RECORD

Eno.1379 久瀬 あざみの記録

②ー0.5

私は日常に帰還した。
心配をかけてしまった友人たちの手によって私は数日間強制入院した。
動かなくなった左腕を治すようにと。

その左腕もどうにかなりそうな頃、寝付けなかった私は久しぶりに夜の街に繰り出した。
そこで見聞きしたこと自覚したもの、失った事実と手に入れた真実は、
今後も私の往く道を照らしてくれるだろう。

今回はそんなお話。


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あざみ [Eno.1379] 2025-07-11 00:26:40 No.3553906

最初はたかだか片腕が壊れたくらいで入院なんて大げさな……と、
心の何処かで軽く考えて、思っていた。

なんとなく雰囲気を察して大人しく病院に連れて行かれた。
別に病院は嫌ではなかった。消毒液のようなあの匂いは嫌いじゃない。

むしろ、そこまで私に優しくしてくれることへの、
申し訳無さの方が強くて、これ以上心配や迷惑をかけたくなくて、
大人しくここまで来た。

けれどこの、普通に食べて、普通に遊んで、普通に寝るという環境。
それは数日間死に殺し続けていたことで高ぶっていた神経や、
どこか壊れていた精神を現実に引き戻すに十分な環境で。

これは夢ではないんだと、これは狂って見た幻ではないんだと、
当たり前に享受していた日常なんだと、優しく自覚させてくれる。

早く腕治したいな……

なんて、独りごちる。
そろそろ寝よう。明日はたぶんきっと学校に行ける。
それが本当に楽しみで、それが本当に嬉しくて。

病室の明かりを消して、静かに横になった。
おやすみなさい。

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数日間の病院は本当に退屈だった。
だがそれは必要なもののように感じた。
この場を借りて、強制入院させてくれた友達二人にありがとうと言いたい。
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神経外科医 [Eno.1379] 2025-07-14 19:55:34 No.3757046

しばらく待ち、診察室へと通された。
シャツを脱ぎ患部を見せる。

「先日まで入院していた久瀬さんね。
 経過は良好。傷口もそこまで目立たないでしょう。
 縫合した糸も溶けるものだから抜糸の必要もなし」

淡々とした口調で説明される。

「腕神経叢の切断は一般的に軽度なら数週間。
 中程度なら半年から一年ほど
 重度なら数年で手術の必要もあるのだけれど……」

「うん。久瀬さんは軽度ですね。
 あとは若いから神経の回復も早いでしょうし、
 全治一ヶ月程度ですかね」

「もう腕は吊るさなくていい。
 あとはまぁ重いものは持たないこと
 よくいるんだよね、買い物袋持って悪化させる人」

「それじゃあ神経障害性疼痛治療薬……
 まぁ簡単に言えば神経障害性の痛みを和らげる薬と、
 ビタミンB12製剤。神経の再生を促す薬ね。
 一ヶ月分出しとくから。はい、お疲れ様」

早口でまくし立てるように言い渡されて、診断室から追い出された。

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あざみ [Eno.1379] 2025-07-14 19:58:58 No.3757277

「……まぁこんなもんか」

しばらくロビーで待ち、名前を呼ばれる。
処方箋を受け取り支払いを済ませて、静かに病院を後にした。

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あざみ [Eno.1379] 2025-07-14 22:04:59 No.3766628

しばらくは安静に。とは言っても、依頼をこなさなければならない。
親からの仕送りだけではここの家賃や生活費は賄いづらい。
お金を稼ぐためには何かしらをしないとだめだ。

表世界でのバイトをこなすには精神力も体力も低すぎるし、
今まで行っていた裏世界での金策も、もうナイフを投げられないし、
基礎的な運動能力すら低く、今まで通りには行えないだろう。

なるべく早めにどうにかしなければならない。

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全治一ヶ月と診断された。もっと長引くと思っていた。
運良く軽症。だが夏休みを目前に控えた学生にとって一ヶ月はあまりにも長すぎる。

そこで私はクラスメイトの力を借りて治療を試みようとした。
神秘を用いて治療してくれたクラスメイトには本当にとても感謝している。
全治一ヶ月から恐らくは全治二週間程度には回復した気がする。
この場を借りてありがとうと改めてお礼を言いたい。

しかしそれは、もしかしたら間違いだったのかもしれないと今は思う。
自分の事情に他者を巻き込んでしまうというのは、私の性格上、とても気にしてしまった。
人との距離感を見つめ直して、あまり他人とは関わらない方がいいのかもしれないとこの時思った。


