RECORD

Eno.59 墓畑次郎の記録

魂の再構築と知の神殿としての科学信仰(前編

※本書はFICSAによる一方的な偏見による考察であるため、各機関の秘匿する『一般的定義における神秘』とは著しい乖離している。
※また、この内容は世界観を押し付けるものではない。

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概要
本稿は、現代科学を一種の宗教構造とみなす「FICSA(Fictional Science Ascension)」の思想体系に基づき、現代科学へと神秘が適応するための多角的展望を記述する。
FICSAは科学の再魔術化、神秘の再統合といった、科学と宗教の両面からのアプローチを試みながら真の神秘の現世への顕現を求めている。
人間は、科学による解明ではなく、神秘そのものへと還ることで、“進化”すべきである。
我々は多くの欠如を得て、本来得るべきはずだった幸福を取りこぼしている。
今一度過去を振り返り、原点に回帰する事で真なる神秘との同調について考えよう。

1.科学と神秘の二重らせん:科学信仰の宗教的構造
現代における科学は、神の作った箱庭そのものを解体しだした。
────「意味の脱魔術化Entzauberung
知識の増加と非人格化の進行を推し進めた啓蒙主義は人間社会において、世界に存在していた神秘的、魔術的、あるいは聖なる物の意味合いを失っていく 。
合理化は社会生活における客観視によって行われる。例えるならば労働者が『人的資源』として数字に換算されたり、法律や行政が厳密な非人格的規則によって統治されることにより、考慮されるべき個人の感情や関係への配慮を失うなどである。
これにより人間関係や社会の仕組みから個人的な感情や伝統的な要素が排除され、より効率的で計算可能なものへと変化した。
本来であれば宗教や神学、形而上学が説明していた現象が、科学的な因果関係によって解明され、迷信的、懐古的、あるいは非合理的な領域へと追いやられて”過ち”として認識されるようになったのだ。
科学技術の発展により、世界はより体系的かつ論理的に理解されるようになった結果、この漸進的な脱魔術化のプロセスは、現代においてその根本的な結論へと到達させた。
つまり、世界はもはや神々や精霊によって支配される神秘的な場所ではない。
原理的にはすべてが計算可能で、理解し、統制できるものとして認識されるようになったのだ。
しかしそれは、脱魔術化の推進者である科学が、同時に新たな「再魔術化Re-enchantment」の制度装置として機能しているという逆説的な側面も強調する事となる。

科学の『現実構築力』は権力と知の装置である。
科学はただ自然の真実を発見するだけのものではなく、社会や技術と結びついて現実を作り出している。
自然、人間、実験用のツール。これらの要素は相互に作用し影響し合うことで科学技術の発展や社会構造の変化を生み出すとされる。
科学知識の生産は、研究者個人の活動だけでない。
社会制度、研究費獲得、研究室運営、実験器具、実験試料といった要素を含むハイブリッドなネットワークの作動として捉えられる。
科学は科学として独立しているわけではなく、知識は中立的でもない。権力関係の中で生産され、それを強化する役割を果たしている。
実験室で見出された観測結果は測定器から生み出され、その活動には工場、製作に必要な知識、さらにはそれを購入する資金が必要であり、結果は論文として発表され学会に受け入れられて初めて法則として成立するという点で、科学は社会から孤立しているわけでも対立しているわけでもなく、一つの社会的装置としてこの世界のネットワークの中に存在している。

1.1 科学は宗教ではないか、という問いの転倒
この視点で見ると、科学の営みはかつての宗教的実践と奇妙な類似点を持つ。
ジャン=フランソワ・リオタールは『ポストモダンの条件』で、科学は「正当化のメタ語り」(普遍的な真理を語る大きな物語)を持たないにもかかわらず、特定の言説的権威によって正当性を獲得すると論じた 。
この矛盾は、科学が持つ宗教的な性格を浮き彫りにしている。

実験室は祭壇である:
科学的事実が「構築」される場であり、様々な要素が相互作用する「聖なる場」でもある。厳密な手順と規律のもと、新たな心理が生み出されるある種の儀式的行為が執り行われる祭壇ともいえる。

