RECORD
Eno.368 煤掛ヶ原 黎瑛の記録
甘氷黎瑛は、思い返せば生まれる前から、火に縁のある人間だった。
そう話してくれたのは、年の離れた兄である甘氷蒼杜だ。
詳しい話を聞かせてくれと頼むと、彼ははじめこそ躊躇いを見せたが、やがて弟の為になるなら、と了承してくれた。
「うちの両親は、」と彼は重々しげに溜息をつくと、10年ほど前のことを懐かしむように話し始めた。
「両親は、結婚してもう30年近くになります。
今でも本当に呆れるくらい仲がいいんですが、ずっとそうだったかって言うと、さすがにそういうわけでもないんです。
俺が高校に上がる頃だったかな、それくらいの時期には、なんというか……微妙な雰囲気だったのは間違いないです。
あの頃は俺自身も……その、いわゆる反抗期というやつで。だから家の空気が悪かったのは、俺にも責任があったとは思っています。
だけど両親にも、夫婦なりにいろいろあったんでしょうね。それは今の俺には、全く想像出来ないわけじゃない。
そういうわけで……あいつが生まれる前の我が家は、正直言ってあまり良い状態じゃなかったんです。
今からもう一人子供が生まれるなんて、とても信じられなかったな」
甘氷夫妻は若くして結婚し、彼は早いうちに生まれた子供だったという。
家庭環境が悪いと感じたことはそれまでなかったそうだが、若い夫婦には苦労もあったはずだ。
その為に少しずつ少しずつ、二人の間の気持ちが噛み合わなくなったのだろうとは、難しい年頃の息子でも容易に察せられたようだった。
「仲が悪くなったっていうよりは、歯車がずれてるって感じでした。
嫌いじゃないんだろうけど、すれ違っているというか。
これが続いたら、もしかしたら離婚するかも、なんて思うこともありましたね。
だから……そういう意味では、あれは不幸中の幸いだったというか……いや。
結果的にはむしろよかったと言うべき、かな。
少なくとも、両親のことに限って言えば、ですが」
彼はそこで再び重い息をついた。喉が渇いたのか、目の前にあるカップを一気に呷る。
結局何があったのか、と問いかけると、やがて苦々しげに眉を顰めて、彼が再び口を開いた。
「……確か、秋頃だったと思います。俺が17の時だから、あいつの生まれる1年半くらい前か。
夜中に突然、家が火事になったんです」
火事、と鸚鵡返しすると、彼は自分でも事実を確かめるように頷いた。
「そう、よく覚えてます。その夜俺は、自宅にはいなかったから。
家に帰るのが嫌で、友人と遅くまで出掛けていたんです。
でも家が燃えたって連絡があって、慌てて帰った時にはもう、かなり火が回っている状態だった。
野次馬が大勢いて、サイレンが少し離れた場所で鳴っていて。もうすぐ消防車が来るって、頭ではわかってました。
だけど、それどころじゃなかった。少し離れたところで、近所の人に羽交い締めにされるみたいにして、父さんが大きな声で叫んでいた。
中にまだ母さんがいるんだって、絶望するみたいに叫んでたんです」
この話をする間、彼は何度も溜息をついた。
軽々しく話すことではないし、それ以上に彼の中には様々な思いが巡っているのだろうから、当然のことだ。
彼が飲み干したカップにお茶を注ぐ。
淡い色のハーブティーは、心を落ち着かせる効果があるから。
「後から聞いた話ですが、母さんはどうしても大事なものがあるからって、父さんを先に行かせて自分は後から逃げるつもりだったらしいんです。
父さんは父さんで、脱出路を確保するのに窓ガラスを割って、あちこちに怪我をしてました。
……ああ、もちろん幸い、家が燃えた以上の被害はありませんでした。
母さんは父さんが割った窓からちゃんと逃げ出せたし、父さんの怪我も大したことはなかった。
消火が早かったおかげか、延焼することもなかったし、だから話はそれだけなんですが。
……その火事の後なんです。
どうにも上手くいってなかった両親の関係が、目に見えて改善されたのは」
彼はそう言って、軽く肩を竦めた。
呆れているように見えたが、どこか複雑な気持ちを隠す為の動作のようにも思えた。
