8月31日、午前4時。
夜の青と朝の白が溶け合う境界線のような時間。
夏の終わりを告げる虫の声だけが、しんと静まり返った空気に響いていた。
北摩市の街は、まだ深い眠りの中にいるかもしれない。
昨日までの喧騒が嘘のように、全ての音が吸い込まれてしまったみたいだ。
ひんやりとした明け方の風が、私の頬を優しく撫でていく。
その風は、土の匂いと、ほんの少しだけ湿ったアスファルトの匂いを運んできた。
こういう些細な空気の変化に、私は人より少しだけ敏感だった。
荷物は昨日のうちに、ほとんど地元に送ってしまった。
スクーターのリアキャリアに括り付けたいつも持ち運んでいる小さな鞄には、
お財布と、スマホと、モバイルバッテリー。
そして刀から作ったデザインナイフ――司命丸と天府丸が入っているだけ。
道端から、ぼんやりと私の住んでいたアビタシオン北摩を見上げる。
思い起こされるのはこの街で過ごした『記憶』
楽しかったこと、嬉しかったこと。
そして、どうしようもなく心細かった夜のこと。
神秘の副作用で『記憶』が虫食いになったせいで、
思い出せない記憶もいくつかあるのだろうと思った。
次に思い起こしたのは学校の『記憶』
クラスの中では、私はいつも少しだけ浮いていた。
たくさんの声が一度に聞こえてくると、
どれが本当の気持ちなのか分からなくなって、頭が真っ白になってしまう。
誰かの些細な表情の変化に、勝手に心を痛めて疲れてしまう。
そんな私の性質は、きっと誰かの役には立てなかったと思う。
むしろ恥ずかしくて、申し訳なく感じて、極力人前では出さないようにしていた。
唯一そういう私の性質を出してもいいかなと思える人たちもいた。
けれど、気を遣わせてしまったことの方が多かったかもしれない。
それでも、私には友達ができた。たった3人。
でも、私にとっては、世界で一番大切な、3人。
いつも賑やかで楽しくて、私とは正反対のコミュ強で、引っ張って行ってくれたあの人。
周りのことをいつも気にかけていて、優しくて、気遣いの出来る大人っぽいあの人。
部活でも一緒で、いつも正論しか言わない目が綺麗なあの子。
みんなの顔を思い出すと、胸の奥がきゅうっと甘く痛む。
まるで熟れすぎた果実をそっと指で押した時みたいに。
そう友達のことを考えながら、静かにマンションの駐輪場にやって来る。
停めてある私のスクーターは主の帰りを待っていたかのように静かに佇んでいた。
このスクーターに乗って、休み休み半日かけて地元へと帰るつもりだ。
夏休み最終日に相応しい大冒険になるかもしれない。
「……行こうか」
誰に言うでもなく呟いて、ヘルメットを被る。
カチリ、と顎紐を締める音が、旅立ちの合図に聞こえた。
キーを回すと、控えめなエンジン音が静寂を破った。
ぶるり、と車体が震える。その振動が私の心臓の鼓動と重なって、
不安と期待がないまぜになった不思議な気持ちが身体中を駆け巡った。
ゆっくりとアクセルを捻り、マンションを後にする。