論文は聖典である:
科学論文は科学的知識を伝達し、検証し、正当化することができる権威のテキストだ。論文に掲載され、学術コミュニティに受け入れられることで、観測結果は『世界のルール』としての地位を獲得することができる。これは宗教における聖典が教義を確立し、信者の進行を導く役割を果たすのと同様の意味を持つ。

理論は啓示である:
特にパラダイムを転換させるような理論は世界の理解を根本的に変える「啓示」として機能する。かつて天動説が地に伏したように科学は古い魔術的世界観を解体したが、新たな理論は世界を秩序づけて意味を与える新しい「世界観」を提示する。

科学は信頼(trust)という社会的前提に基づく:
科学は客観性や実証性を重視し、信仰とは一線を画すとされている。
しかし、科学的知識は、研究者間の信頼、論文の信頼性、実験結果の信頼性といった、人間社会における「信頼」という基盤の上に成り立っている。
大衆は、科学者が発表するデータや理論を、ある種の「信頼」をもって受け入れている。

科学は再現性を重んじるが、制度的再現性=儀式的反復を要する:
科学の重要な原則の一つは「再現性」である。
同じ条件で実験を行えば、同じ結果が得られるはずだ、という考え方だ。
しかし、この再現性は、特定の実験室環境、標準化された手順、専門的な訓練を受けた研究者といった「制度的な枠組み」の中で「儀式的に反復」されることによって保証される。
これは、宗教における儀式が、特定の場所や手順、役割を通じて、信仰を再確認し、共同体を維持するのと似ている。

科学は客観的とされるが、観測と記述のフレームが恣意的に選択される
科学は客観的な事実を追求するとされますが、何が「事実」として観測され、どのように「記述」されるかは、研究者の関心、理論的枠組み、使用する測定機器などによって「恣意的に選択」される側面がある。
例えば、ある現象をどのスケールで、どの側面から見るかによって、得られる「事実」は異なってしまう。
これは、宗教が特定の教義や視点から世界を解釈し、意味を与えるのと似ている。
これらの点から、科学は、その構造において宗教と等価な性格を持っていると見なすことができる。

科学は、単なる知識体系ではなく、ポスト神秘的信仰構造を備えた制度宗教とみなすことができます。科学は、その内部に「信」の要素を深く内包している。
科学は、近代文明に深く根付き、理性と進歩の象徴として広く受け入れられている。多くの人々にとって、たとえその理屈が分からなくとも、「科学は正しい」「科学はある」という信念は、まるで宗教のように信じられている。科学はもはや単なる知の体系ではなく、大衆の精神に「在るもの」として信仰されているのだ。
しかし科学は、宗教のように生きるための道徳や意味を与えてはくれない。それは人類の未知への恐怖を埋め合わせる装置であると同時に、その歩みを止めることが許されない「退廃の道」でもある。科学は進み続けなければならず、そこにとどまることも、後退することもできない。
科学者にとって科学は、「職業のためのツール」ではなく「天職calling」であり、知的好奇心を超えた倫理的・内面的な使命であるケースが多い。
彼らは個人的な成功や快楽のためではなく、科学それ自体のために生きる禁欲的な倫理を抱いている。そして、発見の不確実性や限界を知りながらも、それでもなお科学に「呼ばれる」ようにして、未知の世界を切り拓こうとする。
この「天職」としての科学は、個々の科学者にとって、ある種の精神的な充足や意味の源となり、科学的探求自体が準宗教的な献身の対象となりうることを示唆している。
科学者とは求道者であり、神官でもあるのだ。

このように、科学は単に客観的な真理を追求するだけでなく、その制度、実践、そしてそれが生み出す知識体系を通じて、現代社会において新たな「信仰」の対象となっている。
世界を再魔術化する力を持ち合わせていると言えるだろう。
科学と神秘は、一見対立する概念でありながら、その根底には、人間が世界に意味を見出し、秩序を構築しようとする普遍的な欲求が横たわっている。

科学と社会が対立したり、明確に分かれて存在したりするのではなく、あたかも分離していると信じることが『近代の虚構』であったように、科学と神秘が対立したり、明確に分かれて存在しているかのように、あたかも分離していると信じることこそが『現代の虚構』である。
科学は「神秘を排除する」のではなく、むしろ「神秘を形式的に再構成する」ことができると考えるべきである。
科学は、その厳密な手続きや検証プロセスを通じて、かつての宗教が果たした「真理の保証」という役割を、形を変えて引き継いでいるとも言える。