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あざみ [Eno.1379] 2025-07-18 23:30:01 No.3915260

「明日から夏休み。本当に何しよっかな。
 宿題の山……これはもうAIに食わせていいだろう……
 ジム通い……体力を付けるのは表でも裏でも有用……
 あとは免許。これはもう、みんなと行くときに行く感じでいい」

「問題は左腕だけど……うん。少しづつ良くなってる」

軽くだが指が動く程度にはなっている。
昨日回復してもらったお陰だ。

ただ、悪いことをしてしまったような気持ちが強い。
あまり他人の事情に踏み込みたくなさそうな人相手に、
私の事情を押し付けてしまったような、そんな気持ちがある。
やっぱり自力で解決した方がよかったのかもしれない。

「……ままならないな、人生って」

私はいつも選択を間違えている。
よくない方へ、よくない方へ、と流れていく。
もしそれがこの街へ来たことが原因なんだとしたら。
もしそれが私自身が生まれてきたことが原因なんだとしたら。
なんて考えてしまっては、振り払うように頭を振る。

「今日はもう寝よう……」

こういう気持ちの時は寝るに限る。
寝てしまえば多少はリセットされるから。

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あざみ [Eno.1379] 2025-07-19 00:06:36 No.3916693

カーテンを締め切り電気も消した暗い部屋の中、ベッドに沈む。
聞こえるのはクーラーの動作音のみ。少し肌寒く感じて薄手の毛布に手を伸ばす。
寝ようとは言ったが寝付けない。
ぼんやりと真っ暗な天井を眺めていることしかできない。

ふとさっきまで考えていたことが頭をよぎり、また思考してしまう。
強い自己否定の言葉と考えが頭から離れない

やっぱり田舎に帰った方がいいんじゃないか。
やっぱり都会で暮らすのは無理があったんじゃないか。

自分の生まれ持った体質をいくら認めようと思っても結局は無理があるんじゃないか。
間違いを減らすには他人と関わることを極力減らした方がいいんじゃないか。

こんな思考に頭を支配されて勝手に落ち込んでいるのなら、
感情なんて不要なもの、切り捨てた方がいいんじゃないか。


「……感情はどう頑張っても殺せない」

力ない独り言が部屋に響いた。
あまり物を置いてないこの自室には遮るものなどあまりなく、
私のどうしようもない言葉は、壁に当たって砕けて散った。

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あざみ [Eno.1379] 2025-07-19 01:02:32 No.3918511

やはり眠ることが出来ず、ゆっくりとベッドから身体を起こす。
しばらくは大人しくしていよう、身体を休めていようと思っていたが、
久しぶりに夜の散歩にでも出かけてみてもいいかもしれない。
行く宛なんてどこにもないが、今はただ、どこかに行きたい気分だ。

部屋の電気を付け、軽く身支度を整える。


「……」

もはやこの部屋には私一人だ。
「おかえり」も「ただいま」も口にする必要はない。
何も言わないように、下唇を強く噛み締めながら、
私は重い扉を開いて夜の世界に飛び出した。

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日記には書いていなかったと思うのでここに記す。
私は誰かと一緒に暮らしていた。けれどその相手は、誰にも言わずこの街を去ってしまった。
私は独りになった。
悲しさ。悔しさ。罪悪感。それらは消せない罪として私に刻み込まれている。
やっぱり他人との距離感を考え直した方がいい。私は他人と関わることに余程向いていないのだろう。


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あざみ [Eno.1379] 2025-07-20 01:36:01 No.3963619

深夜0時を回ったプラネタリウムには、私以外の誰もいない。
街の喧騒も、絶え間なく流れ込む情報の波も、ここには届かない。
リクライニングシートに深く身を沈めると、
ドームの暗闇が優しい繭のように私を包んでくれた。

やがて穏やかなナレーションの声が響き、満天の星が頭上に投影される。
現実では決して見ることのできない、光の洪水。
その一つ一つの煌めきが、私の疲れた心に沁み込んでいくようだった。


『――さて、今宵は北の空に輝く、
 あの有名な7つの星のお話をいたしましょう。北斗七星です』

視線を導かれるままに、大きな柄杓の形をした星々を見つめる。
一つ一つの星の名前が、その由来と共に語られていく。
そして、柄杓の柄の先端、ひときわ強く輝く星が示された。


