RECORD

Eno.75 鵲 墨の記録

薄墨の記録1

それは、境目がほどけるように始まった。

陽が傾いた黄昏時。
何の変哲もない、春先の坂道。
男の隣には、もう一人いたはずだった。
一歩後ろを歩き、黙ってともに歩く。
記憶の中にいる隣の人がどんな表情をしていたか、思い出すことはもう難しい。


刹那、音が止まった。

そこにあったのは、影。
墨のように真っ黒な、巨大な影。

気がつくと──隣に歩いていたものは消えていた。

空気が変わって。聞こえるものがなくなって。
見慣れたはずの町の輪郭がすべて歪んで異様に変わってしまった



それが裏世界に入った最初の瞬間だった。

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その後、男は「保護」された。

そこには自治体のような集団が存在していて。
──裏世界に適応した者たちによる、一種の共同体の組織があるのだと教わった。

人であったり、かつて人であったものだったりする彼らは男に告げた。

「防護術を持つのならば、歩いてもいい。
 探すんだろう? いなくなったその人を」

まだ、自分がどこにいるのかも分からなかった男は。
それでも、ここが元居た世界と違うことだけは直感で分かった。

案内をしてくれる者が人なのか、そう見せているだけなのか。
ついぞその時は判断がつかなかった。

「長くいれば、還れなくなるよ。
 でも、入ってしまったなら、説明くらいはしなきゃね」

どこか無責任なようで、慈悲深いようで。
最低限のことだけが、ぽつぽつと与えられた。
何が本当で、何が嘘か。
彼には分からなかった。だが──

「君が歩くというのなら、道はできるよ」

その言葉だけが、妙に現実味を帯びて胸に残った。


男はその日から、裏世界を歩く者になった。
失われた誰かを追って。
何かを受け取ったのか、何かを失ったのかも分からぬまま。
彼は、まだ戻れるつもりで歩きはじめた。

その先に何があるのかも知らずに。