RECORD
Eno.475 至藤留樹の記録
『エーゲブルー』
「——留樹に何を言ったんだよ! あいつ、最近彼女と別れたって……父さんのせいだろ!?」
階下から声が聞こえる。凛生の声だ。
リビングで凛生と……おそらくは、叔父さんが話しているのだろう。
「彼女? 凛生、留樹に彼女なんていたの?」
「そうだよ。でも急に別れたって……父さんのせいなんだろ! 父さんが何か余計なこと言ったから!」
「不純異性交遊をやめるように言っただけだ。あのままにしておけば悪化していた可能性もある。下手なことをして大事になってからじゃ遅いんだ」
「不純異性交遊って……ちょっとキスしただけじゃないか! それの何が悪いんだよ? 二人は別にそんな変な関係じゃ……」
「ちょっと? だけ? 本当にそう思っているのか?」
「……父さん?」
「まさかお前も誰かと妙な付き合いをしてるんじゃないだろうな。相手は誰だ? まさか留樹か?」
「は? 何言って……」
「ちょっと、お父さん!」
「だから近付けたくなかったんだ! 躾け直すためとはいえ、あんな淫売の子供をうちに置くなんて——」
「やめてよ! なんてこと言うの、もしあの子に聞こえたら……」
淫売。その言葉の意味はよくわからなかったけど、少なくとも母さんを貶すものであることは察せられた。叔母さんが止めに入ったあたり、相当にひどい言葉であるらしい。
「……それが本心なんだ。前からおかしいと思ってたけど、父さんは留樹が嫌いなんだ」
「違う。ただ母親みたいにだらしない人間になって欲しくないから厳しく育てているだけだ」
「違わないだろ! 伯母さんが嫌いだから留樹にも八つ当たりしてるだけなんだろ!? ずるいと思わないのかよ!? 留樹にはどうしようもないことなのに、そんな理由で勝手に留樹をいじめてさ……! 最低だよ! このクソ親父!」
「凛生!」
「触るな! 気持ち悪いっ! あんたの子供になんか生まれなきゃよかった!」
「凛生! 待って、凛生!」
凛生は叔母さんの制止も聞かずに出て行ったのか、ドアが閉まる音がして次いで階段を登る足音が聞こえた。向かいの部屋のドアが大きな音を立てて閉じて、くぐもった凛生の叫びがドア越しに響く。
その夜は、頭の中で取り留めのないことと漠然とした恐怖ばかりがぐるぐると渦を巻いていて、よく眠れなかった。
後日凛生から聞いたことだが、叔父さんの父親……僕の母方の祖父はキャバレーで出会った女の人にひどく入れ上げて、お金を貢いで囲っていたらしい。
叔父さんはそんな父親を心底軽蔑していたらしくて、そのせいで水商売をやっている僕の母親にまで当たりがきつくなったんじゃないか、と凛生は言っていた。
凛生にも、そして叔母さんにもひどく謝られたが、僕は何も気の利いた言葉を返すことができなかった。
高校進学が見えてきた頃、僕は叔母さんに母さんの所に戻らないかと提案をされた。
「留樹くんはもう一人でも危ない歳じゃないでしょ? それにほら、お父さんと一緒にいるの、留樹くんにとってあまりよくないと思うから……お母さんも留樹くんに会いたがってると思うし、考えてみて。どっちも嫌だって言うなら、一人暮らしだってしてみてもいいから……お父さんは私が説得してみるから、ね?」
叔母さんの言葉は心底善意から出ているものだとわかったけれど、僕はどうにも頷くことができなかった。いつにない叔父さんの剣幕と、仕事に行く母さんの姿が脳裏にちらついて、母さんの下に戻るという選択を飲み込めずにいた。
結局、僕は高校卒業まで叔父さんの家に厄介になって、大学進学と同時に一人暮らしを許された。
抜き打ち気味に叔父さんや叔母さんが様子を見に来るという条件付きではあったけれど、一人で暮らすようになって少し気持ちは落ち着いた……ような気がする。
だけどそれでも、時々あの日の夢を見て嫌な気持ちで目を覚ますことがある。
