深夜の訓練場は、まるで水底のようにしんと静まり返っていた。
煌々と輝く月だけが、私の覚悟を見透かすように水底まで照らし出している。
これまでに四度行った左眼に宿った新たなる神秘の行使は、
全てが衝動によるものだった。
一度目、二度目、三度目は純粋な破壊衝動。
四度目は決意として、あの少女の遺した無銘の打刀に破軍という銘を刻みつけた。
だが、それでは駄目だ。
この脳が焼き切れるような感覚を伴う左眼に宿った新たなる神秘は、
恐らくだが衝動のままに振るっていいものではないと、本能が警鐘を鳴らしている。
私はこの新たに宿った魔眼の燃費と性能を正確に把握する必要があった。
今日は実験を始めよう。
私は一体の案山子に向き合い、まずは力の精密な制御を試みる。
これが、今日最初の――通算五度目の行使。
RECORD
②ー①
今後どうなるかは私自身よくわからない。
何かを得る代わりに何かを失うという自然の摂理。等価交換。
私は代償として何かを支払いながら、このまま前を向いて生きていくのだろうか。
①
②
「砕け散れ!」
轟音。空気を切る破裂音が耳をつんざく。
案山子は木っ端微塵に砕け散り、その残骸が月下に舞った。
そして、直後。
「が……っ、ぅ……!」
先ほどとは比べ物にならない鈍痛。
頭蓋の内側で剥き出しの神経を直接握り潰されるような、凄まじい激痛。
世界がぐにゃりと歪み、強烈な目眩に襲われて、私は思わずその場に膝をついた。
冷や汗が首筋を伝う。
「はぁ……っ、はぁ……!」
これだ。
これが、この神秘の過負荷に耐えられる限界点。
脳が焼き切れるような激痛。
視覚情報と……何か……脳の別の領域を過剰に酷使している悍ましき感覚。
この痛みと言いしれぬ気持ち悪さに耐えられるのは一日に三回までかもしれない。
体勢を立て直そうと、そばにあった古い杭に手をついた瞬間、
ささくれた木片が手のひらに深く突き刺さった。
「……痛っ……」
激しい頭痛の中でじわりと滲む血と新たな鋭い痛みが、
飛びそうな意識の輪郭をなで上げ、妙にハッキリと現実に連れ戻してきた。
私は血の滲む自分の手を見つめる。
そして、先ほど木っ端微塵にした案山子の残骸に目を移した。
破壊には、新たなる神秘の行使には、これほどの苦痛が伴う。
脳が焼き切れそうなほどの負荷を、私は支払った。
「じゃあ、それなら――」
ふと天啓のような、あるいは悪魔の囁きのような考えが、
頭痛の隙間を縫って、静かに浮かび上がった。
目覚めた経緯。数度の行使。それによって理解出来たもの。
この神秘の本質は恐らく拒絶と否定。
今までの神秘の本質が他者への理解であるならば、この力は真逆の性質を持っている。
そう本能的に理解出来た。理解出来てしまった。自分の心が生み出したものだから。
そう。それならば、頭痛という代償を支払うことによって、
もしも創造が、あるいは修復が、自己否定という形で実現出来るとしたら?
