RECORD
Eno.96 加瀬秋日佐の記録
深夜、駅に降り立った男が辺りを眺める。
遅い時間だが、静かではない。人の姿も幾らか見えるのは同じ電車から降りた人間が数人はいたから。
暫くすると辺りの観察に満足したのか、男はスマホをポケットから取り出す。通話アプリを取り出せば画面を叩く。確認した後にポケットに戻した。
帰省は半年ぶりだった。けれどもこの程度の期間では何もかもそこまで変わらない、というのが正直な感想だった。
駅は記憶の中にある景色とさして変わりはない。己自身もあまり変わらない、ような気がする。
駅構内から出れば、男は辺りを見渡す。すぐに目当てのものを見つけて、そちらへ向かった。
よく知った車の元へ。向かえばこれまたよくよく知った顔を見た。運転手の方が先に男を見つけたらしく、車の中で片手をあげていた。
男は車の扉を開けて、荷物を放り込んでから車に乗り込んだ。
「すまんなあ、タクシーでも良かったんに」
「ええよ、こんくらい」
言葉少ない運転手――父親の声は懐かしくも、馴染み深い。
「おとんってこの時間っていつも起きとるん」
「まあ。母さんはもう寝とる」
「せやろなあ。そら急に夜更かしにはならんわな」
何てことのない会話の間にエンジンがかけられる。
歩けばそこそこの時間がかかる距離であっても、車に乗っていれば大したことのない時間しかかからない。
会話も疎らに窓の外の景色を眺めていれば、二十年以上を過ごした家が視界に入った。静かに車が駐車場所に収まれば、荷物を手に取って降りた。
自室に荷物を置いて、一息つけばリビングへ。
冷蔵庫を覗けば夕飯の残りがあるのは連絡を受けていたから知っていた。それを電子レンジに入れて温めながら、風呂を追い焚きする。
己の場所とかつては決まっていた椅子に腰掛けてテレビを点けると、深夜であっても賑やかな声がリビングに響いた。
「秋日佐」
「なん」
「お前も飲むか?」
「飲む」
続いて冷蔵庫を開けていた父親がビールの缶を二本手に取って、同じく決まった席につく。座席の配置はやはり男が家を出る前と変わらない。
渡された缶を受け取れば、カシュと音を立てて開けて、乾杯をすることもなくそのまま飲み始めた。
「おとん、この半年で何や変わったことあった?」
「特には。お前の方こそどうなんや」
「や、特には?」
テレビを眺めたまま、視線を父親に向けずに男は応える。己自身はあまり変わらないと思うものの、変わったことは確かにあった。
けれどもあちら側の話は知らぬものに語ってはならないのだから、触れるべきではない。そんな建前が都合よくあるものだから、堂々と沈黙を選べた。
「北摩どうや」
「おもろいで。やっぱあんだけ学校集まっとる場所はええわ」
「こっちのがええことはないんか」
「今んとこあんまないなあ。時々論文の取り寄せ必要になるんは変わらんし、現地行こ思うたら北摩のが近いし。
でっかい学会はこっちやけど、専門のやったら東であるし」
これもまた何ら嘘ではない。
学術都市なだけあって、北摩市の研究環境は極めて優れている。書籍も、論文も、多くはあの巨大な図書館で済むのがどれほど助かっていることか。
時折必要になるのは博物館付きのマイナーな冊子の論文辺り。それは北摩でなくとも変わらなかった。
「そうや。お前秋の展示見に来たんか」
そう思いを巡らせていた男は、問われれば「あ」と声を漏らした。
毎年秋に行われる宝物庫の整理に伴う展覧会は昔からずっと通い続けていたものだ。
幼いころは両親に連れられて、長じてからは一人の時もあれば学友と共に行く場合もあった。かつて親と共に見た仏像に心を奪われてから、毎年変わる展示を見に行くのが秋の風物詩とも言えた。
それを逃したのは、習慣となってからは初めてのことだった。
「まあ、向こうから来るんは大変やな」
息子の様子に父親はひとり納得して、銀色の缶を煽りながら大根を箸の先で割る。
今日の夕飯はぶり大根だったらしい。男の前の小鉢でもそれが湯気を立てている。
その軌跡を目で追って、それからようやく男は口を開いた。
「そう、せやな」
北間から実家まではたったの数時間しか掛からない。昼に思い立てば電車と新幹線を乗り継いて、夜には辿り着く。
それでもそうしなかった。確かにどうしても帰れない時期はあったけれども、それが解消されてもなおそうしなかった。
そうしないことを、選んでいた。
「何遍も帰ってくるんは大変やろけど、たまには来いや。母さんも心配しとるし」
「電話めっちゃ来たわ」
「なかなか出んって怒っとったで」
「あれ無茶やわ。昼間なんか授業中やん」
ようやく帰った実家は変わりなく、冬の只中の大晦日であっても暖かい。
それを男は知っている。
風呂のできあがりを知らせる音楽が流れた後も、リビングでは家族の談話が一区切りつくまで続いていた。