『柄の先、7番目の星はアルカイド。
 ですがこの星には、古くからの中国の伝承で、
 もう一つの名があります。それは――破軍星はぐんせい

――破軍星。

その言葉が、胸に小さな棘のように引っかかった。
軍を破る星。なんて乱暴で、悲しい名前なのだろう。
他の星々が希望や道標の物語を持つのに、この星だけが『破壊』を宿している。

煌びやかな星々のただ中で、その星だけが、なぜか私と同じ、孤独な匂いがした。

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あざみ [Eno.1379] 2025-07-20 01:50:38 No.3964001

私の心を読んだかのように、静かなナレーションの声が、
まるで温度のない川の流れのように続いていく。


『この星は、古くから戦の行方を占う、重要な指標とされてきました。
 特に風水学においてはこう伝えられています』

ごくり、と小さく喉が鳴った。
これから語られる言葉が、何かとても、大切なことなのだと直感が告げていた。


『――破軍星を背にし、軍を進めれば必ず勝ち』

背にする。
つまり、あの星から逃げるように反対の方向へ進めば、勝利が約束される。
けれどナレーターの声は、そこで終わらなかった。


『――破軍星に真正面から向かって進めば、その軍は必ず敗れる、と』

――必ず敗れる。

ぞわり、と全身の肌が粟立った。椅子が急に冷たくなったように感じられる。

勝つ道と、負ける道。
あまりにもはっきりと示された二つの道。

それなら、誰もが迷わずあの星に背を向けるだろう。
敗北が約束された道など、誰が進むものか。

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あざみ [Eno.1379] 2025-07-20 02:07:12 No.3964288

……でも。
もし、前を向いて行きていく私の道が、あの星の方向に続いているのだとしたら?
もし、私が受け入れていかないといけないものが、あの星の輝く先にあるのだとしたら?
私は勝利のために、それに背を向けて逃げることができるのだろうか。

できない。
きっと、私にはできない。

ナレーターの声が、遠くなる。


『故に、破軍星は『消耗』と『開拓』を司るとも言われます。
 自らの身を削り、敗北を知りながら、
 それでもなお道を切り拓く、先駆者の星なのだと……』

ああ……そうか。
だから、破軍星あなたはそんなにも、私と同じ孤独な匂いがしたんだ。
誰もがあなたに背を向けるから。勝利だけを求めて、あなたを見ないようにするから。


「でも、私は――」

その瞬間、胸の奥深くに、冷たい星の欠片が、確かに落ちてきた。
それは、呪いにも似た祝福
敗北の運命を受け入れて、それでも前に進むと決めた者だけが貰える確かな道標
もしかしたら、それは墓標でもあるのかもしれない。

やがて音楽が止み、ドーム全体がゆっくりと明るくなっていく。
星空が消え、見慣れた天井が現れる。
けれど、私の網膜には、まだあの星の光が焼き付いて離れない。


「――破軍」

進めば必ず敗れる、破滅の星。
私の進むべき道が、どちらにあるのか。
もう迷いはなかった。

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[中央住宅街][訓練場]
あざみ [Eno.1379] 2025-07-20 03:26:53 No.3966077

「訓練場ってここか……」

前に知人に聞いていた訓練場とはここのことだろうか。
深夜散歩の途中、偶然発見してしまった。

どうせなら試してみようか。
失ってしまったものについての確認を。

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[中央住宅街][訓練場]
あざみ [Eno.1379] 2025-07-20 03:46:04 No.3966447

プラネタリウムの冷えた空気が、まだ肌に残っているようだった。
深夜の訓練所はしんと静まり返り、置かれた案山子が、
闇の中でぼんやりと浮かんで見える。まるで私のための墓標のようだ、と不意に思った。

いつも使っている投げナイフをシースから一本引き抜く。
その瞬間、指先が強烈な違和感を訴えた。
――重い。ただの鉄の塊が、手のひらに乗っている。
かつて自分の身体の一部のように馴染んでいたはずの重さが、
今は他人行儀のように感じた。神秘遺物外付けの神秘を失った影響はやはり大きい。

息を吸い、止める。右腕を振りかぶる。
いつもの手順、いつものフォーム。身体が覚えているはずの動きスローイング
けれど、指から離れたナイフは、まるで生命を失ったかのように力なく宙を舞い、
案山子のはるか手前で、かん、と乾いた音を立てて地面に落ちた。


「…………」

もう一本。また、次の一本。
狙いを定めようとすればするほど感覚は鈍っていく。
どうやって投げればよかったのか、思い出せない。
ナイフは意志なく飛び、地面に転がり、闇に吸い込まれていく。

