RECORD

Eno.896 百堂 巡の記録

d17.抜け道

「其の身体で団地に行ったんか」
「あら。何方かからお聞きになったの? こなのおじい様」

とある蚕の妖が棲む古屋敷は、玄関でさえも白い糸で埋め尽くされてさながら繭の内側のようになっている。
蚕の爺様。こなの翁。
男嫌いで知られる巨大な芋虫の問いかけに、ぴんと背筋を伸ばして上がりかまちに腰かけていた少女はことりと首を傾げて、青い怪火の灯る眼をはたはたと瞬かせた。

「エエ、確かに行きました。
 おじい様に壁足キャラメルをお渡しした後に」

今から数日ばかり前。
重たい体では届かない場所の掃除をするからと、蚕は少女の手に銭を握らせてはるばる⎯⎯少女にはなんてことないかもしれないが⎯⎯螺千城まで使いへやった。
果たして少女は日も空けずに壁でも天井でもお構い無しに歩ける菓子を手に戻ってきて、その後に。そう、珍しくもその姿のままだったらしい。

「織物取りに来た雪女が言うとった。
 初代なんぞがころにすとに来た、4代目は壊れたのかってな」
「それでご心配してくださったの?」
「儂がどうして野郎の心配せにゃあならん、雪女よ。先に会ったら聞いてくれとな」
「まあ」

悪いことしてしまったわ。
大人の半歩手前、まだ少し幼さの残る顔立ちがふわりと曇る。

姿を持たない怪奇が、人の子の頭を撫でるために作った化身。
時代に合わせて作り直されていく中で最も古いものが、今こうして蚕と言葉を交わしている少女だった。

「違いますのよ。ほら、ここしばらく人間と話す機会もずいぶん増えてきたものだから……4代目の姿しかないものと思われてしまうのも良くないでしょう?」
「はあ。其の所為で他の姿が取れんようになれば、表でも生きていかれんようになるか」
「ですからお散歩に行ったんです。
 4代目は特に固く作ったから、簡単に壊れやしなくってよ」

雪女のお姉様には後で文を打ちましょう。
海老茶式部の出で立ちでも、きゅっとその手に握られているのは人間の使う機械だ。画面に映った老人にはひとつも分からない小さな四角い絵柄を目で追って、「それにね」と少女は少しばかり苦笑いのような顔をした。

「私、4代目より素直ですの」
「素直?」
「私に興味を持っている人間がいるのなら、あの手この手で自己紹介をするくらいは理に外れていないと思っていてよ」

問われなければ答えない。
祈られなければ応えない。
差し出されなければ受け取らない。
踏み抜けない決まりの間を縫うようにして、最初の化身は己が何たるかの断片をその身を以て人の目の届く場所に置いてきたらしい。

語られなければ忘れ去られるべきである。
いつか蚕に語った少女は、それを「月の都の決め事」と喩えていた。

「此度は顔を出す道理建前があってよろしゅうございました。
 心が欠けているものは其方ばかり見ますの」

また今度替わろうかしら、なんて。
にこにこ笑う少女の中身自体が心無い其れであると言うのだから、心と人並みの頭のある蚕はどうにもこの怪奇の仕組みを測り切ることができずにいる。

分かるのはひとつだけ。

「其れで真面目を標榜しよるんだから、ヤッパリお前さん狐の類なんじゃあないか」
「違いますわ、自分の心にも真面目なだけです!」