RECORD

Eno.896 百堂 巡の記録

s11.届かない場所

「8月だなあ」

そんな声に首無の生徒が顔を上げた時、塾の廊下の時計は月を跨いでまだ数時間と経っていない丑三つ時を指していた。
窓から見える空は相変わらずいつもの朝とも夕方ともつかない色に焼けているが、この塾の時計は塾長の意向で表世界に合わせて刻まれている。柱の時計を見上げているのは、丁度、その張本人だった。

独り言なのだろう。
自分以外の何に向けての言葉も4代目はですます付きだ。通りすがりの首無に、8月に関する抜き打ち表知識テストを突きつけた訳ではなさそうだった。
それでもなんとなく気を引かれたのは、その言葉に何かが篭っていた気がしたからだ。

「今月はなんかあるんですか、表」

まだ時計を見上げている背中に呼びかけると、ぬん、とそう大柄でもない体躯が振り返る。おやこんばんは、なんて笑う顔からは今しがたの言葉に含まれていた何かを読み取ることはできそうにない。

「8月は色々ありますよ。夏休みに入るので表の塾も忙しくなりますし、先生も夏季休暇中の課題が……山って程ではないけどそれなりに」
「休みなのに勉強すんのかよ人間……」
「勤勉ですよねえ。あとほら、ウチの塾ができたのもこの時期なんで」
「マジすか」
「マジです」

初耳だ。
いやまあ時間さえしっちゃかめっちゃかな裏世界では日付だって表世界よりは放っておかれがちと言うか、首無自身今この瞬間まで創立記念日なんか気にかけたことは無かったのだが。そもそも何年やってるのかも知らないし。
軽めの衝撃を受けている首無をよそに、塾長は言ってなかったですねえなんて抜かしている。

「今年で何周年だったか……逆算したら分かるんですけどね、パッと出てこないですよねこういうの」
「逆算」
「そう、1945年から」

授業以外ではなあなあなことに定評のある彼には珍しくはっきりと西暦が挙げられる。頭の中で逆算して、首無は首から落っこちない程度に頭を傾けた。
思ったより短い。歴史が。

「意外でした?」
「江戸時代くらいからやってんのかと思ってた」
「寺子屋始まりじゃないんですねえ、これが。その頃はまだ道端にいましたよ」

ふうん、と相槌をひとつ。
まあ道の怪奇なんだから道にいないとおかしいだろう。そう考えると、教育的先導にしたって道じゃない場所にいる今の方が案外イレギュラーだったりするのかもしれない。
だってそうだ。
逸話ひとつでひっくり返るひとではあれど、先生としての逸話なんて彼の口から聞いたことが無い。

「なんで塾始めたんすか?」

芋づる式に引っ張り出された疑問をそのまま放り出すと、塾長はその顔をもう一度時計に向けた。

「帰り道を作れなかったから、ですかねえ」
「帰り道?」
「そう。言われたんです、あの子は良い子だからきっとセンドウさんが連れて帰ってきてくれるって」
「普段から言われてそうすけど……」
「まあねえ。ただ、あの時期は本当によく言われまして。だからちょっとだけ申し訳なかったと言うか……教師も随分居なくなったもんですから、その穴埋めに手を出したのが最初でしたね」

惑わし神は神様じゃないんで。
ぽつんと落ちた言葉はおどけているにしては静かで、悔やんでいるにしては穏やかだった。ただ、懐かしげで、それだけで片付けるには少し苦々しい。

「……赤紙はねえ、どうしようもなかったです。僕には」

焼けたような空の赤色にじっと照らされたまま、何処か寂しげな調子で男は笑う。
言葉の意味を問うのも憚られて、首無はそっと口を噤んだ。