母さんを罵る叔父さんの刺々しい声は、今でも頭の隅に刺さったまま消えてはくれない。
階下から声が聞こえる。凛生の声だ。
リビングで凛生と……おそらくは、叔父さんが話しているのだろう。
「彼女? 凛生、留樹に彼女なんていたの?」
「そうだよ。でも急に別れたって……父さんのせいなんだろ! 父さんが何か余計なこと言ったから!」
「不純異性交遊をやめるように言っただけだ。あのままにしておけば悪化していた可能性もある。下手なことをして大事になってからじゃ遅いんだ」
「不純異性交遊って……ちょっとキスしただけじゃないか! それの何が悪いんだよ? 二人は別にそんな変な関係じゃ……」
「ちょっと? だけ? 本当にそう思っているのか?」
「……父さん?」
「まさかお前も誰かと妙な付き合いをしてるんじゃないだろうな。相手は誰だ? まさか留樹か?」
「は? 何言って……」
「ちょっと、お父さん!」
「だから近付けたくなかったんだ! 躾け直すためとはいえ、あんな淫売の子供をうちに置くなんて——」
「やめてよ! なんてこと言うの、もしあの子に聞こえたら……」
淫売。その言葉の意味はよくわからなかったけど、少なくとも母さんを貶すものであることは察せられた。叔母さんが止めに入ったあたり、相当にひどい言葉であるらしい。
「……それが本心なんだ。前からおかしいと思ってたけど、父さんは留樹が嫌いなんだ」
「違う。ただ母親みたいにだらしない人間になって欲しくないから厳しく育てているだけだ」
「違わないだろ! 伯母さんが嫌いだから留樹にも八つ当たりしてるだけなんだろ!? ずるいと思わないのかよ!? 留樹にはどうしようもないことなのに、そんな理由で勝手に留樹をいじめてさ……! 最低だよ! このクソ親父!」
「凛生!」
「触るな! 気持ち悪いっ! あんたの子供になんか生まれなきゃよかった!」
「凛生! 待って、凛生!」
凛生は叔母さんの制止も聞かずに出て行ったのか、ドアが閉まる音がして次いで階段を登る足音が聞こえた。向かいの部屋のドアが大きな音を立てて閉じて、くぐもった凛生の叫びがドア越しに響く。
その夜は、頭の中で取り留めのないことと漠然とした恐怖ばかりがぐるぐると渦を巻いていて、よく眠れなかった。
後日凛生から聞いたことだが、叔父さんの父親……僕の母方の祖父はキャバレーで出会った女の人にひどく入れ上げて、お金を貢いで囲っていたらしい。
叔父さんはそんな父親を心底軽蔑していたらしくて、そのせいで水商売をやっている僕の母親にまで当たりがきつくなったんじゃないか、と凛生は言っていた。
凛生にも、そして叔母さんにもひどく謝られたが、僕は何も気の利いた言葉を返すことができなかった。
高校進学が見えてきた頃、僕は叔母さんに母さんの所に戻らないかと提案をされた。
「留樹くんはもう一人でも危ない歳じゃないでしょ? それにほら、お父さんと一緒にいるの、留樹くんにとってあまりよくないと思うから……お母さんも留樹くんに会いたがってると思うし、考えてみて。どっちも嫌だって言うなら、一人暮らしだってしてみてもいいから……お父さんは私が説得してみるから、ね?」
叔母さんの言葉は心底善意から出ているものだとわかったけれど、僕はどうにも頷くことができなかった。いつにない叔父さんの剣幕と、仕事に行く母さんの姿が脳裏にちらついて、母さんの下に戻るという選択を飲み込めずにいた。
結局、僕は高校卒業まで叔父さんの家に厄介になって、大学進学と同時に一人暮らしを許された。
抜き打ち気味に叔父さんや叔母さんが様子を見に来るという条件付きではあったけれど、一人で暮らすようになって少し気持ちは落ち着いた……ような気がする。
だけどそれでも、時々あの日の夢を見て嫌な気持ちで目を覚ますことがある。
母さんを罵る叔父さんの刺々しい声は、今でも頭の隅に刺さったまま消えてはくれない。