数日前にクラスメイトの人たちと原付免許を取りに行った。
でも私だけ当日合格できなかった。
後日免許を取った。今回はただそれだけの話。
①
あれから数日。平穏な日常が戻ってきたかのように見えた。
だが私の心には、あの夜に芽生えた喪失の予感が、
消えない染みのように今もこびりついている。
「……また落ちた」
ソファの上で、原付免許の技能教習の予約票をくしゃりと握り潰す。
一本橋で落ち、クランクでパイロンをなぎ倒す。
なぜあんな簡単なことが私にはできないのだろう。
他のクラスメイトたちは、あんなに簡単に楽しそうにあっさり免許を取っていたのに。
自分への苛立ちが、自分への惨めさが、胸の内で渦を巻いていた。
――あの力を使えば。
その考えが頭に浮かぶのに時間はかからなかった。
肉体の傷さえ癒せるのだ。運動神経や身体の使い方もあるいは……
代償は、あの耐え難いほどの苦痛。だが、それは一時的なものだ。
無意識に洗面台へと身体が動いた。
脱衣所にある鏡。その前に立ち自分の顔を覗き込んでいたことでふと我に返る。
……駄目だ。ここで使っては。
この日常の空間で、あの神秘はあまりにも異質すぎる。
使うならあの場所で。私だけの人体実験場で。
私は決意を固めて家を出た。
︙
私は夜の闇に紛れてアパートを抜け出した。向かう先はあの古い雑居ビル。
街の喧騒から切り離された私だけの秘密の場所。
錆びた外階段を上る足音が静寂に響く。
ドアを開けると埃とカビの匂いが、私を現実から引き離していくようだった。
私は壁に立てかけられた姿見の前に立つ。
ひび割れた鏡面に、決意を固めた自分の顔が映っていた。
これが二度目の自己への神秘行使。二度目の自己否定。
代償は、あの耐え難い頭痛と消耗感。だが半日ほど寝込めば治る。
その程度の対価でスクーターに颯爽と乗れるようになるのなら、安いものではないか。
私はまだ真の代償に気づかぬまま、愚かで、あまりにも楽観的な結論に飛びついた。
鏡越しに己の左眼を静かに見据える。
「私に運転技術がないなんてありえない!」
抽象的で、傲慢な否定。
直後、脳天を貫く激痛と、世界が反転するほどの目眩に襲われる。
私は壁に手をついて必死に耐えた。嵐が過ぎ去るのを待つように、歯を食いしばって。
やがて痛みが波のように引いていくと、不思議な感覚が身体を支配していた。
バランスの取り方、アクセルの回し方。重心移動、繊細なアクセルワーク。
全ての挙動が、まるで自分の手足のように、手に取るように理解できる。
まるで十年も乗り続けたベテランのように、その全てが分かる。
代償は支払った。そして望むものは手に入れた。
私はまだ少し残る頭痛に顔を顰めながらも、満足してセーフハウスを後にした。
︙
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[Eno.1379]
2025-08-07 03:03:42
No.5169301
久瀬あざみのプロフィールが更新されました。
大事な『記憶』を一つ失いました。
所持品を一つ失いました。
︙
②
ふらつく足取りで自分の部屋に戻る。疲労困憊だった。
もう何も考えずベッドに倒れ込みたい。
そう思ってリビングを横切った、その時だった。
ふと、廊下の右側にある扉が、目に留まった。
そして私は、足を止めた。何だろう……この感覚は。
右側の部屋。私の部屋は左側。間取りは2LDK+S。
だから、ここにもう一つ部屋があるのは、当たり前のことだ。
分かっている。頭では、分かっているのに。
その扉が、そこにある意味が、どうしても分からない。
まるで舞台セットの書き割りのように、その部屋だけが現実感を失っている。
酷い違和感に、心臓が嫌な音を立て始めた。
「……この部屋……」
私は、何かに導かれるように、その扉に手をかける。ゆっくりと開くと、
そこは今は物置として使っている殺風景な空間が広がっているだけだった。
でも、違う。
私の魂が、『記憶』が、悲鳴を上げている。
この部屋は、こんな空っぽの場所ではなかったはずだ。
かすかに思い出す。陽だまりの匂い。
私のものではない甘いシャンプーの香り。楽しげな笑い声。
私は家では決して飲まない紅茶の匂い。
ゆっくりと真綿で私の首を絞めてくるような束縛されているような感覚。
私には荷が重すぎる仄暗い感情をぶつけられてくるような感覚。
すれ違い。痛み。楽しさと気持ち悪さ。
清濁を含んだ感情が湧き上がる。だがその誰かの顔が思い出せない。
かつて誰かが、この部屋にいた。
︙
私と一緒にこの家で暮らしていた誰か。
「……誰……?」
必死に『記憶』を手繰り寄せようとする。
けれど名前も、顔も、声も、何もかもが、思い出せない。
思い出そうとすればするほど、その誰かの輪郭は、濃い霧の中に溶けて消えていく。
あの最初の夜に感じた喪失感の正体。
私の神秘が喰らう代償は、ただの頭痛などではなかったのだ。
「あ……ああ……っ!」
私はその場に崩れ落ちた。ズキズキと痛み始める左眼。
まるで涙が零れ落ちるように熱い何かが流れ出し、服を、床を、赤く染め上げる。
私は失くしたのだ。
自分の願いを叶えるために、自分を否定するために、この左眼で。
かつてこの部屋で、笑い合っていたはずの誰かの『記憶』を。
知りたくなかった。こんな真実、気づきたくなかった。
だけど……もう遅い。
左眼に宿った新たな神秘の特性が暴かれた。
私の罪は、私自身の前に、はっきりと姿を現してしまった。
何かを否定して何かを得る対価として『記憶』を失うということを。
私は誰もいなくなったはずの部屋に向かって、ただ嗚咽するしかなかった。
︙
③
あれだけ苦労していた実技試験は、
特に言うこともなく簡単にあっけなく突破できた。
講師の人が褒めてくれていたが特に感慨もない。
次はブルーバックの証明写真を撮る。
無表情には慣れている。じっとカメラを見つめた。
その後ビデオを見せられたが特に感想は抱かなかった。
事故を起こしたらこうなるのは当たり前とすら思えてしまった。
ビデオを見終わり少しだけ待たされ、
受付の女性から笑顔で出来たばかりの免許証を渡された。
軽く会釈してそれを受け取る。
何の感情も感想もないまま私は念願の原付免許を取得した。
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[北摩モノレール西部区間][アビタシオン北摩西]
あざみ
[Eno.1379]
2025-08-08 03:19:24
No.5199804
駐輪場に停めてあったスクーターに足を乗せる。
既に購入してしまっていたそれにやっと乗れた。
初めてエンジンをかける。振動が身体に伝わる。
少し走らせようと思い至り、私は街へと繰り出した。
特に楽しさや嬉しさ、達成感というものはそこにはなかった。
︙
この神秘について思ったこと
私は新しく宿ったこの左眼の神秘のことがとても怖い。
だけどこの力はだめな私を正しい人間にしてくれる気がしてる。
相応のデメリットは確かに存在する。しかし無限の可能性をも孕んでいる。
正直に言えば怖い。でも必要になったらまた自分に対して使ってしまうかもしれない。
例え全ての『記憶』を失ってしまっても。