RECORD

Eno.59 墓畑次郎の記録

魂の再構築と知の神殿としての科学信仰(後編

※本書はFICSAによる一方的な偏見による考察であるため、各機関の秘匿する『一般的定義における神秘』とは著しい乖離している。
※また、この内容は世界観を押し付けるものではない。

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3. ファトラジー:知の逸脱と聖性の回収
脱魔術化の概念は、「神秘の解体」ではなく再魔術化───神秘の合理的再配置を可能にするものとした。科学は神秘を完全に排除するのではなく、それを科学という枠組みの中で形式的に再構築することが可能とした。
合理主義的な考え方や、効率性ばかりを追求する社会のあり方によって暴走した認識は、科学文明が上書きしてきた「非合理なもの」「過剰なもの」「快楽」「死」「自然」といった原始的な要素にこそ、真の神秘が秘められている。

この世界はナンセンスで出来ている。

これの意味する内容において「不可能」なものを描き、論理的でない言葉の連結と現象によって構築される神秘 を指している。
FICSAはこの「神秘的」なもの、つまり真なる神秘が世界に与えようとする「意味」や「様相」に対抗する概念を重視していた。
FICSAは自然や存在の本来の姿を覆い隠す科学という「欺瞞の織物」としての形式を批判し、隠されたものを露わにすることを目指している。
ファトラジー廃棄物の哲学」という言葉は、フランスの哲学者のジョルジュ・バタイユが作った言葉であり、中世のナンセンス詩を翻訳する際に用いた概念と関連している 。
この詩は、意味内容において「不可能」なものを描き、論理的でない言葉の連結が特徴だ。
バタイユは近代における排他的な科学主義を疑問視しつつ、排除されてきた神秘的な知識や経験の領域を「回収」し、「改編」することで、新たな価値観を再構築しようとしていた。
FICSAはこれを継承し、「役に立たない知」の領域を「神秘進化の原動力」と位置づけようと試みた。
直接的な有用性や合理性からは外れるように見える知識や経験の中にこそ、生命や社会を動かす、より根源的な力が潜んでいると考えていたからだ。

「神秘」という概念自体はすでに社会的に構成されてしまい、大きく科学に取り込まれてしまっている 。
科学が「発見」する自然は、常に制度的な実践の結果であり、その「事実性」は、信頼できる語りのネットワークによって成立していた。
しかし、この構造は次のような問題を抱えている。

記述不能な要素の増大:
量子物理学における「非局所性」や、複雑系の「非線形性」など、現代科学が進むにつれて、従来の枠組みでは「記述できない」要素が増大している。

「未解明」ではなく「制度的に解明されえない」もの:
これらの現象は、単に「まだ解明されていない」というだけでない。
科学という「制度」の枠組みの中では「解明されえない」ものとして現れることを指す。
つまり、科学の論理や方法論では捉えきれない、ある種の「限界」を示唆している。

神秘の排除ではなく「神秘性の社会的コード化」:

科学は「神秘を排除する」のではなく、むしろ「神秘性を社会的にコード化」していると言えるだろう。
科学は、理解できないものを「未解明な問題」として分類し、その探求を続けることで、ある種の「神秘」をその内部に保持し続けているのだ。

つまり、科学によって「封じられた神秘」は、観測不能な形で、科学という構造の「底」に沈殿し続けている。
FICSAが考える「神秘率」という概念は、「対象がどれほど神秘に適応・関与・影響されているか」を数値化した概念を意味している。
この「神秘率」は、科学においてもゼロにはなりきらない。
むしろ、量子論や生命論といった分野、また著しい現代科学では把握しきれない技術分野などでは、その数値が顕著に増加すると考えられる。
これは、科学的言説が、その内部に常に「神秘的な余剰」を持ち続けていることを示唆している。
科学が精緻になればなるほど、その前提や暗黙の了解、あるいは現在の枠組みでは捉えきれない「逸脱」の存在が浮き彫りになる、という逆説的な状況だ。

ジャン・ボードリヤールの「シミュラークル論」は、現代社会において「実在」が失われ、その代わりに「シミュラークル」───実在のコピーだが、もはや元の実在を持たないものが支配的になるという思想である。

