RECORD

Eno.139 浮季草 斂華の記録

変わってしまった日

 私が"私"になってから、2年ばかりが過ぎた。未だに元の身体に戻る目処はたっていない。

 2年経って、色々なことが変わった。
 神秘を無くさないよう、本当は男じゃないのかと疑われてはいけないから、一人称を変えた。
 男だったとバレないように、女らしくしようと思った。髪も少し伸ばして、落ち着こうと努力した。
 人付き合いを減らして、バレる機会を減らそうとした。そのせいか、友人関係も希薄になった。

 その代わり、動物がもっと好きになった。元々、色々と飼っている父の影響で好きだったけれど、よりのめり込んだ。
 動物は良い。人間の事を警戒する相手か、あるいは人間として見てくれる。それに男女なんて関係無い。

 今の私は、両親から元々の"俺"を奪った様なものだ、と考える時がある。
 元々の……女の俺であっても、何かしらの事情で、"私"になったかもしれない。だけど、もし元の"俺"だったら、こうなっていただろうか。
 事情が違う。境遇が違う。自己認識が違う。だから、今の私は、本来の私と違う私になっている筈。
 神秘に詳しい人によれば、二人の"俺"が、入れ替わった為に起こったのかもしれない、と話していた。
 入れ替わったなら、向こうにいる筈の"俺"はどう感じているだろうか。
 私より受け入れやすかっただろうか。それとも、同じ様に男子になった事で失った関係性を後悔しているだろうか。
 推測することしかできないし、確かめることもできない。

 そんな事を考えながら、一人、塾帰りの街を歩く。

 友人ができることも少なくなったが、同時に昔からの友人ともあまり連絡を取らなくなった。
 なんとなく、私が私になっていったから、よそよそしくなったという訳じゃない。
 皆変わっていくのだ。
 互いに互いの知らない友人を作って、互いの知らない場所で成長し、変わっていく。

 ──そう、変わっていく。
 もし、神秘が解決して元の性別に戻れたとして、元の関係性に、戻れるのだろうか?
 ──否、戻る必要はあるのだろうか?

「……戻るんだ。」



 戻る。戻りたい。失ったものを取り戻したい。
 そう考えるのは、女としての日々が辛いからだろうか。男としての日々が懐かしいからだろうか。
 それとも、秘密を抱えた日々が苦しいからだろうか?

「あれ?」



 ふと、違和感を覚えて足を止める。いつの間にか、辺りはすっかり様変わりしていた。
 見知らぬ住宅街──否、住宅とすら呼べないなり損ないが立ち並ぶ通りの奥から、夕日に照らされた無形の影が伸びる。
 さっきまで夜だったというのに、紫紺の空に夕日が燃えている。
 身体に染み付いた筈の通学路は、視界のどこにも存在しなかった。
 道に迷ったのか。否、そうではない。
 全てが偽物の様で、まるで世界が入れ替わったかの様。
 空間が歪む。音響が歪む。走っても、走っても見覚えのある景色が見えてこない。

 後に知ることになる、裏世界──そこに初めて、足を踏み入れたのだ。


「はあっ……なに、これぇっ……!」




 行き止まり。異形が闊歩する表通りから隠れるように避難して、うずくまる。
 気持ちが悪い。視界がぐるぐると回る。
 あらゆる色彩に目が慣れず、あらゆる光景が理解を拒む。
 一旦落ち着こう。そう思ったその瞬間。

「……がっ。」



 突如として、全身に激痛が走る。
 腹が捩れる。内蔵が全て逆流するかの様に不快。
 胸が張る。掻きむしって、ちぎり取ってしまいたくなる痛みが走る。
 髪が伸びて眼の前を覆っていく。視界が夕日の色から黒になって、何も見えなくなる。

「げえっ……げ、……え……。」



 吐く。吐く。胃がひっくり返る。急激に身体が引き伸ばされる。骨が軋む。変わる。変わってしまう。
 助けて。誰か、誰でも良いから。声が出せない。全部嗚咽の音しか出ない。
 取り返しのつかないことが起こっている。死ぬ。死んでしまう。
 のたうち回る。ぶつけたゴミ箱をひっくり返す。何が臭いのか分からなくなる。

 そして、気づいてしまった。
 吐くから、視界が下を向く。だから、見えてしまったし、感じてしまったし、分かってしまった。
 男としての自分が無くなっていき、女としての自分が作られていく。
 立場の変化だとか、身体の一部だとか、生易しいものじゃない。



 ──全てだ。

 痛みと、混乱と、絶望で、私は意識を手放した。


 ──運良く、神秘管理局の下部組織に見つけられたのは、その数分後。
 その頃には、私の身体から元の残滓は消え去っていた。
"神秘は、表世界で減衰し、裏世界でより強力になる"
 その言葉を耳にした時、全て無駄だったんだと、私は笑った。