火災に見舞われたことで、互いを大事に思う気持ちが蘇ったということだろうか。
想像を口にすると、彼はたぶん、と頷いた。
「両親のことに関しては、そうなんだろうと思います。元々別に、お互い嫌い合ってたわけじゃないんだろうから。
まあ、家が燃えたから、その後はいろいろ大変ではありましたが……その分絆が深まったというか……むず痒い言い方になりますけど。
俺も、遊び歩いてる間に家が燃えたのは、かなりショックではあったので。
反抗期はそれで終わりって感じでしたね。
幸い母方の実家が近くにあったから、しばらくはそこに住むことになって、俺の生活自体にはそう変わりはありませんでした。
……いくら夫婦仲が良くなったからって、高校生にもなって弟が生まれるとは思いもしませんでしたが」
彼は再びカップを口にした。
今度こそ呆れたように言いながらも、言葉には温かい思いしか込められていないのが明らかだった。
かつての思いを取り戻した両親にも、その証として生まれた弟にも、彼は確かな愛情を抱いているのだろう。
しかしその一方で、引っかかることがあるのもまた事実であるようだった。
思うところがあるのなら、それを聞くこともお役目のひとつだ。
何か気がかりなことがあるのか、と問いかけると、彼の整った眉がぎゅっと強く顰められた。
「……ずっと気になっていることはあります。
実はあの火事の原因が何だったのか、未だにはっきりとわからないんです。
火が出た時間は23時を回っていて、家の中で誰も火なんて使っていなかった。
両親は早めに寝ついていたらしいし、俺も家にはいなかったんだから、過失ということは有り得ないと思います。
漏電したりした可能性はあるだろうけど、そういった痕跡も特になかったと言うし……。
そうじゃなければもう、放火なんかの可能性を考えるしかないけど、火元が家の中だったのは間違いないらしくて。
……話を総合すると、誰もいない、何もない一階の廊下が、突然燃え出した。そうとしか考えられないんです」
話すことを酷く恐れるように、彼の声は重くなった。
無理からぬことだった。
彼は今、彼のそれまで知らなかった未知のこと、埒外のことについて話しているのだ。
尤も、彼がそうまで頑なな人物でないのは、これまでの関わりで既にわかっていた。
埒外のことを受け入れられない人間ではない。
この話も、ただそれだけで済むのであれば、こうまで不安な声音を漏らすことはなかったのだろう。
彼が恐れているのは、過去ではない。
彼が恐れているのは、自分の身に降りかかることではない。
彼が恐れているのは……
「……偶然だとは、思うんです。
ただ火事があった。それだけだ。その後にあいつが生まれたのは、ただの偶然。
何もかも全部、そうだと思ってる。
……思いたいだけ、なのかもしれないけど」
彼は恐れを打ち明けるように、そう呟いた。
もちろん、と、頷くことは簡単であった。
けれどもそれは許されないことでもあった。
だからといって、恐れを抱く者に対して、可能性という名の解釈を突きつけることが善だとは思われない。
故に、伝えられることはいつも同じだった。
どうぞ、信じることを失わないでください。
恐れを、希望を、愛を失わないでください。
繋ぐ手が強ければ強いほど、多ければ多いほど、人はあるべき場所に留まることが出来るのですから。
「……そう、ですね。
もちろん、わかっていますよ。
俺は両親にだって、彼女にだって負けないくらい、あいつを大事に思ってる。
心配が尽きないだけです。悪い癖だとは思うけど、もう性分だから、直らないんだろうな。
……話を聞いてもらえて、少し気が楽になりました。
あいつのことをよろしくお願いします、真秀羅崎さん」
両膝に手を置き、深く頭を下げて、彼はそう言った。
真摯な、これ以上ないくらいに真摯な、正しい人の姿であった。
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踊るサラマンデル①
甘氷蒼杜の述懐
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踊るサラマンデル①