あっけなく最後のナイフが手から離れた。
散らばった鉄片と傷一つない案山子。そして、空っぽの手のひら。

それが、今の私。

別に涙は出なかった。
これは悪夢を終わらせたという証なのだから。
刃物の扱い方を失ったという、ただの確認作業でしかない。

胸の奥で、プラネタリウムで感じたあの冷たい星の欠片が、静かに光る。


『必ず敗れる』

そうだった。
私はもう、敗北の道を選んだのだ。なら、これも運命。
失うことも、弱くなることも、すべて受け入れて、それでも――


――私は前に進まなくてはならない。

闇の中、傷一つない案山子を、ただじっと見つめ続けた。

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[中央住宅街][訓練場]
あざみ [Eno.1379] 2025-07-20 04:20:58 No.3966924

この無力な手でどうやってあの星へ向かえというのか。前に進めというのか。
思考が冷たい沼に沈んでいくようだった。

その時、ふと視界の端に立てかけられた武具の棚が映る。
そこに並ぶ数本の木刀。

まるで錆びついた鉄の匂いに誘われるように、
私はふらふらと棚に近づき、その中の一本を、そっと手に取った。
ずしり、と腕に伝わる慣れない重さ。

――その瞬間。

脳を焼くような激痛と共に、忘れることのできない『記憶』が、奔流となって蘇った。

『やめて』と『苦しい』と、声にならない悲鳴を上げていた、あの少女の魂。
少女のプライドだったはずの刀を、私がその手に握り、
何度も何度も、何百回も何千回も、何日間も自身の身体を貫き、砕き、斬り続け――


「……ッ、ぅ……あ……」

口から意味をなさない声が漏れる。
違う。思い出したんじゃない。
あの時の光景が、痛みが、今この瞬間に、すぐ目の前で起きているかのように、
あまりにも鮮明に、自分の身体に刻まれたものが再生されているのだ。
手のひらに残る骨を砕く感触。意識を手放す瞬間の恐怖心。狂い、正気に目覚める感覚。
耳の奥で、それを受け入れるしかない少女の絶望が、甲高く反響している。

――気づけば、私の立ち方が変わっていた。
脇を締め、握り込んだ木刀の切っ先を天に掲げた、あの少女の八相の構え。

違う。これは、私が真似しているんじゃない。
私の身体が、少女がしていた動きを、寸分違わず覚えているのだ。
何度も何度も悪夢として見た少女の動きを、あのとき対峙した少女の動きを、
その動作の通りに、身体が動いてトレースしている。

無意識に行ったその動きは一切の淀みがなく、
まるで元からその場所に木刀があったかのような奇妙な錯覚を覚えさせる。

ぞっとするほどの静寂の中、握りしめた木刀が、
まるで亡者の涙のように、薄紫色の光を帯び始める。
それは生命の輝きなどではない。死の淵から滲み出す、滅びの光。

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[中央住宅街][訓練場]
あざみ [Eno.1379] 2025-07-20 05:14:24 No.3967497

私の身体が、その意志とは無関係に、完璧な踏み込みと共に木刀を振るう。

ヒュッ、と空気を切り裂く音。
それはあの時、少女の魂が最後に発した断末魔の悲鳴によく似ていた。

振り抜かれた木刀は、案山子の首筋寸前のところで、ぴたりと静止している。
罪の記憶が焼き付いた、完璧な一撃。


「……は……っ」

目を見開く。
自分の腕の中にある、不吉な光を纏った木刀を見る。
そして、すべてを、悟った。


――少女あなたはもう、どこにもいない。
ただ、私が少女あなたの魂を殺したというその罪の形だけが、
亡霊のように私に遺されている――

この力は、私があなたから奪い取ったもの。
あなたの誇りを、絶望を、プライドを、その道半ばだった人生のすべてを踏み躙って、
その果てに手に入れた、呪われた遺産。

失ったものと、得てしまったもの。

ああ、違う。私は何も得てなどいない。
ただ、自分の罪の重さを、この身体に、この剣筋に、思い知らされただけだ。


これが、私の選んだ道。
これが、破軍の星の下を歩くということ。

木刀から、ぽたり、と。
薄紫色の光の雫が、まるで血のように訓練所の乾いた土に落ちて、音もなく消えた。

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[北摩湖][囁きの水没林]
あざみ [Eno.1379] 2025-07-20 05:51:50 No.3967647

