RECORD

Eno.11 射手瀧 來々の記録

パンはまだ、温かかった

 
パン屋さんを物色してのち、おいしい香りに包まれながら鼻歌を口ずさむ。
それは遅刻した4限を乗り越えた、帰路の途中だった。

今日は少し、違う道を通ってみよう、なんて色気づいちゃって。
気づいたときにはもう、知らない何かを"くぐった"後だった。


──景色が違うのは、いつもの道じゃないから、ではない。
隣を見ると、弱々しく陽が差し込む、妙に人気ひとけを感じる廃屋。
黒く塗りつぶされた表札の下には、ひらがなによく似た、知らない文字……。


弾けんばかりに鳴り打つ胸を抑えながら…帰らなきゃ、と来た道を戻る。
でも本当はもう、わかっていた。寄り道したあのパン屋さんを目指して、早足で歩いていたけれど。

「……」


──戻っても、もちろんパン屋さんは無いし…、
そこには揺れる視線を嘲笑うように、パンに似た得体の知れない何かが犇めいていた。

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わたしを、來々、と呼ぶ声が聞こえるようになったのは、その後だった。
どうしてだか、泣き叫んで、髪を振り乱して逃げる、なんてこともできなくて。

──ああ、涙だけは滾々と溢れて止まらないのに。
涙でお化粧が崩れちゃった、なんて考えてしまう。

今まさに、パンに似た何かが、耳障りな金切り声を発して這いずり迫ってきているのに。
手に提げている、おいしいはずのパンの無事ばかり気にかけてしまう。

どこを目指すでもなく、冷たく痺れていく頭でもって、
竦むばかりの足をどうにか…とろとろと動かすことだけは、できたらしい。

……… …… …。

知らない女性に助けてもらったあとの話は、あまり覚えていない。

無事を喜ぶ場面で、そうあるべきように、無事を喜ぶことに精一杯で。
今はどうでもいいはずの、白い稲妻を発する技術のことなんかが気になったりして。

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──プロを名乗る女性に手を引いてもらって、知らない街を抜け出そうとするさなか、
なぜだか後ろ髪を引かれたように振り返る。

たぶん、主人公ではないわたしは、ここで後ろを見なければ…
今後、この知らない街に自ら踏み込もうだなんて思うことはなかったのだろう。



……ただ、未だ涙が潤むわたしの瞳は、振り返った先に、赤く赤く歪む夕景を映した。

知り得る筈もなかった、いびつな燦めきに……
首筋が灼かれるような感覚だけは、一丁前に覚えてしまったのだった。