RECORD

Eno.503 不来方 恋乃葉の記録

問3.ハ長調を英語で示した場合の名称を答えよ。


 音楽は好きか嫌いかで言えばどうでも良かった。
 点が取れる教科の印象も無いし、習った事も無い。
 別に好きなアーティストも居なかったと思う。

 お店で試しにマイクを渡された時は本気で拒んだ、
 人前で歌うなんて恥ずかしいし、聞き苦しいだけだ。
 練習をしていない物を自信を持って提供できる程、
 私は心臓も強くなければ自信過剰でも無い。
 出来ない事は出来ないから、練習しないと自信がない。


「今日も機種はいつもので大丈夫でしょうか?」

「はい、いつものでお願いします」


 例えば特技をあげるなら、計算が早い事があるけれど
 これだって歩きながら出てくる看板なんかの数字を
 つい足して足してをしていったら早くなった。
 車に乗って、流れる対向車線のナンバープレートを読む、
 それを母が運転する車の助手席なんかで繰り返したりもした。
 物覚え自体が良いのは、お母さんが忘れっぽいから。
 そうやって、沢山こなしてようやく身につくのが私だ。

 国語は問題集をネットであらかた解いて、
 あの意味不明な「作者の意図を答えなさい」だとか
 登場人物の感情を問う内容なんかを覚えただけ。
 正直あの辺の解法は、実は結構怪しい。


「……さて、まずはいつもの『慣らし』からっと――」


 話を戻すけれど、私にとって歌は何でもない道具だった。
 そうしたら盛り上がる、お店が潤うし給料にも色がつく。
 ちょっとしたボーナス技能、資格を取ると給料アップ!
 世間によくあるそんな優遇条件と対して変わらない。
 正しく商売道具であり、あくまで出来る事の1つだ。

 メジャーデビューとかは到底遠いし、あくまで真似事。
 詰めれば詰める程、本物との差が良く分かる様になっていく。
 喉自体の完成度、音感やリズムの感覚、スタミナや再現性。
 生命をかけても挫折する人が居る世界なのだから当たり前だ。
 私のレベルなんて、精々アマチュアの中では上手い位だ。

 動画用はプロのMIX師に大枚をはたいて、
 ようやくそれらしい感じに仕上げて貰ってるし
 結構完成品ではいじられたなって事も多い。
 正直、その差を実感する度にライブで歌うのがちょっと怖い。

 歌えば歌う程、慣れれば慣れる程、
 そういったミスは減るけどゼロには中々ならない。
 土日やバイト後、たまに通って練習したりしているけれども。
 やっぱり、全然荒削りだなって思う。遊ぶ分には十分だけど。

 正直、もっと賢い投資もあると思うけど、
 あくまでこの形に落ち着いてしまったのは
 いわゆる世間的に言う好きって部類の事なのかも知れない。

 多分楽しくない訳では無い、続けて苦ではないので、
 私は歌うのは苦手ではないのだろうし、好ましいのだろう。



「……ふぅ、ちょっとお茶飲も」



 まだ練習をするのは、それが得になるからだ。

 SNSが一般化した時代に置いて、メディアのパワーは凄い。
 私が知らない人にまで動画をあげれば歌が届く。
 拡散され、更に広まって、より大きく広まるのを繰り返す。
 それこそ水面に浮かぶ波紋みたいに。
 少なくとも、一店舗の名物店員としての知名度を稼ぐなら、
 十分過ぎる程にその効力は大きかった。

 もちろん、歓声だけじゃなく批判も浴びたし、
 全くもっていわれの無い酷い言葉や憶測なんかも浴びせられた。
 でも、それが霞む位には色んな人に見て貰えたのは嬉しい。
 頑張った事が報われる、そんな実感を久々に勝ち取った。

 だから私は、余りに即物的な考え方かも知れないけれど、
 この歌というものに投資をする楽しさを知ってしまった。



(現金だよなぁ……私って)



 たまにそう思う。友達と遊ぶ時も正直時給換算する。
 いくらまでならかけていいとか、実は考えてしまう。
 ちょっと卑しい気がして、自分でどうなんだろって思う所。
 まあでも、既に自分なりに折り合いは付けている部分だ。
 その方が節約できるし、浪費家よりはずっと良い。

 よく音楽について、楽しいから歌う、みたいな
 キラキラした動機のインタビューだとか、それが生き様、
 それこそ音楽は音を楽しむ物だからだ! なんて、
 プロのインタビューでも言われているけれど、
 私にとってはやっぱりそういった物ではない気がする。

 私にとっては、きっと現状の限りでは道具だ。

 前述通り、音楽はツールであり、マーケティングの為の戦術や
 お金稼ぎの為のスキルだとか、ちょっとした一芸に過ぎない。
 この藍澄来ルルという存在をより強固に盛り立てて、
 世界観だとかコンテンツとしての強みを増す為の武装だ。

 きっと歌は、私というよりは藍澄来ルルの一部。

 そんな気が今もしている。
 ついこの間、友達とのカラオケではまたちょっと、
 違った胸の疼きを覚えた様な気がしたけれど――

 あれは、なんというものだろうか。



「また行きたいなぁ……」



 大変で大変で仕方がなかった筈なのに、ふとぼやいていた。

 ルルじゃない時くらいなら、もっと楽しんでも良いのかも知れない。
 その位の事ならば、思ってもバチは当たらないと信じたいな。
 楽器とか、格好良かったし始めても良いのかもね。

 スタジオ代とか、考えると頭が痛いけれど。

 バイト代と企業の御駄賃足したら足りるかな、なんて
 薄暗い1人きりのカラオケボックスで思案する日々。



「……やるなら何だろう?」



 店長はバイオリンとか持たせたがってた気もする。
 ギターは一度話だけ振られている、当時は断った。
 今なら頑張れば、何かひとつ位は物になるのだろうか。

 した事がない努力の計算は、あてがないので得意ではない。



「そうだなぁ――」



 悩んでいるうちに、次の曲が始まってしまった。