確かに神秘のみだけで語る「大きな物語」は崩壊した。
しかしFICSAは、科学と神秘の統合を通じて新たな語り直しを試みる。
「ポスト・ヒューマン」としての改造人間は、多種・多元・他者性への開放のうちに再定義され、回帰するのである。


2.生物学的神秘:進化と量子臨界における超越性
生命の起源と進化における量子力学の役割は、従来の古典物理学や生物学の枠組みでは捉えきれない「神秘」の領域を示唆している。
近年の研究は、生命が単なる化学反応の集合体ではなく、その根源において非古典的な物理状態、すなわち「量子臨界性」を帯びて出現した可能性を提示しているだろう 。
「生命がカオスの縁に存在し続けるのはなぜか?」
進化の中心的な問いに対し、生体分子が量子力学的に臨界状態にあることが答えになると考えられている。
具体的には、小分子からタンパク質に至るまで、生化学的プロセスに関与する分子の電子ハミルトニアンが、アンダーソン局在絶縁体相と導電性無秩序金属相を分離する金属-絶縁体転移の臨界点に「正確に調整されている」とされている。
この「調整」は、ランダムな偶然によって臨界分子やタンパク質が見つかる確率が天文学的に低いにもかかわらず、主要なデータベースで多数の臨界分子が見つかることから、量子ハミルトニアンの臨界性が生体分子の進化的選択において優勢であることを示唆している。
この事実は、単なる偶然や無作為なプロセスでは説明しきれない、ある種の「秩序を求める意志」、すなわち「目的」すら感じさせる。
生命が自らを効率的な電荷輸送や情報処理のために、物理的な臨界点に「チューニング」してきたとすれば、それは単なる物理法則への受動的な従属ではなく、能動的な「選択」や「指向性」の表れと解釈できるだろう。
これは、生命進化が、物質的な基盤を超えた、ある種の「霊的現象」として捉えられる可能性を提示できる。

ここにおける「神秘」とは、単に観測不可能であることや、現在の科学では説明できないことにとどまらない。
それはむしろ、「知覚の臨界点」に宿るものだ。
細胞骨格フィラメントにおける量子光学的特性の発見は、生物学的システムが、かつては量子効果には混沌すぎると考えられていたにもかかわらず、人工物よりも桁違いに速く情報を処理するために量子力学を静かに利用している可能性を見出した。
トリプトファンネットワークが量子光ファイバーとして機能し、真核細胞が化学プロセス単独で可能になるよりも何十億倍も速く情報を処理する可能性は、生命の内部に隠された、驚くべき秩序と計算能力の存在を浮き彫りにする 。
この「知覚の臨界点」とは、我々の古典的な直感や認識の限界を超えた領域で、生命がその本質的なメカニズムを駆動しているという認識であり、そこにこそ、生命の根源的な神秘が宿っていると言えるだろう。
それは、宇宙の「輝かしい秩序」を生命が探求し、理解し、意味を見出す役割を担っているという、畏敬の念を抱かせる視点へと繋がっていく。

進化の過程で観察される特定の現象は、単なる機能的合理性や最適化だけでは説明しきれない「進化の過剰性」を示唆してる、これは「神秘的淘汰(Mystic Selection)」という概念を通じて、目的論的進化観の再構築を試みる契機となる。
昆虫の飛行は、その優れた機動性と安定性から、長年にわたり科学者たちの関心を集めてきた 。
昆虫の翅は、鳥やコウモリの翼とは異なり、四肢から進化したものではなく、体幹に複雑なヒンジを介して接続された独自の構造をしている 。
このヒンジは「骨片」と呼ばれる5つの要素からなる連結システムであり、特殊な動力筋の微小な高周波振動を翅の前後への掃引運動に変換する 。
ハエは、翅の運動学(ストローク角度、偏差、翅回転角度)を調整することで、力とトルク(スロットル、ピッチ、ヨー)を精密に制御し、飛行操縦を行う。