甘氷黎瑛は、思い返せば生まれる前から、火に縁のある人間だった。
そう話してくれたのは、年の離れた兄である甘氷蒼杜だ。
詳しい話を聞かせてくれと頼むと、彼ははじめこそ躊躇いを見せたが、やがて弟の為になるなら、と了承してくれた。
「うちの両親は、」と彼は重々しげに溜息をつくと、10年ほど前のことを懐かしむように話し始めた。
「両親は、結婚してもう30年近くになります。
今でも本当に呆れるくらい仲がいいんですが、ずっとそうだったかって言うと、さすがにそういうわけでもないんです。
俺が高校に上がる頃だったかな、それくらいの時期には、なんというか……微妙な雰囲気だったのは間違いないです。
あの頃は俺自身も……その、いわゆる反抗期というやつで。だから家の空気が悪かったのは、俺にも責任があったとは思っています。
だけど両親にも、夫婦なりにいろいろあったんでしょうね。それは今の俺には、全く想像出来ないわけじゃない。
そういうわけで……あいつが生まれる前の我が家は、正直言ってあまり良い状態じゃなかったんです。
今からもう一人子供が生まれるなんて、とても信じられなかったな」
甘氷夫妻は若くして結婚し、彼は早いうちに生まれた子供だったという。
家庭環境が悪いと感じたことはそれまでなかったそうだが、若い夫婦には苦労もあったはずだ。
その為に少しずつ少しずつ、二人の間の気持ちが噛み合わなくなったのだろうとは、難しい年頃の息子でも容易に察せられたようだった。
「仲が悪くなったっていうよりは、歯車がずれてるって感じでした。
嫌いじゃないんだろうけど、すれ違っているというか。
これが続いたら、もしかしたら離婚するかも、なんて思うこともありましたね。
だから……そういう意味では、あれは不幸中の幸いだったというか……いや。
結果的にはむしろよかったと言うべき、かな。
少なくとも、両親のことに限って言えば、ですが」
彼はそこで再び重い息をついた。喉が渇いたのか、目の前にあるカップを一気に呷る。
結局何があったのか、と問いかけると、やがて苦々しげに眉を顰めて、彼が再び口を開いた。
「……確か、秋頃だったと思います。俺が17の時だから、あいつの生まれる1年半くらい前か。
夜中に突然、家が火事になったんです」
火事、と鸚鵡返しすると、彼は自分でも事実を確かめるように頷いた。
「そう、よく覚えてます。その夜俺は、自宅にはいなかったから。
家に帰るのが嫌で、友人と遅くまで出掛けていたんです。
でも家が燃えたって連絡があって、慌てて帰った時にはもう、かなり火が回っている状態だった。
野次馬が大勢いて、サイレンが少し離れた場所で鳴っていて。もうすぐ消防車が来るって、頭ではわかってました。
だけど、それどころじゃなかった。少し離れたところで、近所の人に羽交い締めにされるみたいにして、父さんが大きな声で叫んでいた。
中にまだ母さんがいるんだって、絶望するみたいに叫んでたんです」
この話をする間、彼は何度も溜息をついた。
軽々しく話すことではないし、それ以上に彼の中には様々な思いが巡っているのだろうから、当然のことだ。
彼が飲み干したカップにお茶を注ぐ。
淡い色のハーブティーは、心を落ち着かせる効果があるから。
「後から聞いた話ですが、母さんはどうしても大事なものがあるからって、父さんを先に行かせて自分は後から逃げるつもりだったらしいんです。
父さんは父さんで、脱出路を確保するのに窓ガラスを割って、あちこちに怪我をしてました。
……ああ、もちろん幸い、家が燃えた以上の被害はありませんでした。
母さんは父さんが割った窓からちゃんと逃げ出せたし、父さんの怪我も大したことはなかった。
消火が早かったおかげか、延焼することもなかったし、だから話はそれだけなんですが。
……その火事の後なんです。
どうにも上手くいってなかった両親の関係が、目に見えて改善されたのは」
彼はそう言って、軽く肩を竦めた。
呆れているように見えたが、どこか複雑な気持ちを隠す為の動作のようにも思えた。