シミュラークルの第四段階について
この段階では、シミュラークルはもはやいかなる現実とも関係を持たない。
現実との関係の喪失:
シミュラークルは、もはや「何かを隠している」わけでも、「何かを偽っている」わけでもない。なぜなら、隠すべき「現実」や偽るべき「オリジナル」が、もはや存在しないか、意味を持たないからだ。
(例:写実的な肖像画
記号が記号を映し出す: ここでは、記号(シンボルやイメージ)が、ただ他の記号を映し出すだけとなる。例えば、あるイメージが「現実的だ」と主張しても、それは他のイメージが「現実的だ」と主張するのと同じレベルの主張に過ぎず、その背後に本当の現実があるわけではない。
(例:加工写真
オリジナルの概念の放棄:
この段階では、「オリジナル」という概念自体が意味を失い、放棄される。
すべての意味は、記号のシステムの中から生まれており、記号が何か「オリジナル」を参照しているからではない。
(例:フェイクドキュメンタリー
ハイパーリアル(超現実):
この状態は「ハイパーリアル」と呼ばれる。
これは、現実よりも現実らしく、本物よりも本物らしい、人工的な「超現実」が支配する状態だ。
消費者の生活体験が、あまりにも人工的であるため、現実への主張さえも人工的で「超現実的」な言葉で表現されることが期待されるようになる。
特に「第四段階のシミュラークル」は、「実在なき再帰」と表現され、シミュラークルがもはやいかなる現実とも関係を持たず、記号が他の記号を反映するだけの状態を指している 。
(例:メタバース



これを科学に接続すると、科学の語りが、再現される構造の背後にある「未知なるもの」への通路を閉ざす一方で、その「閉鎖性」自体が再び「神秘性」として感じられる、という循環性が見えてくる。
科学は、世界をモデル化し、予測可能で再現可能な「シミュラークル」として提示することで、その「事実性」を確立する。
しかし、その過程で、モデル化されなかった、あるいはモデル化できない「未知」の領域は、あたかも存在しないかのように扱われてしまう。
しかし、この「未知の排除」が徹底されるほどに、その排除された領域が、かえって「神秘」として私たちの意識に立ち現れてくるのだ。
これは、科学的言説が、まるで宗教的な循環のように、自らが排除したはずの神秘を、新たな形で再誕している証拠であると言えるだろう。

4.反動進化の定義と構造:失われたものに宿る神秘

反動進化論Retrogressive Evolution Theory」は、従来の進化論が「より良く、より複雑に」という一方的な進歩を前提としてきたことに対し、「進化とは上昇ではなく逸脱である」という逆説的な視点を提示している。
この理論は、文明が発展する過程で、人類が神秘、本能、原初的な調和といったものを手放してきた、つまり「神秘から退化してきた」という考えに基づいている。
本来の完全性は、古代的・神話的な存在や、神秘に近い自然構造の中にこそ存在し、反動進化論は、進化によって失われた「原初の幸福」への回帰を核とする思想だ。
FICSA(仮称)では、「神秘率」に対し「対象がどれほど神秘に適応・関与・影響されているか」を数値化した概念であると考えている。
この神秘率は、科学が0%、宗教が100%という単純なものではない。
むしろ、科学と宗教の両者が持つ「語りきれない部分」の混合比によって、新たな「第三の知識」が生まれる可能性を示唆している。
科学は客観性や再現性を追求しますが、その背後には、研究者の直感、未解明な現象、あるいは理論の前提となる暗黙の了解など、言葉では完全に説明しきれない要素が常に存在している。
この神秘率は、そうした科学の「語られざる部分」の密度を測る試みであり、科学的言説がその内部に神秘的な余剰を持ち続けていることを露わにしているのだ。
この数値を元に反動進化論は、知の構造を以下の三層で捉えている。

知覚(Perception):生物が世界をどのように感じ取るか、その根源的な感覚や直感の層。
仮定(Hypothesis):その知覚がどのように言葉にされ、理論として組み立てられるか、つまり科学や哲学、宗教といった知識体系の層。
力(Force):その理論や知覚が、現実世界にどのように影響を与え、作用を及ぼすか、つまり実践や技術、社会変革といった層。

