RECORD

Eno.1379 久瀬 あざみの記録

前を向いて生きていく


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あざみ [Eno.1379] 2025-08-31 01:52:18 No.5971853

8月31日、午前4時。
夜の青と朝の白が溶け合う境界線のような時間。
夏の終わりを告げる虫の声だけが、しんと静まり返った空気に響いていた。

北摩市の街は、まだ深い眠りの中にいるかもしれない。
昨日までの喧騒が嘘のように、全ての音が吸い込まれてしまったみたいだ。

ひんやりとした明け方の風が、私の頬を優しく撫でていく。
その風は、土の匂いと、ほんの少しだけ湿ったアスファルトの匂いを運んできた。
こういう些細な空気の変化に、私は人より少しだけ敏感だった。

荷物は昨日のうちに、ほとんど地元に送ってしまった。
スクーターのリアキャリアに括り付けたいつも持ち運んでいる小さな鞄には、
お財布と、スマホと、モバイルバッテリー。
そして刀から作ったデザインナイフ――司命丸と天府丸が入っているだけ。

道端から、ぼんやりと私の住んでいたアビタシオン北摩を見上げる。
思い起こされるのはこの街で過ごした『記憶』

楽しかったこと、嬉しかったこと。
そして、どうしようもなく心細かった夜のこと。
神秘の副作用で『記憶』が虫食いになったせいで、
思い出せない記憶もいくつかあるのだろうと思った。

次に思い起こしたのは学校の『記憶』
クラスの中では、私はいつも少しだけ浮いていた。

たくさんの声が一度に聞こえてくると、
どれが本当の気持ちなのか分からなくなって、頭が真っ白になってしまう。
誰かの些細な表情の変化に、勝手に心を痛めて疲れてしまう。

そんな私の性質は、きっと誰かの役には立てなかったと思う。
むしろ恥ずかしくて、申し訳なく感じて、極力人前では出さないようにしていた。

唯一そういう私の性質を出してもいいかなと思える人たちもいた。
けれど、気を遣わせてしまったことの方が多かったかもしれない。

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あざみ [Eno.1379] 2025-08-31 02:12:00 No.5972360

それでも、私には友達ができた。たった3人。
でも、私にとっては、世界で一番大切な、3人。

いつも賑やかで楽しくて、私とは正反対のコミュ強で、引っ張って行ってくれたあの人。
周りのことをいつも気にかけていて、優しくて、気遣いの出来る大人っぽいあの人。
部活でも一緒で、いつも正論しか言わない目が綺麗なあの子。

みんなの顔を思い出すと、胸の奥がきゅうっと甘く痛む。
まるで熟れすぎた果実をそっと指で押した時みたいに。

そう友達のことを考えながら、静かにマンションの駐輪場にやって来る。
停めてある私のスクーターは主の帰りを待っていたかのように静かに佇んでいた。
このスクーターに乗って、休み休み半日かけて地元へと帰るつもりだ。
夏休み最終日に相応しい大冒険になるかもしれない。


「……行こうか」

誰に言うでもなく呟いて、ヘルメットを被る。
カチリ、と顎紐を締める音が、旅立ちの合図に聞こえた。

キーを回すと、控えめなエンジン音が静寂を破った。
ぶるり、と車体が震える。その振動が私の心臓の鼓動と重なって、
不安と期待がないまぜになった不思議な気持ちが身体中を駆け巡った。

ゆっくりとアクセルを捻り、マンションを後にする。

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あざみ [Eno.1379] 2025-08-31 02:22:49 No.5972585

見慣れたコンビニの角を曲がり、駅へと続く坂道を下る。
一度寄ったことのある大きなパンを売っているお店。
懇親会に参加出来ず、結局一度も寄れなかった喫茶店。
学校へと続く通い慣れた通学路。

今まで何も感じていなかった風景の一つひとつが、
まるで映画のワンシーンみたいに目に焼き付いて、後ろへと流れていく。
もう見ることもないかもしれない、そんなこの街での日常の景色。

