。痛みが広がり、息ができなくなる。

「──うるさいっ!」

思わず叫んで、壁を叩いた。

手の甲が赤く腫れる。痛みが現実を思い出させるのに、心の傷は深くなるばかり。

幻聴はそこで途切れた。

……いや、途切れたふりをしただけかもしれない。いつまた聞こえてくるか、恐怖が体を蝕む。

シャワーを再び開き、今度は冷水にした。

頭から氷のような水をかぶって、歯を食いしばる。

体が震える。寒さのせいか、恐怖のせいか、自分でもわからない。いや、両方だ。

「……満足なんか、できるわけないだろ」

小さく呟く。声が涙で濡れている。

俺は目を閉じたまま、冷たい水に打たれ続けた。体を罰するように、凍える水に耐える。

優の声はもう聞こえない。

でも、胸の奥に残った黒い染みは、決して消えなかった。むしろ、広がっていく。

冷たいシャワーを浴び終え、俺はタオルで体を拭きながらバスルームを出た。

髪から滴る水が、首筋を伝って背中を冷たくする。体が凍え、心が燃えるような矛盾。

体は震えが止まらないのに、心の奥は妙に熱く疼いていた。罪悪感が、炎のように燃え盛る。

ベッドに腰を下ろすと、シーツがまだ少し湿っている気がした。体が重く、沈み込む。

部屋の明かりは全部つけっぱなし。眩しすぎて目が痛いのに、暗くするなんて考えられない。暗闇が、俺を飲み込む怪物のように感じる。

ベットに倒れ込み天井を見上げる。

息が荒い。肺が焼けるように熱い。

「……はあ」

吐き出すように息を漏らして、俺は小さく呟いた。

「じゃあ教えてくれよ」

声は掠れて、ほとんど自分にしか聞こえない。喉が痛む。

「この深く根付いた狂気と罪悪感を……壊す方法ってやつを」

言葉の最後は、喉の奥で詰まった。涙が溢れ、膝に落ちる。

誰も答えない。

当然だ。優の声は、もう聞こえなくなっていた。

幻聴は俺を追い詰めるだけで、救いの手なんて差し伸べない。

ただ、嘲るように笑って、消えるだけ。残るのは、空虚と痛み。

天井の白い光が、網膜を焼くように刺さる。目が乾き、涙が止まらない。

目を閉じても、瞼の裏に暗闇が広がるのが怖くて、すぐに開ける。暗闇の中に、優の影が潜んでいる気がして。

「……壊せないなら、せめて麻痺させてくれよ」

今度は誰に言うでもなく、独り言のように。声が弱く、消え入りそう。

雪ちゃんの顔が浮かぶ。

それが、唯一の救いみたいに思えるのに──

同時に、恐ろしくなる。胸が凍るような恐怖。

また、誰かを失うかもしれない。

また、助けられなかったと、後悔するかもしれない。永遠に繰り返す悪夢。

優の最期の泣き声が、頭の奥でリピートされる。

その声が、助けを求めるように、響く。俺の心を抉る。

俺は両手で耳を塞いだ。指が耳に食い込むほど強く。

でも、声は外からじゃなくて、内側から響いてくる。自らが生み出した狂気

「……もう、いい加減にしろよ」

呟きながら、俺は体を丸めた。胎児のように、守るように。

壊す方法なんて、きっとない。

あるとしたら、俺自身を壊すことだけだ。すべてを終わらせること。

それでも、雪ちゃんの言葉が、かすかに胸に残っている。

「私が隣にいるよ」

それが本当なら。

それが、俺を繋ぎ止めてくれるなら。

……少しだけ、もう少しだけ、耐えてみようか。

そう思った瞬間、涙が一筋、こめかみを伝って落ちた。熱く、苦い涙。

俺はそれを拭う気力もなく、ただ天井を見つめ続けた