火災に見舞われたことで、互いを大事に思う気持ちが蘇ったということだろうか。
想像を口にすると、彼はたぶん、と頷いた。
「両親のことに関しては、そうなんだろうと思います。元々別に、お互い嫌い合ってたわけじゃないんだろうから。
まあ、家が燃えたから、その後はいろいろ大変ではありましたが……その分絆が深まったというか……むず痒い言い方になりますけど。
俺も、遊び歩いてる間に家が燃えたのは、かなりショックではあったので。
反抗期はそれで終わりって感じでしたね。
幸い母方の実家が近くにあったから、しばらくはそこに住むことになって、俺の生活自体にはそう変わりはありませんでした。
……いくら夫婦仲が良くなったからって、高校生にもなって弟が生まれるとは思いもしませんでしたが」
彼は再びカップを口にした。
今度こそ呆れたように言いながらも、言葉には温かい思いしか込められていないのが明らかだった。
かつての思いを取り戻した両親にも、その証として生まれた弟にも、彼は確かな愛情を抱いているのだろう。
しかしその一方で、引っかかることがあるのもまた事実であるようだった。
思うところがあるのなら、それを聞くこともお役目のひとつだ。
何か気がかりなことがあるのか、と問いかけると、彼の整った眉がぎゅっと強く顰められた。
「……ずっと気になっていることはあります。
実はあの火事の原因が何だったのか、未だにはっきりとわからないんです。
火が出た時間は23時を回っていて、家の中で誰も火なんて使っていなかった。
両親は早めに寝ついていたらしいし、俺も家にはいなかったんだから、過失ということは有り得ないと思います。
漏電したりした可能性はあるだろうけど、そういった痕跡も特になかったと言うし……。
そうじゃなければもう、放火なんかの可能性を考えるしかないけど、火元が家の中だったのは間違いないらしくて。
……話を総合すると、誰もいない、何もない一階の廊下が、突然燃え出した。そうとしか考えられないんです」
話すことを酷く恐れるように、彼の声は重くなった。
無理からぬことだった。
彼は今、彼のそれまで知らなかった未知のこと、埒外のことについて話しているのだ。
尤も、彼がそうまで頑なな人物でないのは、これまでの関わりで既にわかっていた。
埒外のことを受け入れられない人間ではない。
この話も、ただそれだけで済むのであれば、こうまで不安な声音を漏らすことはなかったのだろう。
彼が恐れているのは、過去ではない。
彼が恐れているのは、自分の身に降りかかることではない。
彼が恐れているのは……
「……偶然だとは、思うんです。
ただ火事があった。それだけだ。その後にあいつが生まれたのは、ただの偶然。
何もかも全部、そうだと思ってる。
……思いたいだけ、なのかもしれないけど」
彼は恐れを打ち明けるように、そう呟いた。
もちろん、と、頷くことは簡単であった。
けれどもそれは許されないことでもあった。
だからといって、恐れを抱く者に対して、可能性という名の解釈を突きつけることが善だとは思われない。
故に、伝えられることはいつも同じだった。
どうぞ、信じることを失わないでください。
恐れを、希望を、愛を失わないでください。
繋ぐ手が強ければ強いほど、多ければ多いほど、人はあるべき場所に留まることが出来るのですから。
「……そう、ですね。
もちろん、わかっていますよ。
俺は両親にだって、彼女にだって負けないくらい、あいつを大事に思ってる。
心配が尽きないだけです。悪い癖だとは思うけど、もう性分だから、直らないんだろうな。
……話を聞いてもらえて、少し気が楽になりました。
あいつのことをよろしくお願いします、真秀羅崎さん」
両膝に手を置き、深く頭を下げて、彼はそう言った。
真摯な、これ以上ないくらいに真摯な、正しい人の姿であった。
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踊るサラマンデル①
甘氷蒼杜の述懐
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