市街地を抜けると、景色は少しずつその姿を変えていった。
いくつもの丘を越え、大きな川にかかる橋を渡る。
川面が朝の光を浴びて銀色にきらきらと輝いていた。
この川を越えたら、もうあの街の空気とはお別れだ。

都会の密集した建物がまばらになり、空がどんどん広くなっていく。
道の両脇には緑が増え、風の匂いが変わったことに気が付く。
アスファルトと排気ガスの匂いから、草木と土が混じった、もっと懐かしい匂いへ。

私は地元に帰る。お爺ちゃんの、あの古くて小さい田舎の模型屋さんを継ぐために。

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あざみ [Eno.1379] 2025-08-31 02:32:42 No.5972717

正直に言うと、私には模型の知識なんてほとんどない。
プラモデルを組み立てた経験も数えるほどだし、塗料の種類だってよく分かっていない。
無謀な挑戦だということは、自分が一番よく分かっていた。

でも、あの店の空気が好きだった。
小さな埃が光に舞う静かな午後。田舎の店舗故に暇だったあの空間。
接着剤のシンナーみたいなツンとした匂い。
パーツにヤスリをかける静かな摩擦音。
黙々とプラモデルに向き合うお爺ちゃんの、あの縮こまった背中。
作業の休憩中にお爺ちゃんがよく飲んでいた、インスタントコーヒーの香ばしい香り。

そこは、私にとって世界で一番安心できる場所だった。
HSPの私が、唯一心を穏やかに保てる聖域。

だから、守りたいと思った。
ただ、それだけ。

知識も、経験も、何もないけれど、
この「好き」という気持ちだけは、誰にも負けない自信がある。

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あざみ [Eno.1379] 2025-08-31 02:46:27 No.5972946

スクーターは順調に距離を稼いでいく。
いくつもの街を通り過ぎ、標識の地名が目まぐるしく変わっていく。
太陽がすっかり顔を出し、アスファルトの照り返しが眩しい。
ヘルメットの中は少し汗ばんできたけれど、頬を撫でる風は心地よかった。

北摩市を出て、もう何時間経っただろう。
だんだんと遠くに見える山の稜線に見覚えがあるような気がしてきた。
私の故郷を、いつも静かに見守ってくれている、あの優しい山々のシルエット。

ああ――帰ってきたんだ。

北摩市での日々は、裏世界というものに触れてきた日々は、
もしかしたら夢だったのかもしれない。
でも、夢じゃない。
その結果生まれた2本のデザインナイフが、
リアキャリアの上で確かに私と一緒に旅をしている。

私のこの繊細すぎる心は、臆病で人とあまり触れ合えなかった心は、
誰かの人生という物語に彩りを添えることも、役に立てることもなかったかもしれない。

けれど、この心があったから、誰かの優しさを、そのほんの欠片も取りこぼすことなく、
全部、全部、受け取ることができたように思える。
陽だまりのような温かさも、胸が張り裂けそうになる切なさも、
北摩という街に訪れた私の心を豊かに彩ってくれた。

それで十分だ。ううん、十分すぎるくらいだ。

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あざみ [Eno.1379] 2025-08-31 02:52:38 No.5973059

前方に伸びる、どこまでもまっすぐな一本道。
その先には、私の帰る場所と、私の新しい未来が待っている。

北摩市で得た、この温かい光を胸に灯して。
私は、私の足でちゃんと立って、前を向いて生きていく。

ヘルメットの中で、私はそっと微笑んだ。
ありがとう、北摩市。
さようなら、臆病だった昨日の私。

――私の未来を、作りに行こう。

アクセルをもう少しだけ強く捻る。
私の小さなスクーターは、夏の終わりの青空の下、
未来へと続く道を、軽やかに走り抜けていった。

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  [Eno.1379] 2025-08-31 03:00:15 No.5973178

Episode FINAL
 【The Over】

――END

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