訓練所を後にして、私は一人、嘆きの水没林へと向かっていた。
一歩、また一歩と最奥へ進むにつれて、
この場所の空気が濃密な哀しみの色を帯びていくのを肌で感じる。
ひたひたと滴る水滴は、まるで森そのものが流す涙のようだった。
湿った土と朽ちた木の匂いに混じって、あの日の血と絶望の臭気が蘇る。

ここは、私が少女の魂を殺した場所。
かつて『最期の記憶』とでもいうべき空間のあった場所。

最奥の一際開けた場所に、その刀はあった。
空間の消失と共に消え去ったのだと思っていたそれは、
古い大樹の根元に、まるで墓標のように無造作に突き立てられていた。

雨に打たれ、泥に汚れ、私の血と骨を浴び砕いたその刀身は酷く刃こぼれしている。
けれど、その存在感だけは、この森のどんなものよりも、
禍々しく、そして悲しく、存在感を放ち、際立っていた。

かつて、あの少女の誇りだったもの。
そして、私がその誇りを、魂ごと砕くために使った、凶器

足が、鉛のように重い。
あと数歩が、永遠よりも遠く感じる。
手を、伸ばせない。
あの柄に触れれば最後、あの日の記憶が、もう一度私を狂わせてしまうかもしれない。


『――破軍星に真正面から向かって進めば、その軍は必ず敗れる、と』

プラネタリウムでの、あの声が聞こえる。

『耳の奥で、それを受け入れるしかない少女の絶望が、甲高く反響している』

訓練所での、あの絶望が胸を焼く。

敗北も、罪も、すべてを受け入れて前を向いて生きていくと、
そう決めたはずではなかったか。
それが私の向かう先なのだと、前方に煌めくのは破軍星なのだと、決めたはずなのに。

震える右手をもう片方の手で強く押さえつけ、無理矢理に、その柄へと伸ばす。

指先が、柄頭に、触れた。

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[北摩湖][囁きの水没林]
あざみ [Eno.1379] 2025-07-20 06:02:44 No.3967677

――その瞬間、絶叫が、脳内で爆ぜた。

痛み。苦しみ。哀しみ。憎悪。絶望。
誇りを砕かれ何度も何度も自らの刃で身を裂かれた、
あの少女の、本当の最期の記憶が、奔流となって流れ込んでくる。
あまりの情報の濁流に膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。

……違う。これはもう、少女の記憶ではない。
この刀自体に染み付いた、決して消えることのない、痛みの記憶。
私が刻み付けた、罪の残響。

私はそのすべてを受け止めるように、柄を強く、強く握りしめた。
そして、酷く刃こぼれした刀を、大地からゆっくりと引き抜く。

ずぶり、と湿った土が離れる音が、やけに生々しい。
天光の届かぬ薄闇の中、その刀を、目の高さに掲げる。
銘などない無骨な一振り。ただの打刀。

けれど、今の私には、その刀身の奥に、一つの星の輝きが見える。
進めば必ず敗れるという、あの破滅の星の瞬きが。

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[北摩湖][囁きの水没林]
あざみ [Eno.1379] 2025-07-20 06:18:43 No.3967701

私は囁く。
それは、この森の奥で二度目の死を迎えた少女への手向けであり、
これから地獄を歩む自分自身への宣言だった。

その銘は――破軍

言葉が音になった瞬間、左眼で刀を捉えた瞬間、
刃がこぼれ、血脂が付着し、もう何物をも断てぬはずの刀身に、
すぅ、と静かに薄紫色の魔力光が走った。

それは、滅びの光。私のの色。

私はその刀を静かに下ろす。
嘆きの水没林には、左眼に仄暗い絶望神秘の色を宿した私自身と、
私の向かうべき道の象徴である『破軍』だけが、静かに佇んでいた。

逝く道は、決まった。

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[北摩湖][囁きの水没林]
あざみ [Eno.1379] 2025-07-20 06:25:13 No.3967719

Episode 0.5
【やがて星が降る】

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次回に向けて

私の行く道が決まった。
恐らくそれは茨の道や修羅の道とでも呼ぶべきものなのかもしれない。
でも仕方ないだろう。
前を向いて生きていくという私の心情が指し示すところのとは、
普通の人にとっては真逆の方向を指し示しているんだと気づいてしまったのだから。

そして私はナイフを投げるという戦い方ができなくなった代わりに、新しく刀の使い方を覚えた。
それに伴って戦闘方法も大きく変わったことになるが、基本的には独りで戦うので言及の必要はなさそう。

次回は私の左眼に宿った新しい神秘について話していきたいと思う。
それを書き記すまではどうにか生きたいと感じている。

私の物語はまだ続いていく。