RECORD

Eno.26 朔 初の記録

あはれとも いふべきひとは おもほえで

皆様にあっては、幸運という言葉を信じていますでしょうか。
何か確率的に引き当てていいことがあるとか。
自分の思っていたことがうまく行って叶うだとか。
偶発的に望んでいたことが叶うとか。
そういった時、人は幸運という言葉を使うのだと思います。
それの逆を不運と呼び、何か不幸な出来事があれば、不運だったと口にするのです。

このように何か自分にとっていいこと/悪いことがあった時、人は運という言葉を使います。

運。

意志や努力ではどうしようもない時の流れのことを指すことは、皆様ご存知であることでしょう。
人は何かが起きた時、その言葉にかこつけて、現状の状態を二つのどちらかと判定します。
良いことか、悪いことか。
当然、人は良いことを望む者です。
幸運が自分の手元に降り立つことを人のほとんどは望むことでしょう。
ですが、運というものは天からの贈り物でありますから、それを自分のものと見立てた上で引き寄せることは難しい。
それでも、スピリチュアルにおいては開運スポットで運気上昇であったり、幸運を引き寄せるために特別なお守りを買ってみたりなど、幸運を引き寄せるための行動の人気は人類史耐えることなく続いています。
神のような自然のような、とかく言葉ではいえないような偉大なるものから、祈りがわりにいただこうとしているわけです。

しかし毎日の幸運よりも一度の大きな幸運を望むわり、それが叶えば不幸の揺り返しに怯えている。
次のツキはない。
ただし、怯えずにこれを前向きにただのラッキーであると捉える人間もいるわけでした。
怯える人/怯えない人の違いと言えばただ一つと言ってもいい。

そう、捉え方なわけでした。

誠に申し訳ないのですが、統計学的な話は一切しておらず、心の話をしています。
“自分は幸運だった”と感じる機会の多い人は大抵、考え方と捉え方が前向きなものです。
極端な話、客観的に見てあからさまな不運であっても、“こうだったからよかった”と幸運の糸口を見つけてしまう。
不幸中の幸いは幸というわけでした。
視野を広く。
捉え方を広く。
味方をころりと変えられる。
後ろ向きな思考は捨て去られ。
成功を信じる。

そう言った人の元に運は訪れる。

詰まるところ、運は目に見えない糸のようなものではなく。
そして乗れるような流れでもなく。
人の思考の中にある事象や現象に対する判定装置のようなものなのです。
一般的不幸を個人的幸運と。
どれだけ人を不幸と罵ろうと、その人にとって幸運であれば、運がむいたとして処理される。
それを言語化し、幸運/不幸と口にするだけなのでしょう。
プラシーボ効果ももちろん適用されます。
開運スポットに行ったからきっといいことがあると信じて行動すれば、“ちょっとしたこと”も大きな幸運として捉えることができるやもしれないのです。

逆にいうのであれば。そう、大きな幸運の揺り返しに怯える人間のうちには、このようなものもいることでしょう。
何もかもを後ろ向きに捉え。
何もかもに夢を見ず。
すべからず黒に未来を塗りつぶすような。
そう言った人間には、幸運は訪れない。
そういう考え方に至らないからでしょう。
いつまでも不幸なまま、人生を過ごすしかあるまい。


さて。


しかしでここまでの話は、運というものを心の働き、および内部の気持ちの働きとして捉えたものであります。
運というものは物質として存在するものではなく、実際目に見えて掴めるものではない。
人は勝手に、運を掴むだの、運を使いすぎただの、まるで運は人にある程度存在するものして存在し、消費できるものとしての表現を使ってはいますが、実際にそれをできるわけではなく、運をお金のように持ち合わせているはずなどないのです。







では、実際にもしも存在していたとしたら?







運に見放されたという言葉がございます。

つまりは、不幸が続いたりする時、このような表現を使うのでございます。

そのものが生まれつき持ち合わせていたものが失われている。

それが取られる時のことを考えてみましょう。


例えば、その子が世界から切り離されるとか。

ああ、いいえ、大袈裟な話をしましたね。
しかし、まあ、この譬え話を続けます。

別世界に迷い込んだのであれば。
世界の法則が異なれば、一度バランスは崩れるのです。
それが纏っている元の世界への糸が切れていく。
その存在は否定されれば、当然持ち合わせている運命や天命も異常を起こしていくのでしょう。
そうして絡まる糸は、その別世界のものとなっていく。
作り替えられていく。
書き換えられる。

現実離れとはつまりそういうことであるのでしょう。
元いた世界から、よくわからないものと判定をもらうものに作り変えられる。

と、なれば。

元いた世界から貰っている幸運も、挿げ替えられる。
そして戻った時には。




しあわせから、切り離されるのであります。








ちいさいころかいていたゆめは、


わたしのなかでなにものこらなくて、


ただはるのよるのゆめのように、



こうちゃでとけるおさとうみたいに、


あつく、とけていってしまって、


そうしてのこったものをかきあつめていたのに、



それすらけられて、



あとには、にがいぬりつぶしだけがのびている。




「対等でいろ」

「対価を貢ぐな」



「あたしに関わるな」


「それ以上は望まない」



祈りすら忘れてしまった。

彼女の前には、見なければいけないことだけが散らばっている。


抱きしめる自信は、なかった。



「 」


見下しやがって。