私は血が滲む自分の手のひらをもう一度見つめた。
この小さな傷。血が流れ続け、痛みを伴う木片の鈍痛。
この拒絶と否定の力は、この傷を拒絶し否定し、無かったことにできるのだろうか。
残された今日の限界点は、あと一回。
試す価値は、ある。
いや、試さなければ、前に進めない。
「……どこか、鏡を探さないと」
左眼で自分を視るという実験にはどうしても鏡が必要だ。
私はまだ疼く頭を押さえながら、ふらつく足で立ち上がった。
月下の訓練場を、私は逃げるように後にする。
残された一回の可能性に、自分の心が生み出した神秘の可能性を探るために。
③
脳を内側から万力で締め上げられるような痛みに耐えながら、
私は深夜の街を彷徨っていた。
そして目につきたどり着いた場所は、打ち捨てられた古い雑居ビル。
人の気配も、他人の目も、ここまでは届かないだろう。
錆びた外階段を軋ませながら上り、適当な一室のドアを開けた。
しかし鏡は置かれていない。それどころか何も無い部屋さえある。
次、そのまた次とドアを開けていく。
しばらく探し続けようやく物が捨て置かれた部屋を発見した。
中は埃とカビの匂いが充満しているのがマスク越しでもわかる。
ソファやデスクなどの内装を見るにかつては小さな事務所のような佇まいだ。
月明かりが床に散らばるガラスの破片を鈍く照らしている。
まるで泥棒にでもなったかのように室内を物色。お目当ての鏡、それも姿見を発見した。
幸いなことに割れてもおらず埃を被っているのみ。
ここを私のための人体実験場にしようか。
もし推察が正しければ何度も通う可能性だってある。
一呼吸置いてから私は壁に立てかけられていた姿見の前に、覚悟を決めて立った。
ポケットに仕舞っていたハンカチで姿見の埃を拭い去る。
鏡面に映る自分の顔は、血の気が引いて青白い。
ただ、左眼だけがこの暗闇の中でさえ、仄暗い光を宿しているように見えた。
私はそっと左手を鏡の前にかざす。
杭で傷つけた手のひらからは、まだじわりと血が滲んでいた。
これが今日使っていい最後の一回。通算七度目の神秘の行使。
他者への拒絶と否定の代償に支払ったこの激しい苦痛を、
今度は自己否定のために支払う。
「ふぅ……」
静かに息を整えてから、私は鏡の中の自分の左眼を、まっすぐに見つめ返した。
「私は手に傷なんておっていない!」
どこか祈りにも似た切実な命令。
直後、訓練場の比ではない絶叫すら許さないほどの衝撃が、私の脳天を貫いた。
視界が真っ白に染まり全身から力が抜けて、
鏡に手をつかなければ崩れ落ちていたところだった。
「……っ、は……ぁ……っ」
薄れゆく意識の中、私は視た。
鏡に映る自分の手のひら。裂けた皮膚がみるみるうちに繋がり、
滲んでいた血が跡形もなく消えていくのを。
まるで傷など初めから無かったかのように。
荒い呼吸を繰り返しながら、私は自分の手のひらを見つめる。
痛みも、傷跡も、どこにもない。
「……出来た」
掠れた声が漏れた。
安堵と、それ以上の途方もない可能性に対する戦慄が、私を支配する。
この新たに目覚めた神秘は、他者を拒絶し、否定し、壊すだけの代物じゃない。
自己を拒絶すれば、自己を否定すれば、傷を治せる。
きっと応用すれば自分自身を作り変えることだって出来るはずだ!
私はこの身一つで、自分に課せられた全てのものを覆せるのだ!
――だが、その高揚感は、長くは続かなかった。
④
嵐のような頭痛が引き、凪いだ静けさが訪れた時、
代わりに形容しがたいほどの、巨大な喪失感が私の胸を襲った。
何……?
この心にぽっかりと大きな穴が空いてしまったかのような感覚は。
手のひらの傷は治った。神秘は確かに私の望む結果をもたらした。
それなのに、まるでその傷の治癒と引き換えに、
もっとずっと大事な『何か』を奪い去られてしまったような、
途方もない空虚さが私を包みこんだ。
何を失ったのか――分からない。
それが何だったのか――思い出せない。
確かにそこにあったはずの、温かくて、大切で、かけがえのない『何か』が、
私の内側からごっそりと消え失せてしまった。
その取り返しのつかない予感だけが、絶対的な事実として、私の魂に突き刺さっている。
私は自分の胸を強く掻き抱いた。
癒えた手のひらとその代償として支払わされた見えないけれど巨大な『何か』
この神秘は、私に何を与え、そして何を奪っていくのだろう。
ひび割れた鏡の中の私は、ただ青ざめた顔で答えのない問いに震えているだけだった。
久瀬あざみのプロフィールが更新されました。
大事な『記憶』を一つ失いました。
誰かの手によって強引に2年生に飛び級したという
大切な『記憶』を消失しました。