この三層を貫く「神秘的テンション」こそが、反動進化へと向かう原動力となると考えられます。

近代科学における進化論は、ダーウィンの自然淘汰を前提とし、生物が環境に適応し、より高機能で複雑な形態へと「上昇」し、「知性化」していくという暗黙の価値観を内包してきた。
しかし、近年では、進化には「後退」「単純化」「感覚の喪失」といった、一見すると退行的に見える側面が存在することが認識されている。
例えば、第2項目で考察した人類が尾を失った進化は、単に二足歩行に適応したという機能的合理性だけでなく、尾が持つ多様な感覚や機能を削ぎ落とす「機能最適化の退行」であるとも解釈できるだろう。
この尾の喪失は、TBXT遺伝子への「Alu配列」という反復DNAの挿入によって引き起こされた遺伝子変異が原因とされているが、この変化は環境適応というよりも、ある種の「情報的封鎖」の産物である可能性を示唆している。
さらに、この遺伝子変異が、神経管欠損症という「適応コスト」を伴っていたという事実は、進化が必ずしも「最適」な経路を辿るわけではないことを表している。
FICSAでは、これを「進化の神秘的スイッチオフmystic deactivation」と呼んでいる。
これは、身体の一部や特定の機能が「封印」されることで、逆に「原初的知覚」や「潜在性」が温存されるという逆説的な効果を重視するものだ。
つまり、何かを失うことによって、別の、より根源的な能力や感覚が活性化される、という考え方である。
ジョルジュ・バタイユの思想における「非生産的聖性」の概念は、反動進化論と深く関連している 。
バタイユは、近代の合理主義や有用性を追求する社会が排除してきた「役に立たない知」にこそ、真の価値や聖性が宿ると考えていた。
彼の「ファトラジー」は、まさにこうした「役に立たない知」の領域を回収しようとする試みだった。
反動進化論の観点では、文明と合理性によって抑圧されてきた「裸の原初的生命」が、この「反動」のプロセスを通じて再出現すると考えられている。
FICSAの観点では、進化は必ずしも未来を志向する直線的な進歩ではなく、「現在」という時間構造の中で、生命の「古層的形態」を掘り起こす行為だ。

5. 結論:虚構科学は神秘と科学を繋ぎうる

FICSAは、既存の宗教でも科学でもない、まさに「語られざる真の神秘を取り戻す形式」であると位置づけられる。
それは、ジャン・ボードリヤールが語る「シミュラークル」が現実にとって代わった現代において、「信じられる虚構」として成立する。
科学の語りが、再現される構造の背後にある「未知なるもの」への通路を閉ざす一方で、その閉鎖性自体が再び「神秘性」として感得されることは、科学言説の宗教的な循環性の証左となる。
科学を信仰することと、神秘を問うことは、もはや対立するものではない。
両者は、私たち人間が「未知」なるものに向かって探求を続けるための、二つの異なる、しかし補完し合う「翼」となれるのだ。
では「なぜ失われるのか」という根源的な問いを投げかけるとするならば、この問いは、単なる進歩や獲得だけが意味を持つのではなく、「損失そのものに意味がある」という宗教的な直観と深く結びつくと答える。
失うことは、単なる欠損ではない。
より大きな神秘の中に「再統合される」こと――すなわち、反動進化を行い、原点へと回帰するのだ。

FICSAは、人間が進化の過程で失ってきた器官、無効化された知、剥奪された感覚を、「神への祈りのかたち」として捉えている。
人間は、尾を失い、飛行能力を失い、水中で呼吸する力を失うことで、特定の「人間の枠」を形成してきた。
これらの「損失」は、単なる退化ではなく、人間という存在が持つ固有の特性や潜在能力を確立するための「聖なる犠牲」でもあった、と考えることができる。
だが人の枠組み、個性だけでは既に頭打ちである。
我々は再び聖なる犠牲を払わなければならない。凝り固まった科学という概念の檻に閉じ込められた、原始の神秘を解き放つための犠牲である。

十分に発達した科学技術は、神秘と見分けがつかないように、十分に発達した神秘は科学と見分けがつかないのだと、証明するのだ。

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参考資料
生物学的複雑性の物理的基礎
生命の起源における量子臨界
Towards physical principles of biological evolution
昆虫如何控制翅膀:昆虫飞行的神秘机制
基因揭秘人類如何「甩掉」了尾巴
ジョルジュ・バタイユによる民族誌学、考古学、神秘思想をめぐる考察とファトラジー翻訳 : 回収と改編、価値観の再編
近世神秘神学の誕生 : 近世カルメル会学派の「神秘主義」と「スコラ学」
J.-J. スュランと「反神秘主義」 : ある霊的闘争のゆくえ
場所から非-場所へ : ミシェル・ド・セルトーにおける「書くこと」のモティーフ
理解社会学的認識の論理と心理 ヴェーパー思想による「現代科学の転回」
ブリュノ・ラトゥールの科学技術論
虚構の近代
ゾラにおけるニヒリズムの超克 ―科学信仰から〈未知〉の畏敬へ―
聖書