帰省1
深夜、駅に降り立った男が辺りを眺める。
遅い時間だが、静かではない。人の姿も幾らか見えるのは同じ電車から降りた人間が数人はいたから。
暫くすると辺りの観察に満足したのか、男はスマホをポケットから取り出す。通話アプリを取り出せば画面を叩く。確認した後にポケットに戻した。
帰省は半年ぶりだった。けれどもこの程度の期間では何もかもそこまで変わらない、というのが正直な感想だった。
駅は記憶の中にある景色とさして変わりはない。己自身もあまり変わらない、ような気がする。
駅構内から出れば、男は辺りを見渡す。すぐに目当てのものを見つけて、そちらへ向かった。
よく知った車の元へ。向かえばこれまたよくよく知った顔を見た。運転手の方が先に男を見つけたらしく、車の中で片手をあげていた。
男は車の扉を開けて、荷物を放り込んでから車に乗り込んだ。
「すまんなあ、タクシーでも良かったんに」
「ええよ、こんくらい」
言葉少ない運転手――父親の声は懐かしくも、馴染み深い。
「おとんってこの時間っていつも起きとるん」
「まあ。母さんはもう寝とる」
「せやろなあ。そら急に夜更かしにはならんわな」
何てことのない会話の間にエンジンがかけられる。
歩けばそこそこの時間がかかる距離であっても、車に乗っていれば大したことのない時間しかかからない。
会話も疎らに窓の外の景色を眺めていれば、二十年以上を過ごした家が視界に入った。静かに車が駐車場所に収まれば、荷物を手に取って降りた。
自室に荷物を置いて、一息つけばリビングへ。
冷蔵庫を覗けば夕飯の残りがあるのは連絡を受けていたから知っていた。それを電子レンジに入れて温めながら、風呂を追い焚きする。
己の場所とかつては決まっていた椅子に腰掛けてテレビを点けると、深夜であっても賑やかな声がリビングに響いた。
「秋日佐」
「なん」
「お前も飲むか?」
「飲む」
続いて冷蔵庫を開けていた父親がビールの缶を二本手に取って、同じく決まった席につく。座席の配置はやはり男が家を出る前と変わらない。
渡された缶を受け取れば、カシュと音を立てて開けて、乾杯をすることもなくそのまま飲み始めた。
「おとん、この半年で何や変わったことあった?」
「特には。お前の方こそどうなんや」
「や、特には?」
テレビを眺めたまま、視線を父親に向けずに男は応える。己自身はあまり変わらないと思うものの、変わったことは確かにあった。
けれどもあちら側の話は知らぬものに語ってはならないのだから、触れるべきではない。そんな建前が都合よくあるものだから、堂々と沈黙を選べた。
「北摩どうや」
「おもろいで。やっぱあんだけ学校集まっとる場所はええわ」
「こっちのがええことはないんか」
「今んとこあんまないなあ。時々論文の取り寄せ必要になるんは変わらんし、現地行こ思うたら北摩のが近いし。
でっかい学会はこっちやけど、専門のやったら東であるし」
これもまた何ら嘘ではない。
学術都市なだけあって、北摩市の研究環境は極めて優れている。書籍も、論文も、多くはあの巨大な図書館で済むのがどれほど助かっていることか。
時折必要になるのは博物館付きのマイナーな冊子の論文辺り。それは北摩でなくとも変わらなかった。
「そうや。お前秋の展示見に来たんか」
そう思いを巡らせていた男は、問われれば「あ」と声を漏らした。
毎年秋に行われる宝物庫の整理に伴う展覧会は昔からずっと通い続けていたものだ。
幼いころは両親に連れられて、長じてからは一人の時もあれば学友と共に行く場合もあった。かつて親と共に見た仏像に心を奪われてから、毎年変わる展示を見に行くのが秋の風物詩とも言えた。
それを逃したのは、習慣となってからは初めてのことだった。
「まあ、向こうから来るんは大変やな」
息子の様子に父親はひとり納得して、銀色の缶を煽りながら大根を箸の先で割る。
今日の夕飯はぶり大根だったらしい。男の前の小鉢でもそれが湯気を立てている。
その軌跡を目で追って、それからようやく男は口を開いた。
「そう、せやな」
北間から実家まではたったの数時間しか掛からない。昼に思い立てば電車と新幹線を乗り継いて、夜には辿り着く。
それでもそうしなかった。確かにどうしても帰れない時期はあったけれども、それが解消されてもなおそうしなかった。
そうしないことを、選んでいた。
「何遍も帰ってくるんは大変やろけど、たまには来いや。母さんも心配しとるし」
「電話めっちゃ来たわ」
「なかなか出んって怒っとったで」
「あれ無茶やわ。昼間なんか授業中やん」
ようやく帰った実家は変わりなく、冬の只中の大晦日であっても暖かい。
それを男は知っている。
風呂のできあがりを知らせる音楽が流れた後も、リビングでは家族の談話が一区切りつくまで続いていた。