RECORD

Eno.707 随 意の記録

1.[逆]監視対象101との対話ログ20250629(抜粋)

 初夏の日差しが、白れんがの花壇を照らしていた。

 光の粒が弾けるかのような眩しさの中で、小さな噴水と色とりどりの花が微風に揺れている。
 甘い香りと夏の濃い緑の匂いが花園に漂っていて、それらはまるで命の躍動する季節がやってきたことを言祝ぐかのように生き生きとしていた。
 ミツバチが花の蜜と花粉を集めている。ひらひらと踊る小さな白い蝶を、子猫が追いかけている。虫たちが柔らかな土の上を、楽土を探して歩いている。
 鳥は木陰で愛の歌をうたい、枝から二羽連れ立って深い青色をした空へと飛び立っていく。


 花園を抜けた向こうにある、花壇と同じ白れんが造りの教会から鐘の音が響いた。
 建物の正面扉が開き、カソックを纏った壮年の男がゆっくりと階段を下りてきた。あとから三々五々、日曜の礼拝を終えた者たちが続く。
 見送りのために玄関先に立った神父に微笑みながらお辞儀をしたり、挨拶をしたり。各々の方法で男への親愛を示しながら、皆は花園を抜けて教会を後にする。
 男は微笑みながら、最後の一人の背中が見えなくなるまでそれを見送った。

 ふと、男は目の前に広がる花園をぐるりと見渡した。早朝に手入れをしたそこが荒れているわけもなく、しかし何処か感じた違和感に小首をかしげた。
 どことなし、胸の中がざわつくような。
 神の目に晒されている者が意味もなく心を乱していてはいけないと、頭の中で理性が窘める。男はひとつ深呼吸をして、甘く豊かな夏の香りを吸い込んだ。
 建物の中に戻ろうとしていた足の向きを変えて、花園へ続く階段を一段ずつゆっくりと下っていく。
 夏の暑さのせいだろうか。心臓の鼓動が強く、速くなっていくのを、男は努めて無視しようとしていた。

 違和感の正体にはすぐに気が付いた。
 噴水の手洗い場から、ひとの気配がする。

 水が流れ落ちる規則的な音に混じって、ぱしゃ、ぱしゃ。と顔を洗うような音が響いていた。
 男はつい、胸を撫でおろさずにはいられなかった。きっと花園へ遊びに来た子供が、汗ばんだ顔を洗っているのだろう。
 先ほどまで感じていた少しばかりの緊張に、我ながら小心者だと己を恥じながらも、男はその足を噴水の方へと向ける。
 想像した通り、手洗い場では一人の少女が顔を洗っていた。
 何度も。
 繰り返し、何度も。
「──こんにちは」
 声を掛けると、少女はぱっと顔を上げて、顔についた水の雫に陽の光を反射させながらこちらを振り向いた。
 刹那、神父は己の魂を鷲掴みにされたかのように、その少女から目が離せなくなった。

 小学生……いや中学生だろうか。それくらいの年頃に見える少女は、小奇麗ながらも奇妙な風体をしていた。
 ダークブルーとホワイトでまとまったセーラー調のツーピースに、頭には大きなリボン。脚は白いサイハイソックスをガーターで止め、靴はキャンバスブーツの裾を折って履いている。
 肩から大きめのショルダーバッグを提げていて、そのベルトには顔を洗う際に外したのであろう黒い皮のハーフグローブが引っ掛けられている。
 何よりもその少女を非現実的たらしめていたのは、その髪色と瞳だ。
 ストロベリーブロンドのショートボブに、トパーズのような明るい橙色の瞳。その瞳孔はまるでどこかの漫画に出てくる登場人物であるかのように、大きなバツ印を象っている。

 男が手ずから整えた白い花園の中にあって、少女の姿は寧ろ、その美しい風景の中によく似合っているようですらある。男は少しの間、言葉を発することができなかった。
 まるでファンタジックな小説の挿絵の一枚に、自らが閉じ込められてしまったかのよう。この歳に至るまで、それなりの人生経験は積んできたつもりであるのに。
 そんな非現実的な思考に囚われてしまった男が言葉を紡げないでいるうちに、少女はバッグから小さなハンドタオルを取り出して濡れた顔を拭き、男に向きなおって礼儀正しくお辞儀をした。

「こんにちは、神父さま。とっても綺麗なお花畑でしたので、つい無断で入り込んでしまいました……ごめんなさい」

 少女は丁寧な日本語で、男に話しかけた。高く澄んで甘い、容姿から自然と想像された通りの声だった。至って常識的なその言動に、男はふいに現実へと引き戻される。
 何となし、その少女は流暢な外国語の話者なのではと、男は勘ぐっていた。
「ああ、いや……いいんだよ。ここは教会なのだから、敷地は皆に解放しているんだ。花園を気に入ってくれたなら、それは私にとっても喜ばしいことだ」
 いい歳をした大人があまり面食らっていてはいけない。男は努めて平静を装うと、目の前の少女に優しく語り掛ける。
「今日は、一人で来たのかい?」
「はい! お父様とお母様はお仕事をしていらっしゃるので、まにまは一人ですっ」

 まにま。彼女の名だろうか?
「そうか。ご両親はとてもお忙しくされているのだね。尊敬すべきことだ、きっと君を健やかに育てるため、愛情を以て必死に頑張っていらっしゃるのだろう」
 日曜の休みに、まだ年若いであろう娘を独りで放り出すとは……と心で思ったことはおくびにも出さず、男は微笑んだ。
 少女は嬉しそうにはにかむと、胸の前で手を握り合わせる。
「ですから、今日はお父様とお母様が健康でいられるように、お祈りをしにきたんです!」
「おお……」
 あくまで無邪気な様子の少女に、男は今度は本心からの感嘆を漏らした。数歩歩み寄って、少女の前で片膝をつき視線を合わせる。微風が、花壇の花々を揺らしていた。
「君、お名前を教えてもらっても?」
「はい! 難しい方の“随う”に意識の“意”の二文字で、“まにまこころ”。随意です♪」
「分かったよ、まにまさん。君の優しい思いに、主もきっと喜ばれる。祈りは届くだろう。私も共に祈らせてもらえないだろうか?」
 一瞬湧きあがった、少女の名に感じた奇妙さと違和感は。
 すぐに、その天使のような笑顔に押し流された。
「わぁ……いいのですか? 神父さまに一緒に祈っていただけるなんて、とっても嬉しいですっ。ぜひ、お願いいたします!」
「これこそ神父の務めだとも。だがその前に、暑い中を歩いてきて疲れただろう? 少し時間をとってお茶に招待しよう。
水分と甘いものを少し摂って休憩する程度の時間なら、主も待ってくれるだろうからね」
「やったあ! まにま、実は喉からからだったんですっ」



 ──今になってみれば、その時に感じた違和感こそが主よりの最後の慈悲であり最終警告であったのかもしれないと、そう考えずにはいられない。
 あるいは、私という人間が感じた危機への生物的直感であったのだ。
 それを無視してしまった。その時点で、私の末路は定まっていた。
 私は……悪魔に魅入られたのだ。


「神父さま?」
「なにかな、まにまさん」
 少女は、先ほどまで彼女が顔を洗っていた石造りの小さな噴水と手洗い場を指さした。そこには外国語で短文が彫り込まれている。
 彼女の興味は、どうやらそれに向いているらしかった。
「あれはどういった意味なのか、教えていただけますか?」
「勿論だとも。あれはね」


「“己の顔だけでなく己の罪をこそ洗い流せNIψONANOMHMATAMHMONANOψIN”と、そう書いてあるんだ」