RECORD
Eno.896 百堂 巡の記録
d19.悪巧み
この子が人間でなくて良かったな、と思った。
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ずぶ濡れの頭をタオルに埋めながら、きっとまだ心根が若いだろう怪奇は神妙な声でそう言った。
悪性の本性。
死なない体。
いつひっくり返って元に戻ってしまうかも分からない自分の存在に怯える化生は、どうしようもないくらい人間のような顔をしているように見えた。
手遅れだ、と血を吐くような言葉。
受け止めようなんて思わないでくれと、ここにいない誰かを案じる懇願のような声。
「なるほど。今にも自分が誰かに何かをしてしまうかもしれないから、そうなるくらいなら、と」
「仲良くなると何処までも手を差し出してくる人はいますからねえ……怪奇でも、人間でも」
「本性をひっくり返すことはできる、と。
……いや、コントロールは効かないんでしょうけど」
相槌だけを続ける。
それしかできない、と言うよりは。
たぶん、そうするのが今の僕の仕事だろうと思った。
果たして、濡れた服もそのままに、若い怪奇はまた人の来ない場所を目指して征くのだと言った。
猶予が無い。
期限が近い。
そんな調子で顔を曇らせていた。
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この子が人間でなくて良かった。
少なくとも、僕からしてそう見えない存在で良かった。
その願いに、応える必要が無かったから。
蛇の目傘に鈴を括る。
道標のため。見張りのため。願いを成就させないため。誰かがあの子を探そうとした時に、うっかり滑らせる言葉の用意のため。
足取りを追いかけるための、いつ気づかれて放り捨てられるかも分からない脆弱なまじないを。
「すみませんね。
たまには帰してやりたいんですよ」
障子の向こうの独り言。
こうして用意したところで、追いかけてきたのが人間なら言葉は喉元でつっかえて消えるだけかもしれない。
そもそも、雨風の中に紛れてきた姿なんて誰も見ていなくて、足取りを辿ってくる者もいないかもしれない。
それでも。
それでも。
あの日と違って、己には追いかける足も肩を掴む手も諌める口も大人としての大義名分もあるものだから。
「何もしない、なんて。
選べるほどの思いやりは無いんですよねえ」
お詫びにおにぎりをひとつ、ふたつ。
人間でも怪奇でも、お腹を空かせている子供を見るのは好きじゃないから。
「行ってらっしゃい。
大事に使ってやってくださいね、傘」
とぼけた態度で差し出す仕込み。
遠のいていく苦しげな背中。
この時間が、どこかで君の足を引っ張りますように。
発端
「遠い場所を探していて。
誰も来ない、来れないような所を」
ずぶ濡れの頭をタオルに埋めながら、きっとまだ心根が若いだろう怪奇は神妙な声でそう言った。
悪性の本性。
死なない体。
いつひっくり返って元に戻ってしまうかも分からない自分の存在に怯える化生は、どうしようもないくらい人間のような顔をしているように見えた。
手遅れだ、と血を吐くような言葉。
受け止めようなんて思わないでくれと、ここにいない誰かを案じる懇願のような声。
「なるほど。今にも自分が誰かに何かをしてしまうかもしれないから、そうなるくらいなら、と」
「仲良くなると何処までも手を差し出してくる人はいますからねえ……怪奇でも、人間でも」
「本性をひっくり返すことはできる、と。
……いや、コントロールは効かないんでしょうけど」
相槌だけを続ける。
それしかできない、と言うよりは。
たぶん、そうするのが今の僕の仕事だろうと思った。
果たして、濡れた服もそのままに、若い怪奇はまた人の来ない場所を目指して征くのだと言った。
猶予が無い。
期限が近い。
そんな調子で顔を曇らせていた。
「…すみません。
もうこれ以上誰かを傷つけたくはなくて」
この子が人間でなくて良かった。
少なくとも、僕からしてそう見えない存在で良かった。
その願いに、応える必要が無かったから。
蛇の目傘に鈴を括る。
道標のため。見張りのため。願いを成就させないため。誰かがあの子を探そうとした時に、うっかり滑らせる言葉の用意のため。
足取りを追いかけるための、いつ気づかれて放り捨てられるかも分からない脆弱なまじないを。
「すみませんね。
たまには帰してやりたいんですよ」
障子の向こうの独り言。
こうして用意したところで、追いかけてきたのが人間なら言葉は喉元でつっかえて消えるだけかもしれない。
そもそも、雨風の中に紛れてきた姿なんて誰も見ていなくて、足取りを辿ってくる者もいないかもしれない。
それでも。
それでも。
あの日と違って、己には追いかける足も肩を掴む手も諌める口も大人としての大義名分もあるものだから。
「何もしない、なんて。
選べるほどの思いやりは無いんですよねえ」
お詫びにおにぎりをひとつ、ふたつ。
人間でも怪奇でも、お腹を空かせている子供を見るのは好きじゃないから。
「行ってらっしゃい。
大事に使ってやってくださいね、傘」
とぼけた態度で差し出す仕込み。
遠のいていく苦しげな背中。
この時間が、どこかで君の足を引っ張りますように。
