RECORD

Eno.96 加瀬秋日佐の記録

学部4回生春


「こんなん知って何になるん」

パソコンのモニターに並ぶ文字を眺めて、女は無邪気に尋ねる。
腐るくらいに浴びせられた問い。
男はキーボードから手を放し、椅子をくるりと回して女に向き合った。

「それ同じこと聞いたろか。
ここまでの論旨は理解しました、ではこの研究意義を説明してくれますか」
「やめてくれん、うちの教授の声真似すんの!」

きゃらきゃらと軽やかな女の笑い声は揶揄い合いの延長にある。
女は椅子を引っ張ってきて、モニターを囲むように座り始める。

「それ、加瀬も聞かれとったやろ。何て答えたんやっけ」
「近年は中央文化との差異に着目し、東北文化の独自性を強調する論が主流でした。
しかし、この時期の各地の勢力はその権力構造からしても中央と無関係と見做すことは不可能であり、これは歴史学からも明らかにされています。
であるからして、その同一性を改めて詳らかにすることで、明確に東北文化の独自性を見出すことが可能になり、」

滑らかに続く語り。女は堪忍して、と回り続ける口を掌で塞いだ。
男は笑って細い指に軽く歯を立てる。

「ちょお、止めてや。どこやと思ってんの」
「ゼミ室やろ」
「あほちゃうん」

講義の最中の時間だが、この二人には何の授業も入っていない時間帯だった。
ゼミ室に普段よりずっと人が少ないのは、この時間は教職の講義があるから。
文系は教職をとる人間がやや多い。おかげで珍しく二人きり。
女はふざけて男の膝の上に座る。

「ここどこやと思ってんねん」
「ゼミ室やんね」
「アホやな」

女を抱きしめて擽れば身を捩って腕を叩かれる。
しばらく続けてから解放すれば、女は笑い涙を浮かべて離れていった。

「今週末、デートって言ってたん行けるん」

椅子を片付けがてら女が尋ねれば、男から呻きが漏れる。

「……どうにかするわ」
「してね。約束やからね」

声援を残して女は部屋を出ていく。
男は再びモニターに向き合って、キーボードを叩き始める。

「何になる、なあ」

大学院にまで上がろうと決めていた。公言もしている。家族は反対していない。
幼い頃に美術館で目にした金色の輝きに心を焼かれてから、それを追いかけていた。
進学するのであれば、その前提でゼミの質疑応答においてはやや厳しい質問が飛び交う。研究の価値証明を当然求められる。
研究の新規性のみならず、それはしばしば研究の実用性・存在意義にまで及ぶ。
文系学術分野は世間からは厳しい目で見られがちだ。つまりは『こんなん知って何になるん』、と。

「知りたいだけやとあかんのか。価値やら、意味やら」

人一人の部屋でキーボードを叩く音が徐々に大きくなる。

「何でそんなに、」

指が滑って、入力途中の文字列が一気に消える。悲鳴があがった。