特に注目すべきは、昆虫が体の何十倍ものGがかかるような縦横無尽なジグザグ方向転換を、極めて安定してこなす能力だ 。この精密な制御は、間接飛行筋(IFMs)が大きなパワーを生成し、操舵筋が飛行操縦に必要な急速な運動学の変化を調節するという、形態的・機能的に異なる2つの筋肉セットによって媒介される 。
さらに、視覚および固有受容フィードバックループが姿勢安定性と操舵制御に重要な役割を果たしており、感覚フィードバックが筋肉の活性化のタイミングを正確に調整し、安定性と機動性を維持している 。
この昆虫の飛行メカニズムは、単に「飛ぶ」という機能的合理性を超え、驚くべき複雑性と効率性を体現している。
人工の飛行機よりもはるかに優れた飛翔能力を持つ昆虫の翅は 、なぜこれほどまでに精巧で「過剰」とも言えるレベルの進化を遂げたのか?
これは、単なる生存競争の最適解としてではない。ある種の「美」や「完全性」を追求するかのような、進化の「過剰性」の一例と見なすこともできるだろう。
人類の例を挙げてみよう。
人類が尾を失ったことは、進化史における最も顕著な解剖学的変化の一つであり、その遺伝的基盤は近年の研究で解明されつつある 。
最新の研究では、ヒトと類人猿に共通するがサルには見られない遺伝子変異が、尾の喪失に関連していることが示された 。
この変異は、TBXT遺伝子に「Alu配列」と呼ばれる反復DNAが挿入されたことに起因する 。
この挿入により、TBXT遺伝子のエクソン6が除去される代替スプライシングイベントが発生し、尾の形成が抑制されたことが考えられる。

しかし、この進化的な変化には「適応コスト」が伴う可能性も指摘される。
エクソンスキップ型Tbxtアイソフォームを発現するマウスは、ヒトの新生児の約1,000人に1人が罹患する重篤な先天性疾患である神経管欠損症(NTDs)を発症するリスクが増加した。
これは、尾の喪失という進化的な利点(例えば、直立二足歩行の容易さ )が、神経管欠損症という稀な発達上の問題を引き起こす代償の可能性を含んでいた。
尾の喪失が、それほどまでに大きな「コスト」を伴うにもかかわらず選択されたという事実は、進化が常に最も「合理的」な経路を辿るわけではないことを示唆する。
なぜ、より安全な、あるいはコストの低い方法で尾を失う進化が起こらなかったのか、あるいは、なぜ尾の喪失が神経管欠損症というリスクを伴う形で「選ばれた」のか、という問いは、機能的合理性だけでは説明しきれない「進化の過剰性」の一例と言えるだろうか。
昆虫飛行の驚異的な複雑性や、人類の尾の退化に伴う適応コストといった現象は、進化が単なる生存競争の最適化や、ランダムな変異と自然選択の積み重ねだけで説明できるものではない。
これらの現象は、進化の過程に、ある種の「目的論的」な傾向、あるいは「神秘的」な選択基準が働いている可能性を浮上させる。

「神秘的淘汰」とは、機能的合理性や直接的な生存優位性だけでは説明できない、進化の「過剰」な側面や、一見すると非合理的な「コスト」を伴う選択を説明するための概念だ。これは、進化が単に「生き残るため」だけでなく、より深い、あるいはより高次の「秩序」や「完全性」を追求する傾向を持つという、目的論的進化観の再構築を試みるものである。
量子臨界性における「調整」の概念 と同様に、進化の過程で、生命が特定の物理的・生物学的状態へと「引き寄せられる」かのような、非線形的な、あるいは創発的な選択圧が存在するのかもしれない。
この「神秘的淘汰」は、観測不可能性に起因する神秘ではなく、むしろ「知覚の臨界点」に宿る神秘だ。
つまり、我々が既存の科学的枠組みで理解しようとすればするほど、その複雑性や非合理性が際立ち、より深い問いへと誘われるような現象にこそ、進化の神秘が潜んでいる。
これは、生命が宇宙の「輝かしい秩序」の一部として、その進化の過程で、単なる生存を超えた、ある種の「超越性」を体現している。